芥川賞を読む 第35回『蹴りたい背中』綿矢りさ

文筆家
水上修一

高校生の微妙で微細な人間関係の揺れと痛みを描く

綿矢りさ(わたや・りさ)著/第130回芥川賞受賞作(2003年下半期)

まだ破られていない史上最年少受賞

 綿矢りさは、17歳の高校時代に初めて書いた小説「インストール」が文藝賞を受賞して、19歳の早稲田大学在籍中に書き上げた2作目「蹴りたい背中」が芥川賞を受賞。それ以降まだ芥川賞受賞の最年少記録は破られていない。
 第130回の芥川賞は、前回紹介した金原ひとみの「蛇にピアス」とこの「蹴りたい背中」がW受賞し、若い女性2人のW受賞は世間を大いに賑わせた。しかも、授賞式での二人の風貌は、金原ひとみが茶髪に黒いミニスカートと黒いニーハイソックス姿、綿矢りさは黒髪に膝下スカートとカーディガンという、その作風を彷彿とさせる対称的なものだったので、なお一層注目を集めた。
「蹴りたい背中」の舞台は高校生活。上っ面の人間関係構築にエネルギーを割くことに背を向けた女子高生「私」の、周囲に馴染むことへの反発の中で感じる孤立の痛みと恐れは、多くの思春期の子どもたちに多かれ少なかれ共通する感覚だろう。クラスの中でもう一人の浮いた存在が、ある特定のアイドルに異様な執着を見せるオタク男子の「にな川」だ。ある出来事をきっかけとして、まったくタイプの異なる2人が不思議な距離感の中でつながっていく。
 物語自体のスケールは狭く小さい。それは、19歳という年齢から考えれば当たり前のことなのだが、だがしかし、その狭い世界の中で繰り広げられる人間関係の実に微細な揺れをあまりにも鮮やかに描き切っているところは、もはや才能と言うしかない。小説の一つの要素は人間関係を描くものだとすれば、これだけのものを描ける19歳の才能は、経験と共に広がり豊饒なものになっていくのは当たり前であろう。実際、その後も、「かわいそうだね?」で大江健三郎賞、「生のみ生のままで」で島清恋愛文学賞を受賞するなど、息長く活躍を続けている。
 年齢を重ねると、特に男性は、次第に人間関係に無頓着になっていき、思春期のような微細な人間関係の軋みに心が揺れることが少なくなってくる。自己形成が進んでいることの証左でもあろうが、逆に言えば、小説を書くための一つの重要要素が貧弱になることでもある。その点、「蹴りたい背中」は、もっとも人間関係に敏感な年代の細かな心の揺れを描いてるという点で、青春小説の象徴的な作品と言えるだろう。
 池澤夏樹はこう評価。

高校における異物排除のメカニズムを正確に書く伎倆(ぎりょう、技量)に感心した。その先で、警戒しながらも他者とのつながりを求める心の動きが、主人公のふるまいによって語られる。人と人との仲を書く。すなわち小説の王道ではないか

多くの選考委員が絶賛する鮮やかな表題

 溜息が出るほど鮮やかなのが「蹴りたい背中」という表題である。奇妙な表題というのが最初の印象だが、読み終えた後、この表題の見事さに驚く。愛情というにはあまりにも歪んでいる、一種の憎悪さえ滲む「にな川」への「私」の感情と、そんな「私」のことなどまったく関知しない、アイドルへの歪んだ偏執的な感情に覆いつくされている「にな川」の関係を、「にな川」の背中を蹴るラストシーンが鮮やかに描き切っているのだ。
 選考委員の古井由吉はこう評価。

「蹴りたい背中」とは乱暴な表題である。ところが読み終えてみれば、快哉(かいさい)をとなえたくなるほど、的中している。『私』の蹴りたくなるところの背中があらためて全篇から浮かぶ

 山田詠美もこう評価。

もどかしい気持、というのを言葉にするのは難しい。その難しいことに作品全体を使ってトライしてるような健気さに心魅かれた

 黒井千治は言う。

読み終った時この風変わりな表題に深く納得した。新人の作でこれほど内容と題名の美事に結びつく例は稀だろう。高校生である男女が互いに向き合うのではなく、女子が男子の背中にしか接点を見出せぬ屈折した距離感が巧みに捉えられている。背中を蹴るという行為の中には、セックス以前であると同時にセックス以後をも予感させる広がりが隠れている

 そんな彼女も今年で四十歳。すでに結婚し母親となったその才能が、経験と年齢によってどう変化したのか興味がそそられる。最近の作品を読んでみようと思う。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』 第26回『花腐し』 第27回『聖水』 第28回『熊の敷石』 第29回『中陰の花』 第30回『猛スピードで母は』 第31回『パーク・ライフ』 第32回『しょっぱいドライブ』 第33回『ハリガネムシ』 第34回『蛇にピアス』 第35回『蹴りたい背中』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。