『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第38回 方便⑨

[3]具五縁について⑦

「近善知識」について

 最後に、具五縁の第五の近善知識(良い友人に近づくこと)について紹介する。善知識は五縁のなかでもとくに重要視されており、具五縁の解説の冒頭にも、『禅経』(出典未詳)の「四縁は具足すと雖も、開導は良師に由る」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、372頁)を引用している。「良師」は、後述する教授の善知識のことである。ここでも、次のように、得道(覚りを得ること)のための大因縁とされている。

 第五に善知識とは、是れ大因縁なり。謂う所は、化導して仏を見ることを得しむればなり。阿難は、「知識は、得道の半の因縁なり」と説き、仏は「応に爾るべからず。全の因縁を具足す」と言う。(『摩訶止観』(Ⅱ)、450-451頁)

 ここに紹介されている得道のための半の因縁か、全の因縁かについては、『付法蔵因縁伝』巻第六の「昔、阿難は仏に白して言うが如し。『世尊よ、善知識とは、得道の利に於いて、半の因縁と作る』と。仏の言わく、『不(いな)なり。善知識とは、即ち是れ得道の全分の因縁なり』と」(大正50、322上23-25)に基づくものである。
 さて、善知識には、外護、同行、教授の三種がある。
 外護とは、在家、出家にかかわらず、外から修行者に必要なものを提供して守護する者のことである。随自意三昧(非行非坐三昧)を修行する場合や深山絶域において修行する場合は、外護を必要としないが、他の三種の三昧(常行三昧・常坐三昧・半行半坐三昧)を修行する場合は外護を必要とする。理想的な外護者については、ただ必要とするものを管理することができ、過失を見ることなく、怒りを惹起させることなく、ほめたたえることなく、ほめすぎて損なうことがなく、母が子どもを養うように、虎が子をくわえるように、調和して適宜となると説明している。そして、長い間修行した人がやっと実行できることであると述べている。
 第二の同行とは、一緒に修行する人を意味する。随自意三昧や安楽行(法華三昧)を修行する場合は、同行(好伴侶)を必要としないが、方等三昧(法華三昧とともに半行半坐三昧と規定される)や般舟(はんじゅ)三昧(常行三昧)を修行する場合は、同行を必要とし、互いに切磋琢磨するべきであると述べている。
 第三の教授とは、仏法を教える者を意味する。般若を説いて、道と非道(道でないもの)を区別して示すことができ、内外の方便が究極的なものに通じているか塞がっているか、妨げるかを、すべてきっぱりと理解することができ、巧みに法を説いて、示し教え利し喜ばせ、人の悪心をくつがえし破る者である。そして、『法華経』法師品の「若し法師に親近せば、速やかに菩薩の道を得、是の師に随順して学せば、恒沙の仏を見ることを得ん」(大正9、32中14-15)を引用して、教授者の必要性を指摘している。
 また、善知識についても観心釈がなされている。それによれば、仏・菩薩は外護、六度(六波羅蜜)・三十七道品(覚りを得るための実践修行の意。四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道をいう)は同行、法性・実際(真実の根拠)の諦理(真理)は諸仏の師であるから教授と、それぞれ規定されている。
 さらに、仏・菩薩に、外護・同行・教授の三義が含まれ、六度・三十七道品、法性・実際にもそれぞれ三義が具足されていると説かれる。前の三句と、後の三三が九句を合わせて十二句となり、前の六句(最初の三句と、仏・菩薩に外護・同行・教授の三義が含まれるという三句)を事の善知識、後の六句を理の善知識と説いている。
 また、善知識には真の善知識と、魔の善知識がおり、実の羅漢が修行者を化城に導いて二乗地に墜落させる場合は半分の善知識であり、厳しく表現すれば善知識魔であるとされる。円教の外護者・同行者・教授者がはじめて真の善知識と呼ばれるのである。

[4]呵五欲について

 五欲とは、色、声、香、味、触の五種の対境に対する欲望をいい、ここでは、この五欲を呵責することをいう。この五欲のなかでは、色欲が最も修行の重大な障害とされる。すなわち、「色害は尤(もっと)も深く、人をして狂酔せしむ。生死の根本は、良(まこと)に此れに由るなり」(『摩訶止観』(Ⅱ)、458頁)とある。

(1)事の呵五欲

 この呵五欲に事と理があり(事と理という表現は、ここの『摩訶止観』の本文には出ないが、具体的な事柄としての呵五欲と観心釈による呵五欲をそれぞれ事と理と呼ぶ)、事の呵五欲については、

 此の五欲は、之れを得れば厭くことなく、悪心は転(うた)た熾(さか)んにして、火に薪を益すが如く、世世に害を為すこと怨賊より劇(はげ)し。劫を累(かさ)ねて已来、常に相い劫奪(こうだつ)し、色心を摧折(さいしゃく)す。今方(まさ)に禅寂するに、復た相い悩乱するも、深く其の過を知れば、貪染は休息す。事相は、具さには『禅門』の中の如し、云云。(『摩訶止観』(Ⅱ)、460-462頁)

とある。五欲はいったん満たされても、厭くことなく追求され、悪心がますます盛んになると説かれている。しかし、静かに瞑想する場合は、またその瞑想が悩乱されても、深くその過失を知れば、貪り執著することは止まると述べられている。ここでは、詳しい説明は『釈禅波羅蜜次第法門』(『次第禅門』と略称されることもある)に譲っている。そこで『次第禅門』巻第二を参照すると、そこには『大智度論』巻第十七(大正25、181上)や『治禅病秘要法』巻上(大正15、336中-下)に基づいて、五欲の恐ろしさが生々しく説かれている(大正46、487下-488上を参照)。

(2)理の呵五欲

 これに対して『摩訶止観』では、理(観心)の呵五欲について詳しく説明している。空観(蔵教の析空観と通教の体空観)、仮観(別教)、中観(円教)の呵五欲について説いた後、「是の如く色を呵するは、色の源底を尽くし、三諦の三昧を成じ、三種の智慧を発す。深く色を呵するを、止観の方便と為す。其の意は此に在り」(『摩訶止観』(Ⅱ)、466頁)と結んでいる。色欲を呵することが、色欲の対象である色そのものに三諦が備わっていることを観察することに直結すれば、色欲を呵することが止観の方便となるわけである。「三諦の三昧」は、『仁王般若波羅蜜経』に出る真諦三昧・俗諦三昧・中道王三昧のことであり、「三種の智慧」は、一切智・道種智・一切種智を指す。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。