『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第39回 方便⑩

[5]棄五蓋について

 次に、棄五蓋について紹介する。この段は、「五蓋の病相を明かす」と「五蓋を捨つるを明かす」の二段に分かれ、後者はさらに「事の棄五蓋を明かす」と「理の棄五蓋を明かす」の二段に分かれる。

(1)五蓋の病相を明かす

 五蓋とは、貪欲、瞋恚、睡眠、掉悔(じょうげ)、疑の五種の煩悩であり、蓋と通称する理由については、「蓋覆(がいふく)纒綿(てんめん)して、心神は昏闇(こんあん)にして、定・慧は発せざるが故に、名づけて蓋と為す」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、466頁)とある。蓋とはアーヴァラナ(āvaraṇa)の漢訳で、善心を覆蓋(おおいかくすこと)するという意味である。
 前の呵五欲とこの棄五蓋との関係については、「前に五欲を呵すとは、乃ち是れ五根は現在の五塵に対して五識を発す。今、五蓋を棄つるは、即ち是れ五識は転じて意地に入り、追って過去を縁じ、逆(あらかじ)め未来の五塵等の法を慮(おもんぱか)り、心内の大障と為る」(『摩訶止観』(Ⅱ)、466-468頁)とある。つまり、五欲は、五根が現在の五塵(色・声・香・味・触の五境)に対して五識を生じて対象に執着することであるが、五蓋は、五識の根本である意識の段階に深く根をおろしたもので、現在ばかりでなく、過去、未来の五塵に対しても執着を起こすことである。
 『摩訶止観』では五蓋のそれぞれの意味について詳しく解説しているが、ここでは簡単な一般的説明にとどめる。貪欲(貪り)、瞋恚(怒り、憎悪)は馴染み深いであろうから説明を省略する。
 睡眠とは、ミッダ(middha)の漢訳であり、身心を昏(くら)く沈みこませ積極的にはたらかせず、眠りこませることである。掉悔(auddhatya)とは、心がそわそわして浮動する掉挙(じょうこ)と、憂悩し後悔したりする悔(kaukṛtya、悪作とも漢訳する)とを併称したものである。
 疑蓋は、疑い深いことであるが、『摩訶止観』では、自分を疑うこと、師を疑うこと、法を疑うことの三種に分類して、次のように述べている。

 疑に三種有り。一に自を疑い、二に師を疑い、三に法を疑う。一に自を疑うとは、謂わく、我が身は底下にして、必ず道の器に非ずと。是の故に身を疑う。二に師を疑うとは、此の人は、身・口、我が懐(こころ)に称(かな)わず。何ぞ必ず能く深き禅、好き慧有らん。師として之れに事(つか)うるは、将(は)た我れを悞(あやま)らざらんや。三に法を疑うとは、受くる所の法は、何ぞ必ず理に中(あた)らん。三の疑は猶予して、常に懐抱(かいほう)に在らば、禅定は発せず。設い発するも、永く失う。此れは是れ疑の蓋の相なり」(『摩訶止観』(Ⅱ)、472頁)

 第一に自分を疑うとは、自分の身は最低であり、きっと道の器でないと思い込むことである。第二に師を疑うとは、師に対して「この人の身も口も私の気持ちに合致しない。どうしてきっと深い禅や良い智慧があるであろうか。師としてこれに仕えれば、自分を誤るのではないかしら」と疑うことである。第三に法を疑うとは、自分の受ける法が真理に合致するかどうか疑うことである。このような三種の疑いが心にあれば、禅定は生じないし、たとい生じても、永久に失われると述べられている。

(2)五蓋を棄つるを明かす

 この五蓋を棄てる方法に事と理がある。

①事の棄五蓋について

 事の棄五蓋とは、貪欲蓋には不浄観(人間の肉体がきたなく汚れたものであることを観想すること)を用い、瞋恚蓋には慈悲観(一切衆生に対して慈悲の心を起こすこと)を用い、睡眠蓋には精進を用い、掉悔蓋には数息観(呼吸を数えて散乱した心を収めること)を用いる。
 疑蓋については、上述した三疑のそれぞれに対して次のように心に思わなければならないと説かれている。すなわち、自身を卑下することに対しては、「我が身は即ち是れ大いに富める盲児なり。無上法身の財宝を具足すれども、煩悩に翳われて、道眼は未だ開けず、要(かなら)ず当に修治して、終に放捨せざるべし」(『摩訶止観』(Ⅱ)、475頁)と思って、自身を信じて修行に励まねばならない。
 師を疑うことに対しては、「我れは今、智無し。上聖大人(じょうしょうだいにん)は、皆な其の法を求めて、其の人を取らず。雪山(せっせん)は鬼に従って偈を請い、天帝(てんたい)は畜を拝して師と為せり……常に恭敬(くぎょう)を三世の如来に起こせ。師は即ち未来の諸仏なり」(『摩訶止観』(Ⅱ)、475-476頁)と思って、決して師を疑ってはならない。「雪山」は雪山童子を指し、童子が羅刹に変身した帝釈天から無常偈(諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽)を聞く物語を指す。「天帝」の件(くだり)は、帝釈天が野干を師として拝した故事を指す。
 法を疑うことに対しては、「我れは法眼未だ開けず、未だ是非を別かたず、憑信(ひょうしん)するのみ。仏法は海の如く、唯だ信のみ能く入る」(『摩訶止観』(Ⅱ)、476頁)と思って、法を疑ってはならないのである。

②理の棄五蓋について

 次に、理の棄五蓋について詳しく説明している。まず、五蓋にいくつかの段階を設定している。たとえば、初禅を妨げる鈍使の五蓋、真諦を妨げる利使の五蓋、俗諦の理を妨げる空に依る五蓋、中道を妨げる中に依る五蓋である。このうち前二者は空観によって棄て、第三のものは仮観によって棄て、第四のものは中道によって棄てることができると述べている。
 また、地論学派、摂論学派は、この四段階の五蓋を、凡夫、二乗、菩薩と順を追って棄てると説くが、この解釈は、円教の解釈ではなく、円教では、「初心の凡夫も、能く一念に於いて円かに諸の蓋を棄つ」(『摩訶止観』(Ⅱ)、487頁)とされるのである。
 『摩訶止観』の本文では、さらに詳しく、空を観察して利・鈍の蓋を捨てること、俗諦の五蓋の浄化について説明している。ただこれだけでは不十分であるので、欲の真実の本性(実性)は空でもなく、また仮でもない。仮でないので、どうして無量があるであろうか。空でないので、どうして寂然としたものがあるであろうか。空と仮名のこれら二つはいずれもなく、趣(しゅ。gatiの漢訳。拠り所の意)もなく非趣(拠り所でないもの)もない。趣がないと、利・鈍の二種の五蓋は深く除かれ、非趣がないと、中道の五蓋が除かれ、中道を知ることができる。
 さらにまた、俗諦の五蓋が除かれ、断破するものがなく、棄て消滅させるものもなく、利・鈍の二つの五蓋(空の五蓋)、仮の五蓋、中の五蓋の四種の五蓋は一瞬間に円かに除かれる。二十五有(衆生の輪廻する三界六道を二十五種に分類したもの)を破って、欲の真実の本性(実性)を見ることを、王三昧と名づけ、一切の法を備える。以上を円の観によって円の蓋を棄てると名づけると述べている。

(連載)『摩訶止観』入門:
シリーズ一覧 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回 第11回 第12回 第13回 第14回 第15回 第16回 第17回 第18回 第19回 第20回 第21回 第22回 第23回 第24回 第25回 第26回 第27回 第28回 第29回 第30回 第31回 第32回 第33回 第34回 第35回 第36回 第37回 第38回 第39回 第40回

菅野博史氏による「天台三大部」個人訳、発売中!

『法華玄義』) 定価各1980円(税込)

『法華文句』) 定価各2530円(税込)

『摩訶止観』) 定価(税込) Ⅰ:2420円 Ⅱ:2970円 ※全4巻予定


かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。