『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第29回 偏円⑥

(5)権・実を明かす③

(c)接通に約して、以て教理を明かす②

 蔵教・通教・別教・円教の四教の存在以外に、被接(ひしょう)を問題とする理由については、利根の修行者が飛躍的に修行を前進させる可能性を理論的に組み込むために、三種の被接を考案したと思われる。一般化していうと、宗教の修行における超越の可能性に席を用意したというわけである。この三被接は、『法華玄義』の境妙(迹門の十妙の第一)のなかの七重の二諦説(真諦と俗諦について、七種類の定義を施している)においてよく示されている。というのは、七重とは、四教と三被接を合わせたものであるからである。
 ここでは、最初に、一実(円教)のために三権(蔵教・通教・別教)を施す場合、ただ蔵教・通教・別教・円教の四種の止観があるだけであるが、別によって通を接する(別接通〈べっせつつう〉)止観に関しては、(1)権であるのか、実であるのか、(2)どのような意味で四という数に関与しないのか、(3)どのような意味でただ通教だけを接するというのか、(4)どのような位において接せられるのか、(5)どのような位に接せられて入るのか、という五つの質問が設けられている。初めに教に焦点をあわせて五問に答え、次に諦(真理)に焦点をあわせて四問(第二問を除く)に答えている。
 (1)の質問に対しては、通教を接して別教の教道に入れば権であり、別教の証道に入れば実であると答えられている。言葉による教が教道といわれ、証得(覚り)の真理そのものが証道といわれる。蔵教・通教の教道・証道はともに権と規定され、円教の教道・証道はともに実と規定される。別教の教道は権で、証道は実と規定される。
 (2)の質問に対しては、四教は始めと終わりがあるが、別接通には、別教という終わりがあるだけで、通教のどの位から接せられるかという始めがないので、四教とは関与しないと答えられている。
 (3)の質問に対しては、蔵教・通教は界内(三界の内部)の理を明らかにし、別教・円教は界外(三界の外部)の理を明らかにするので、蔵教・通教と別教・円教の両者が交わるためには、通教と別教の間に「接」が必要となると答えられている。
 (4)の質問に対しては、通教においては無明を破ることを論ぜず、八地を辟支仏地と名づけ、ここから別教に接せられて中道があることを知る(『輔行』は、下根の場合としている)と答えられている。
 (5)の質問に対しては、次のよう答えられている。九地に無明を制伏し、十地に無明を破ることを、仏と名づけるが、わずかにただ一品の無明を破るだけであるので、通教は究極ではない。そこで、別教の初地の位に接入するのである。
 次に諦について接を論じる場合である。『摩訶止観』には次のようにある。

 若し諦に就いて接を論ぜば、通教の真諦は、空と中とをば合わせて論ず。初め従り已来、但だ真の中の空を観じ、見思の惑を破り尽くして、第八地に到らば、方に為めに真の内の中を説く。故に云わく、「智者は、空、及与(およ)び不空を見る」と。被接して方に聞く。聞き已って理を見るは、即ち是れ別の位に入るなり。三蔵の菩薩の、位を明かすことは、爾らざるが故に、接を論ぜず。別・円は発心より已に中道を知れり。更に何を将(もっ)てか接せん。故に知んぬ、接は但だ通のみに在ることを。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)363~364頁予定)(※1)

と。通教の真諦は、空(権に相当する)と中道(実に相当する)とを合わせて論じる。最初から、ただ真諦のなかの空を観察する。これは(1)の質問に対する答えである。
 見思の惑を破り尽くして第八地に到達すれば、初めて真諦のなかの中道を説く。それ故、「智者は、空と不空とを見る」という。接せられて、初めてこのことを聞く。これは(4)の質問に対する答えである。
 聞いてから理を見ることは、とりもなおさず別教の位に入ることである。これは(5)の質問に対する答えである。
 三蔵教の菩薩が位を明らかにすることはそうではない。それ故、接を論じない。別教と円教は、初めて発心するときから中道を知った。さらに何によって接するのか。それ故、接はただ通教だけにあることがわかった。これは(3)の質問に対する答えである。

(d)重ねて教理の権実を簡ぶ

 次に(d)「重ねて教理の権実を簡(えら)ぶ」について説明する。この段には、二つの問答が示されている。第一に、蔵教・通教・別教の三権が円教の実を知ることができるかという質問が提起されている。別教は最初から知り、通教は最後に知り、蔵教は最初も最後もどちらも知らないと答えられている。
 第二に、別教と通教が実を知るならば、なぜ権と規定するのかという質問と、蔵教が最初も最後もどちらも知らないのならば、蔵教が実を知ることを示唆する『涅槃経』と『勝鬘経』の経文(※2)と考えが相違するのではないかという質問である。
 最初の質問については、別教は方便を帯びて実を聞くので、教道はやはり権であり、通教は別教に接せられるものだけが実を知るので、通教としては権であるといわれる。
 第二の質問は、蔵教が実を知るという経文は、限定された立場からの言明にすぎず、実際には、蔵教が最初も最後もどちらも実を知らないことを詳しく説明している。ここではその説明は省略する。

(注釈)
※1 第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)は本年刊行の予定。
※2 『南本涅槃経』巻第三、長寿品、「復た次に、善男子よ、応当に仏・法、及び僧を修習して、常想を作すべし。是の三法とは、異想有ること無く、無常想無く、変異想無し。若し三法に於いて異想を修せば、当に知るべし、是の輩の清浄の三帰に則ち依処無く、所有る禁戒は皆な具足せず、終に声聞・縁覚の菩提の果を証することを得ず。若し能く是の不可思議に於いて常想を修せば、則ち帰処有り」(大正12、622中17~22)、『勝鬘経』自性清浄章、「三乗の初業は、法に愚かならず」(同前、222上29)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。