第24回 偏円①
次に、十広の第五章「偏円」について考察する。その冒頭には、
第五に偏円を明かすとは、行人は既に止観は法として収めざること無きことを知れり。法を収むること既に多ければ、須(すべか)らく大・小、共・不共の意、権・実、思議・不思議の意を識るべし。故に偏・円を簡(えら)ぶ。此れに就いて五と為す。一に大・小を明かし、二に半・満を明かし、三に偏・円を明かし、四に漸・頓を明かし、五に権・実を明かす。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)335頁予定)(※1)
と述べられている。修行者は止観がすべての法を収めることを知った。法を収めることが多いからには、大・小、共・不共、権・実、思議・不思議の意味を認識する必要があるので、偏・円を区別するという内容である。これについて、大・小、半・満、偏・円、漸・頓、権・実の五つの組合せを明らかにする。
第四章の標題には偏円とだけあるが、具体的には、大小、半満、偏円、漸頓、権実の五段によって、止観の区別を明らかにしている。区別を越える仏教の真理と、区別を説く五つの組合せとの関係については、
夫(そ)れ至理(しり)は大ならず、小ならず、乃至、権に非ず、実に非ず。大・小、権・実は、皆な説く可からざるも、若し因縁有らば、大・小等は皆な説くことを得可し。小の方便力を以て五比丘の為めに小を説き、大の方便力を以て諸の菩薩の為めに大を説く。大・小は倶に方便なりと雖も、須らく所以(ゆえん)を識るべし。故に五双(ごそう)を用て料簡し、混濫(こんらん)すること無からしむ。(『摩訶止観』(Ⅱ)335~336頁予定)
と述べている。そもそも究極の道理は大でもなく小でもなく、ないし権でもなく実でもないので、大・小、権・実は、すべて説くことができないけれども、もし因縁があれば、大・小などはみな説くことができるという趣旨である。
(1)大・小を明かす
第一段の大小とは、いうまでもなく大乗と小乗のことである。小乗については、「智慧の力は弱くして、但だ析法(しゃくほう)の止観を修し、色心を析するに堪えたり」(『摩訶止観』(Ⅱ)336頁予定)と述べている。小乗は、智慧の力が弱いので、ただ析法(法の分析)の止観を修めて、色心を分析することができるだけであると説明している。
色心を分析する観察については、
介爾(けに)も心は起こらば、必ず根・塵を藉(か)る。一法として縁従(よ)り生ぜざるもの有ること無し。縁従り生ずる者は、悉ごとく皆な無常なり。或いは言わく、「一念の心に六十の刹那(せつな)あり」と。或いは言わく、「三百億の刹那あり」と。刹那は住せざれば、念念無常なり。無常・無主なれば、煩悩の本は壊(え)す。業無く苦無く、生死は滅するが故に、名づけて涅槃と為す。是れ色心を析する観の意と名づくるなり。(『摩訶止観』(Ⅱ)337~338頁予定)
と述べている。少しでも心が生じるならば、必ず六根・六塵(六境)を借りる。すべての法は縁(外的条件)から生じ、縁から生じるものは、すべて無常である。一念の心に、六十の刹那があるということもあるし、三百億の刹那があるということもあるが、刹那は留まらないので、一瞬一瞬無常である。無常であり、中心的なものがなければ、煩悩の根本は破壊される。したがって、業もなく、苦もなく、生死が消滅するので、涅槃と名づける。これが色心を分析する観察の意味である。
次に大乗について説明している。「智慧は深利(じんり)にして、不生不滅の体法の止観を修す。大人の行ずる所なるが故に、大乗と名づく」(『摩訶止観』(Ⅱ)338~339頁予定)と述べている。智慧は深く鋭く、不生不滅の体法(法を体得すること)の止観を修め、偉大な人物が修行するものなので、大乗と名づけるというものである。
この体法の止観は、前の三蔵教の析法の止観と異なるとされる。すなわち、
言う所の大乗の体法の観とは、三蔵に異なる。三蔵は、名は仮(け)にして、法は実なり。実を析して空ならしむ。譬(たと)えば柱を破して空ならしむるが如し。今、大乗の体の意は、名実は皆な仮、自相は是れ空にして、本来虚寂(こじゃく)なり。譬えば鏡の柱は本自(もとよ)り柱に非ず、柱を滅するを待ちて、方(まさ)に空なるに不(あら)ず、影に即して是れ空、不生不滅なること、実の柱に同じかざるが如し。(『摩訶止観』(Ⅱ)340頁予定)
と述べている。三蔵教においては、名前は仮であるが、法は実体である。実体を分析して空にさせる。たとえば柱を破って空にさせるようなものである。今、大乗の体法の意味は、名前も実体もいずれも仮であり、自己の様相は空であり、もとから空寂である。たとえば、鏡に映った柱は、もともとから柱ではなく、柱が消滅するのを待って、はじめて空となるのではなく、鏡に映った柱そのままが空であり、不生不滅であることは、実体の柱と同じでないようなものであるという趣旨である。
また、三蔵教の析法観は、情に随って色心を観察するものであり、有を分析するから事観といわれる。これに対して、大乗の体法観は、理に随って色心を観察するものであり、随理の観と名づけられると指摘している。
(2)半・満を明かす
第二の半満を明かす段は簡潔であり、その全文は以下の通りである。
二に半満を明かす。半とは、九部の法を明かすなり。満とは、十二部の法を明かすなり。世に、「涅槃の常住なるは、始めて復た是れ満にして、余は悉ごとく半なり」と伝う。菩提流支(ぼだいるし)の云わく、「三蔵は是れ半にして、般若より去りて皆な満なり」と。今、半満の語を明かすは、直ちに是れ大小を扶成(ふじょう)す。前に已に析・体もて大・小を判ぜり。今も亦た体・析を以て、半・満を判ずること前の如し、云云。(『摩訶止観』(Ⅱ)343~344頁予定)
と。半は九部の法を明らかにし、満は十二部の法を明らかにするものと規定され、まったく大乗、小乗の区別と一致している。そもそも半字、満字は、サンスクリット語で、母韻十二字、子音三十五字のそれぞれを半字といい、母韻と子音を合わせて意味を持つ一語としたものを満字という。教判に応用され、劣った教えを半字、優れた教えを満字と判定する(※2)。
十二部の法とは、仏の説法を内容・形式のうえから十二種に分類したものであり、『法華玄義』の本文に出る名称と、それに対応する梵語、漢訳を示すと、修多羅(sūtra. 経)・祇夜(geya. 重頌、応頌)・和伽羅那(vyākaraṇa. 授記)・伽陀(gāthā. 孤起頌、諷頌)・優陀那(udāna. 自説)・尼陀那(nidāna. 因縁)・阿波陀那(avadāna. 譬喩)・伊帝目多伽(itivṛttaka. 本事)・闍陀伽(jātaka. 本生)・毘仏略(vaipulya. 方広)・阿浮陀達磨(adbhutadharma. 未曾有)・優波提舎(upadeśa. 論議)のことである(※3)。九部の法は、『法華経』方便品によれば、修多羅・伽陀・本事・本生・未曾有・因縁・譬喩・祇夜・優婆提舎経のことである。
引用文には、世間では、「涅槃の常住であるものがはじめて満であり、その他はすべて半である」と伝えているとあるが、これは、おそらく『涅槃経』を満字として、その他の経典を半字とする一種の教判を提示したものであろう。菩提流支(Bodhiruciの音写語。菩提留支にも作る。北インドの人。生没年未詳〔五世紀~六世紀〕)の「三蔵は半、般若以降はすべて満である」という説も教判を示したものである。脚注2に紹介した菩提流支の教判と類似した内容である。
今、半・満という言葉を明らかにするのは、この語句がただちに大乗・小乗を助けて成立させるという働きを持っているからである。前に析法・体法によって大乗・小乗を判定したのと同様に、今も体法・析法によって半・満を判定するのである。(この項つづく)
(注釈)
※1 第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)は本年刊行の予定。
※2 『南本涅槃経』巻第八、文字品、「又た半字の義は、皆な是れ煩悩の言説の本なるが故に、半字と名づく。満字とは、乃ち是れ一切の善法の言説の根本なり」(大正12、655上20-22)を参照。教判への応用については、『法華玄義』巻第十上、「五には、菩提流支は半満教を明かす。十二年の前は皆な是れ半字教、十二年の後は皆な是れ満字教なり」(T 33、801中10-11)を参照。最初の十二年間は三蔵教を説き、その後は『般若経』を含む大乗経典を説くという趣旨である。
※3 簡潔な意味についは、拙著『法華玄義を読む―天台思想入門―』(大蔵出版、2013年)256-257頁を参照。
(連載)『摩訶止観』入門:
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