芥川賞を読む 第60回 『異類婚姻譚』本谷有希子

文筆家
水上修一

アイデンティティが希薄になる不気味さ

本谷有希子(もとや・ゆきこ)著/第154回芥川賞受賞作(2015年下半期)

象徴的な「蛇ボール」

 本谷有希子は、もともと舞台女優で、2000年には「劇団、本谷有希子」を設立し、自ら劇作・演出を手がけていた。その後、2006年には鶴屋南北戯曲賞を、2009年には岸田國士戯曲賞を受賞。さらに、2011年には野間文芸新人賞を、2013年には大江健三郎賞と三島由紀夫賞を受賞し、2015年に「異類婚姻譚」(いるいこんいんたん)で芥川賞を受賞した実力派である。
 異類婚姻譚は、言うまでもなく、人間と人間以外の存在、例えば、動物、神、妖怪、幽霊などとの結婚や恋愛を題材とした物語のことを指す。日本に限らず世界各地の民話や伝説、神話、文学作品に登場するわけだが、誰もが知っている日本の作品としては、鶴が人間の女性に姿を変えて男と結婚する「鶴の恩返し」や、男が亀を助けたことで竜宮城の乙姫(異界の存在)と過ごす「浦島太郎」などが有名だ。
 異類婚姻譚という説話類型名を作品名にしたことにより、読む前からこの作品がそうした物語であることを明言しているわけで、そのことによって、どこか奇妙な非現実的なストーリーを読み手がすんなりと受け入れる土壌を事前に作っている。

 ある夫婦の物語で、経済的に心配のない旦那に手厚く庇護されながら、働くことも子育てすることもなく安穏な日々に埋没する主人公の女房。そうした凡庸な生活の継続の中で、女房の顔と旦那の顔が徐々に似ていく。女房は、本来の自分の顔が消失していくことを嫌悪しつつもどうすることもできない――。

 この作品の中で、象徴的に使われているのが「蛇ボール」だ。1匹の蛇がもう1匹の蛇の尻尾を飲み込み、飲み込まれた蛇ももう1匹の蛇の尻尾を飲み込んで、2匹の蛇は輪っかのようになり、最終的には2匹とも姿形を失くすのである。不気味なのは、この蛇ボールが象徴するものだ。それは異なる人格と個性を持つ人間同士が同じ空間で一緒の時間を過ごす中で、それぞれの自我が薄らいだ先に起こるアイデンティティの同一化である。
 髙樹のぶ子の選評はこうだ。

結婚や男女の共生とは呑み込むか呑まれるかで、蛇同士が呑み込み合って蛇ボールになるようなもの。(中略)笑いながら鳥肌立つ

 山田詠美の選評。

少なからぬ既婚者の背筋を寒くさせたであろう、夫婦あるあるエピソードの数々。(中略)何とも言えないおかしみと薄気味悪さと静かな哀しみのようなものが小説を魅力的にまとめ上げている

個として生きる哀しみ

 ネタバレになってしまうので詳細は省くが、ラストシーンは、旦那に似てしまう女房と、逆に女房になりたい旦那の合一の危機を脱するために、女房が旦那を強く突き放す。その時に、旦那本来の姿が現れるのだが、その姿は、ねっとりとした不気味さを漂わせていたそれまでの姿とは打って変わって、実に可憐で美しい。
 その点について、堀江敏幸は、「(それは)異類ではなく立派なホモサピエンスだ。そこが切ない」と述べている。つまり、相互の依存から脱し、個として屹立する人間の姿がそこにあるのである。しかし、同時に、それは他者とは切り離された、自ら一人で生きていかなければいけない人間の哀しみも漂っているわけである。
 異類婚姻譚が古今東西に存在し続けているのは、異質な存在との関わりや、自己と他者との境界の曖昧さや、喪失の悲しみなど、人間にとって根源的なテーマを孕んでいるからであろう。受賞作は、こうした説話の枠の中に、現代的な風俗をうまく落とし込んでいるところに斬新さがある。
 髙樹のぶ子は、特に伝奇的・説話的な物語を指す「譚」という言葉について、ラストシーンのある種の美しさを絡めながら、こう述べている。

「美と不気味さ」これは「譚」の成立要素であり、日本説話の伝統から流れ来る地下水脈でもある

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みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。