『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第106回 正修止観章 66

[3]「2. 広く解す」 64

(10)煩悩境①

 今回は、十境の第二の「煩悩境」の段の説明である。この段は、総釈と別釈の二段に分かれている。

 (1)総釈

 まず、総釈の冒頭には、「第二に煩悩の境を観ずとは、上の陰・界・入に悟らずば、則ち其の宜しきに非ず。而るに観察すること已(や)まずば、煩悩を撃動(ぎゃくどう)し、貪瞋(とんじん)は発作す。是の時、応に陰・入を捨てて、煩悩を観ずべし」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。大正46、102a6-8)とある。つまり、十境の第一の五陰・十二入・十八界において悟らなければ、それは適当ではない。それにもかかわらず、陰入界を対象とする観察を続ければ、かえって煩悩を突き動かして、貪欲・瞋恚が起こることになる。この場合には陰入界の境を捨てて、煩悩を観察するべきであると述べている。
 前に説いた二十五方便のなかの「五欲を呵す」、「五蓋を捨つ」に出た色・声・香・味・触の五境に対して起こす五欲や貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑の五蓋などは、これを捨てることは容易であるといわれる。しかし、盛んに生起する重い貪欲・瞋恚などは制御することが難しいとされる。つまり、生来の煩悩は、まだ制御が容易であるが、陰入界を観察することを続けて新たに生起する煩悩は手強いのである。その手強さは、眠れるライオンに衝突すると、咆吼して大地を震わすようなものであるとたとえられている。もしこのことを知らなければ、人を引っ張って大重罪を行なわせる。ただ止観が成就しないだけでなく、あらためて悪業を増大させ、黒い闇の坑に落ちて、脱出することができないので、煩悩境を観察する必要があるといわれる。

 (2)別釈①

 別釈は、「略して其の相を明かす」、「煩悩の起こる因縁を明かす」、「治の異なりを明かす」、「止観を修す」の四段に分かれている。

 ①「略して其の相を明かす」

 この段の冒頭には、煩悩という名の意味について、

 煩悩は是れ昏煩(こんぼん)の法にして、心神を悩乱し、又た心の与(ため)に煩を作して、心をして悩むことを得しむ。即ち是れ見・思の利・鈍なり。此れは一往、数(しゅ)を分かつ。五鈍は何ぞ必ずしも是れ貪・瞋ならん。諸の蠕動(ねんどう)の如きは、実には理を推(お)さざれども、𧑃(はさみ)を挙げて鬐(ぎ)を張り、目を怒らして自大す。底下の凡劣は、何ぞ嘗て見を執せん。行・住・坐・臥に、恒に我心を起こす。故に知んぬ、五鈍は利無きに非ざるなり。五利は豈に唯だ見惑のみならんや。何ぞ嘗て恚欲無からんや。当に知るべし、利・鈍の名は、見・思に通ずることを。(同前、102a25~b2)

と述べられている。煩悩は愚かで煩わせる法で、精神を悩ませ乱し、そのうえ心に対して煩いを作り、心を悩ませるものであると定義している。そして、煩悩に見惑の五利使(身見・辺見・邪見・見取見・戒取見)と思惑の五鈍使(貪欲・瞋恚・愚痴・慢・疑)があることを示している。これは煩悩の心作用(数)を分けた一応のものであるといわれ、実際には、鈍使と利使は、それぞれ思惑と見惑に対応するだけでなく、五鈍使にも利使(見惑)があり、五利使にも鈍使(思惑)があり、利・鈍の名は、見惑・思惑に共通することを知るべきであると述べている。
 次に、位に焦点を合わせて、煩悩を分類し、混乱させないように注意している。禅定に入らず誤った見解が弱ければ、十使はすべて鈍であり、禅定に入って誤った見解が激しく生起すれば、十使はすべて利であると述べている。いわゆる「諸見境」は、十境の第七に置かれているので、ここの煩悩境では、前者(十使がすべて鈍である場合)の煩悩が対象となる。
 また、この利使・鈍使を展開すれば、八万四千の煩悩となるが、まとめて四分とすることができるとされる。三毒(貪欲・瞋恚・愚癡)がそれぞれ単独で生じることを三分と数え、三毒が同時に生起することを等分と名づけて、合わせて四分とする。ただ煩悩の様相は広くて、説き尽くすことはできないが、もし詳しく煩悩の様相を説明すると、観門を妨げることになるので、これ以上詳細に煩悩の分類には立ち入らないという趣旨を述べている。
 この段の最後に、詳細に煩悩の分類に立ち入らないというのであれば、五百の阿羅漢は何によって煩悩の分類について詳しく説明するのかという質問を立てている。これは、カニシカ王(二世紀頃。クシャーナ王朝の三代目の王)が五百人の阿羅漢をカシュミールに集め、三蔵に注釈させて、『大毘婆沙論』が成立したという伝説に基づくものである。
 これに対する答えは、次のように示される。五百の阿羅漢は仏法を保持しようとするために、大勢の人々の指導者となり、種々の難を除いて通じるようにさせるので、煩悩について詳しく説明する必要があったというものである。もし空から仮に入る時、つまり利他行をする場合は、煩悩について詳しく説明するべきであると述べている。
 さらに、煩悩は開けば八万四千となるが、合すれば四分の煩悩となること、ともに界内の煩悩であり二乗とともに断ち切ることを、通の煩悩(通惑)と名づけること、界外の四分の煩悩は二乗が断ち切らないので、別の煩悩(別惑)と名づけること、界内と界外の煩悩がたがいに関われば、通惑を離れて別惑はないこと、通惑を枝とし別惑を本とし、真(空)の智を得て枝(通惑)を断ち切り、中道の智を得て本(別惑)を断ち切ることなどが示される。(この項、つづく)

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。2025年、第1回日本印度学仏教学会学術賞を受賞。