『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第41回 正修止観章①

 次に、十広の第七章、「正しく止観を修す」について取りあげる。言うまでもなく、『摩訶止観』全体のなかで、一念三千説が説かれる、最も重要な章である。巻第五上から巻第十下の六巻を占めている。また、第八章から第十章は実際には説かれず、その内容の一端は第一章の「大意」(五略として示される)に説かれているだけである。

[1]全体の構成

 はじめに全体の構成について説明する。この章で最も重要な箇所は、いわゆる十境十乗観法と呼ばれるものであるが、これが説かれるのは、下に示す科文の最後の「2.8. 依章解釈」においてである。そこで、まずはこの範囲の科文を示し、順に内容を紹介する。

1.  結前生後し、人・法の得失を明かす
1.1. 得を明かす
1.2. 失を明かす
2.  広く解す
2.1. 開章
2.2. 生起を明かす
2.3. 位を判ず
2.4. 隠顕を判ず
2.5. 遠近を判ず
2.6. 互発を明かす
2.7. 章安尊者の私料簡
2.8. 依章解釈

[2]「1. 結前生後し、人・法の得失を明かす」①

(1)得を明かす

 「1. 結前生後し、人・法の得失を明かす」の段は、「得を明かす」と「失を明かす」の二段から成っている。「得を明かす」の冒頭は正修止観の冒頭であるから、力の入った文章が記されていると思う。ここは丁寧に文章を引用して説明する。

 第七に正修止観とは、前の六重は修多羅(しゅたら)に依って、以て妙解(みょうげ)を開き、今は妙解に依って、以て正行(しょうぎょう)を立つ。膏(あぶら)と明は相い頼り、目と足は更(たが)いに資(たす)く。行解(ぎょうげ)は既に勤むれば、三障・四魔は、紛然として競い起こり、重昏巨散(じゅうこんこさん)は、定明(じょうみょう)を翳動(えいどう)す。随う可からず、畏(おそ)る可からず。之れに随わば、人を将(ひき)いて悪道に向かい、之れを畏れば、正法を修することを妨ぐ。当に観を以て昏を観じ、昏に即して而も朗(あき)らかにし、止を以て散を止(とど)め、散に即して而も寂ならしむべし。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、510頁)

とある。前の大意・釈名・顕体・摂法・偏円・方便の六章には経典に依拠して止観に対する絶妙な理解を明らかにし、今、その絶妙な理解に依拠して正しい修行を確立すると述べている。そして、止観の理解と修行との関係は、油と明るさがたがいに依存しあい、目と足がたがいに助けあうような関係であるとしている。
 修行と理解に熱心であるので、煩悩障・業障・報障の三障や煩悩魔・陰魔(五陰の魔)・死魔・天子魔の四魔は無秩序に先を争って生じ、無知の深い暗闇は智慧の明るみを覆い隠し、激しい心の散乱は心の安定を動揺させるとある。ここでは、昏(暗闇)と明、散と定が対比されている。修行者の心得として、三障・四魔に追随してもいけないし、畏怖してもいけないと戒めている。なぜかといえば、三障・四魔に追随すれば人を悪道に引きつれて行き、三障・四魔を畏怖すれば正法の修行を妨げることになるからである。当然、止観の観によって暗闇を観察すれば暗闇そのままが明るみであり、止観の止によって散乱を止めれば散乱そのままが静寂であるはずであると述べている。
 さらに引き続いて、止観の実践について、巧みな比喩を使いながら、次のように説明している。

 猪の金山を揩(こす)り、衆流(しゅる)の海に入り、薪の火を熾(さか)んにし、風の求羅(ぐら)を益(ま)すが如くなるのみ。此の金剛の観は、煩悩の陣を割(やぶ)り、此の牢強の足は生死の野を越え、慧は行を浄くし、行は慧を進め、照潤導達し、交絡(きょうらく)して瑩飾(けいじき)し、一体の二手は、更互(たが)いに揩摩(かいま)す。但だ遮障を開拓して、内に己が道を進むるのみに非ず、又た精(くわ)しく経論に通じて、外に未聞を啓(ひら)く。自匠、匠他、利を兼ねて具足す。人師・国宝は、此れに非ずば、是れ誰ぞ。而して復た仏の慈悲に諸の慳悋(けんりん)無きを学んで、止観を説き、彼に施す者は、即ち是れ門を開き蔵を傾けて、如意珠を捨つ。此の珠は光を放ちて、復た宝を雨らし、闇を照らし、乏しきを豊かにし、夜を朗らかにし、窮(きわ)まれるを済(すく)い、二輪を馳せて遠く致し、両翅(りょうし)を翥(あ)げて、以て高く飛ぶ。玉のごとく潤い碧のごとく鮮かなること、勝(あ)げて言う可けんや。香城(こうじょう)に骨を粉にし、雪嶺(せつれい)に身を投ず。亦た何ぞ以て徳に報ずるに足らん。快馬(けめ)は鞭の影を見て、正路に著(つ)く。(『摩訶止観』(Ⅱ)、510-512頁)

 三障・四魔がかえって止観の修行を盛んにすることは、あたかも猪が金山に体を揩りつければ、金山がますます輝き、多くの川が海に注いでもともとの名前を失い、薪が火を燃えさからせ、風が迦羅求羅虫(からぐらむし)を大きくするようなものであると比喩を用いて説明している。迦羅求羅虫は、風を得て大きくなり、すべてを呑み込む虫とされる。
 さらに、金剛石のような堅固な観は煩悩の軍隊を打ち破り、この頑健な足は生死の野を越え、智慧は修行を浄化し、修行は智慧を増進させ、たがいに照らし潤しあって通じあい、たがいにつながって飾りあい、一つの身体の二本の手がたがいに擦(す)りあうようなものであると述べている。
 ただ遮るものを取り除き内に対して自己の道を進む(自行)だけではなく、さらに経論に精通し外に対してまだ仏法を聞いたことのない人を啓蒙する(利他行)のである。自らを治め、他を治め、ともに十分に利益を与える、このような人を人々の師、国の宝といわなければ、いったい誰を指すのかと指摘している。
 そしてまた、仏の慈悲にはもの惜しみの心がないことを学んで、止観を説いて他の人々に施す者は、とりもなおさず門を開いて蔵の中身がなくなるまで与え、如意珠(意のままに宝を出す宝石)を捨てるようなものであると述べている。そして、この如意珠は光を放って、さらにまた宝を降らし、暗闇を照らし、乏しい者を豊かにし、夜を明るくし、困窮している者を救済し、二輪の車を走らせて遠くまで達し、両翼を羽ばたかせて高く飛ぶようなものであり、美しい宝石がみずみずしく鮮やかなさまは、言葉で言い尽くすことができないと、如意珠のすばらしい働きを説明している。
 さらに、薩陀波崙(さつだばりん)菩薩が衆香城(しゅこうじょう)で自己の骨を砕いて曇無竭(どんむかつ)菩薩を供養しようとしたり、雪山童子が雪山の峰から投身したりしても、仏の恩徳に報いることはできないと述べている。
 薩陀波崙菩薩と曇無竭菩薩の物語は、『大品般若経』巻第二十七、常啼菩薩品に出る有名なものである。薩陀波崙(Sadāprarudita)菩薩が衆香城にいる曇無竭(Dharmodgata)菩薩に会いに行く途中、供養するのにもお金がないので、我が身を売ろうとしたところ、誰も買い手がつかず憂いに沈んでいた。そこで、帝釈天が婆羅門の姿に変身して、祭祀の犠牲が欲しいから、あなたを買おうといった。薩陀波崙の発心が真実かどうかを試すためである。そこで、薩陀波崙の取った行動は、「即時に薩陀波崙菩薩は右手に利刀を執りて、左臂(うで)を刺して血を出し、右髀(もも)の肉を割(さ)き、復た骨を破り髄を出ださんと欲す」(大正8、419上9~10)という、驚くべき凄惨な布施の供養であった。ジャータカ(前生の物語)にも、自分の身を動物に施すなど類似の布施行を見ることができる。
 雪山童子については、以前にも説明したことがあるが、これも自己の身を羅刹(実は帝釈天)に捧げる物語である。
 最後に、速い馬は鞭の影を見ただけで、すぐさま正しい道に戻るという、経論に説かれ、天台の文献にもよく引用される比喩を、ここでも述べている。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。