『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第44回 正修止観章④

[3]「2. 広く解す」②

(2)生起を明かす②

②煩悩境の順序

 五陰は四分煩悩(すべての煩悩を四つに分類したもので、貪欲・瞋恚・愚癡の三毒がそれぞれ単独に生起するものが三分で、三毒がいっしょに生起するものが等分で、合わせて四分となる)と結合しており、もし四分煩悩を観察しなければ、煩悩の盛んな活動を知覚できないといわれる。たとえて言えば、船の中に閉じ込もって、水の流れに従っていけば、激しい水の流れの勢いに気づかないが、逆に川の流れを遡(さかのぼ)れば、はじめて川の水が勢いよく流れていることがわかるようなものであるとする。五陰という煩悩の果報を観察した以上、煩悩という因を発動させるので、五陰の次に四分煩悩を論じるのである。

③病患境の順序

 病気には、色陰を構成する地・水・火・風の四大という身体の病気と、貪欲・瞋恚・愚癡の三毒という心の病気がある。身体の病気と心の病気は等しいので、迷いの心では覚知できないとされる。今、四大と四分煩悩をともに観察すれば、体脈や内臓を突き動かすので、四蛇(四大をたとえる)が偏って生起し、病気が生じるようになる。そこで、四分煩悩の次に病気を論じるのである。

④業相境の順序

 衆生には数えあげることができないほど多数の業がある。散乱した心で行なう善事は微弱であるから、業境を発動させることはできないが、今、止観を修め、四大で構成する色陰境と四分の煩悩境という健康と、病患境という病気とを欠けるところなく観察すれば、業境の生死の輪を発動させる。善が萌(きざ)すから業を発動させる場合もあるし、悪がなくなるから業を発動させる場合もある。善が現われると果報を受けるから業を発動させ、悪が実現すると果報を責めるから業を発動させる。このように業の発動の仕方には多様性があるが、病の次に業を説くのである。

⑤魔事境の順序

 悪が業を発動させるから悪がまさに滅しそうになり、善が業を発動させるから善がまさに生じそうになる。魔は修行者が魔境を乗り越えることを恐れて、多くの邪魔をしたり、あるいは、その仏道を破壊しようとする。そこで、業の次に魔を説くのである。

⑥禅定境の順序

 もし魔の仕業を乗り越えれば、功徳が生じる。過去の修行という原因や現在の修行の力によって多くの禅が先を争って生起し、味禅(禅定に入ってその禅定に愛著を起こす低い禅定)や浄禅(味禅に対するもので、それ自身に愛著を起こさない清浄な禅)が縦横に生起する。そこで、魔の次に禅を説くのである。

⑦諸見境の順序

 禅にはそれを構成する要素がある。たとえば、初禅には覚・観・喜・楽・一心の五支(項目)がある。覚(新訳では尋)は物事を推し量る心の粗い働きで、観(新訳では伺)は物事を推し量る心の細かい働きを意味する。それらの要素によって邪(よこしま)な智慧が生じて、ほしいままに法を観察し、邪に顛倒(ひっくり返った考え)を生起して、誤った思索が激しくなる。そこで、禅の次に見(誤った思想的見解)を説くのである。

⑧増上慢境の順序

 もし見を誤りであると認識して、その執著を止めれば、煩悩のなかの鋭いもの(身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見の五利使)と鈍いもの(貪・瞋・癡・慢・疑の五鈍使)はどちらも生起しない。そこで、智慧のない者は涅槃を証得したと思い込む。例としては、小乗にも邪(よこしま)に四禅を四果と考えたりすることがある。四禅はこれを修して色界の四禅天に生まれることのできる禅で、外道も修するのに対して、四果は声聞の聖者の位である須陀洹果(しゅだおんか)・斯陀含果(しだごんか)・阿那含果(あなごんか)・阿羅漢果(あらかんか)を意味する。したがって、低い禅定の位を高い位と誤解するので、増上慢の例となるのである。
 また、大乗にも魔が記別を与えに来ることがある。このことは、『大品般若経』巻第十八、夢誓品に、「悪魔は変化して種種の身を作り、菩薩に語りて言わく、汝は諸菩薩の所に於いて、阿耨多羅三藐三菩提の記を受くることを得、と」(大正8、352中29~下2)と出ている。この二例はいずれもまだ覚りを得ていないのに、得たと思っている増上慢の人である。
 増上慢というと、『法華経』方便品に出る五千の上慢(※1)が有名である。そこで、見の次に慢を説くのである。

⑨二乗境の順序

 見と慢が静まったからには、過去世に小乗を習ったことが、見と慢が静まったことによって生じる。身子(舎利弗)が眼を捨てたことは、とりもなおさずその事柄である。このことは、『大智度論』巻第十二に詳しく説かれる有名な逸話である。やや長くなるが、興味深いので、引用する。

 舎利弗は、六十劫の中に於いて菩薩道を行じ、布施の河を渡らんと欲するが如し。時に乞人有りて、来たりて其の眼を乞う。舎利弗の言わく、「眼は任ずる所無し。何を以て之れを索むるや。若し我が身、及び財物を須(もち)いば、当に以て相い与うべし』と。答えて言わく、「汝の身、及び財物を須いず。唯だ眼を得んと欲するのみ。若し汝は実に檀を行ぜば、眼を以て与えられよ」と。爾の時、舎利弗は、一眼を出だして之れを与う。乞者は眼を得、舎利弗の前に於いて之れを嗅(か)ぎ、臭を嫌い唾して地に棄て、又た脚を以て蹋(ふ)む。舎利弗は思惟して言わく、「此の如き弊人等は、度す可きこと難きなり。眼は実に用無けれども、強いて之れを索む。既に得て而も棄て、又た脚を以て蹋む。何ぞ弊の甚だしきや。此の如き人輩は、度す可からざるなり。自ら調え早く生死を脱するに如(し)かず」と。是れを思惟し已って、菩薩は道に於いて退き、小乗に迴向(えこう)す。是れ彼岸に到らずと名づく。若し能く直進して退かず、仏道を成辦(じょうべん)せば、彼岸に到ると名づく。(大正25、145上18~中1)

 この話を要約すると、舎利弗が六十劫という長い期間、布施波羅蜜の修行をしていたときに、ある人が舎利弗の眼が欲しいと望んだ。舎利弗は、眼は何の役にも立たないであろう、代わりに、自分の身体や財産を与えようと言った。ところが、その人はあくまで眼を欲しいと主張したので、舎利弗は片眼を差し上げた。ところが、その人は、その眼の臭いをかいで、臭いと言って、唾を吐いて地面にたたきつけ、足で踏みにじったのである。そこで、舎利弗は、こんな奴に眼を与えなければ良かったと後悔して、布施の修行から退転したのである。これは大乗の修行を止めて、小乗に転落したことを意味する。
 次に、ガンジス河の砂粒ほど多い菩薩は偉大な心を生ずるが、一人、二人は菩薩の位に入るが、多くは二乗に堕落するという『大品般若経』(※2)を引用している。そこで、慢の次に二乗を説くのである。

⑩菩薩境の順序

 本願(過去に立てた誓願)を覚えていることによって空に堕落しない場合は、方便道の菩薩の境界(蔵教の菩薩、通教の菩薩、別教の教道の菩薩)がすぐさま生起する。菩薩が久しい間、六波羅蜜を行じないときは、もし深遠な法を聞くと、すぐに誹謗を起こして地獄に堕ちるという『大品般若経』(※3)を引用して、蔵教の菩薩(六度の菩薩)の誹謗を示し、さらに通教の菩薩にも誹謗があり、別教の低い位の菩薩は誹謗がある(別教の初心は深い法があることを知って、誹謗しないとされる)ことを示している。そこで、二乗の後に、菩薩を説くのである。
 以上、十境の順序正しい生起について説明した。実際には、十境の生起の仕方には多種多様性があり、これについては後述する。

(注釈)
※1 『法華経』方便品、「此の語を説く時、会中に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の五千人等有りて、即ち座従り起ちて仏を礼して退く。所以は何ん。此の輩は罪根深重にして、及び増上慢なり。未だ得ざるを得たりと謂(おも)い、未だ証せざるを証せりと謂う。此の如き失有り。是(ここ)を以て住せず」(大正9、7上7~10)を参照。
※2 『大品般若経』巻第九、大明品、「我れは仏眼を以て東方の無量阿僧祇の衆生、発心して阿耨多羅三藐三菩提を行じ、菩薩道を行ずるを見る。是の衆生は般若波羅蜜方便力を遠離するが故に、若しは一、若しは二、阿惟越致地(あゆいおっちじ)に住し、多く声聞・辟支仏に堕す」(大正8、284下5~9)を参照。
※3 『大品般若経』巻第十一、随喜品、「若し諸菩薩は久しく六波羅蜜を行ぜず、多く諸仏を供養せず、善根を種えず、善知識と相い随わず、善く自相空法を学ばずば、是の諸菩薩は是れ諸縁、是れ諸事なり」(大正8、298上17~22)、同上、信毀品、「是の善男子・善女人等は、先世に深き般若波羅蜜を聞く時、棄捨(きしゃ)して去る。今世に深き般若波羅蜜を聞くも、亦た棄捨して去る。……是の人は三世の諸仏の一切智を毀呰(きし)するが故に、破法の業を起こす。破法の業の因縁は集まるが故に、無量百千万億歳、大地獄の中に堕す」(同前、304下4~12)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。