『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第45回 正修止観章⑤

[3]「2. 広く解す」③

(3)「2.3. 位を判ず」

 ここでは、ごく簡潔に「此の十種の境は、始め凡夫の正報自り、終わり聖人の方便に至る」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、522頁)と述べている。第一の対象界である陰・界・入境が凡夫の正報(過去世の業の果報として受けるので正報といい、衆生の身心をいう)といい、第十の菩薩境が聖人の方便とい言われているのである。

(4)「2.4. 隠顕を判ず」

 この段には、ある対象界が現れるか、隠れるかについて述べている。具体的には、「陰・入の一境は、常に自ら現前す。若しは発するも、発せざるも、恒(つね)に観を為すことを得。余の九境は発せば、観を為す可きも、発せずば、何ぞ観ずる所あらん」(『摩訶止観』(Ⅱ)、522頁)と述べている。
 すでに述べたが、五陰・十二入の一つの対象界だけがいつも目の当たりに 存在しており、生じても生じなくても、常に観察することができる。ところが、その他の九種の対象界は生じれば観察することができるが、生じなければ観察できないとされる。

(5)「2.5. 遠近を判ず」

 この段では、第一の陰・界・入境から第八の増上慢境までの八種の対象界は正道から遠く隔たっているが、よく防護すれば、正しい軌道に戻ることができるとされる。第九の二乗境と第十の菩薩境の二種の対象界は正道から近いので、この位に至るときには、観察のないことを心配する必要はなく、少しでも修行すれば、すぐに正しくなると述べられている。

(6)「2.6. 互発を明かす」①

 十境の順序の正しい生起については上に述べた。ところが、実際に止観を実修する過程では、この十境がどのように生起するかについては、たいへん複雑で多様なあり方がある。そこで、「先に若し之れを聞かば、其の変怪(へんげ)を恣(ほしいまま)にして、心は安きこと空の若(ごと)し」(『摩訶止観』(Ⅱ)、523頁)といわれる。つまり、あらかじめこのことを聞いておけば、対象界の生じ方がどんなに奇怪で変化に富んでいても、心は虚空のように安定するであろうというものである。
 複雑な対象界の生じ方については、次第・不次第、雑・不雑、具・不具、作意・不作意、成・不成、益・不益、久・不久、難・不難、更・不更(以上をまとめて九双という)、三障・四魔(これを七隻という)の十種が取りあげられている。智顗(ちぎ)が実際に瞑想修行をしながら体験した心的経験を表現したものであろうと思う。順に紹介する。

①次第・不次第(1)

 次第には、法の次第、修の次第、発の次第の三種の意義がある。法の次第とは、浅い法から深い法へ順序だっていることである。これは十境そのものの浅深を意味している。つまり、陰・界・入境から菩薩境まで、法の高低浅深があるのである。修の次第とは、過去世に十境を修行する順序であり、あるいは今世で十境を順序だって修行することである。発の次第とは、十境を順序だって修行し、十境が順番に生じることである。
 同様に不次第にも法の不次第、修の不次第、発の不次第の三種の意義がある。発の不次第とは、対象界の生じ方が定まっていないことであり、前に菩薩の対象界が生じたり、後に陰・界・入境が生じたりすることである。修の不次第とは、地・水・火・風の四大が背く場合には、最初に病患境を修し、四分煩悩が増大する場合には、最初に煩悩境を修する。このように強い対象界から先に修するのである。
 法の不次第とは、眼・耳・鼻・舌、五陰・十二入・十八界などはみな寂静の門であり、また法界でもあるので、こちらを捨ててあちらにつき従う必要はまったくないということである。これは、第一の陰・界・入境がそのまま法界であることを述べたものであると解釈できる。これを敷衍すれば、十境がすべて寂静の門であり、また法界でもあることを述べていて、きわめて重要である。つまり、十境はすべて止観を妨げるものであるが、それらの十境は一々がみな寂静の門であり、また法界でもあるのである。これは、摩訶止観=円頓止観の中心的なものであり、その中身は、十境それぞれがそのまま法界であることを洞察することである。
 『摩訶止観』では、以下、煩悩境から菩薩境まで、それぞれが法界であることを順に説明している。ここでも簡潔に説明していく。
 煩悩がそのまま法界であることについては、「貪欲はそのまま仏道である」という『無行経』(※1)、「仏道以外のものを実践して、仏道をよく理解する」とある『維摩経』を引用してる。この『維摩経』の引用文は有名なもので、巻下、仏道品にある「若し菩薩は非道を行ぜば、是れ仏道に通達すと為す」(大正14、549上1~2)である。
 病患が法界であることについては、「今、私の病気は真実ではなく実体としてあるのではない。衆生の病気もまた真実ではなく実体としてあるのではない」という『維摩経』(※2)を引用している。さらに、維摩詰は、この病気を現じることによって自分で自分を調え、また衆生を救うとされる。維摩詰が方丈(一丈四方)の部屋で病気に仮託して説法したり、釈尊が双林(沙羅双樹)のもとで病気を仮りに現じたのは、とりもなおさず病患が法界であるという意義である。
 「方丈」は、維摩詰の住んだ一丈四方の部屋のことである。『維摩経』本文には「方丈」の語は出ないが、中国の諸注釈書に出る。鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記』の書名は、ここから取ったものである。「双林」は、沙羅双樹の林で、釈尊が涅槃に入った地である。沙羅樹が四方に二株ずつ並んで生えている中間において釈尊が涅槃に入ったので、このようにいう。(この項、つづく)

(注釈)
※1 『諸法無行経』巻上、「貪欲の性は是れ道なり」(大正15、752上7)を参照。
※2 『維摩経』巻中、文殊師利問疾品、「彼の有疾の菩薩は応に復た是の念を作すべし。我が此の病は真に非ず有に有らざるが如く、衆生の病も亦た真に非ず有に非ず」(大正14、545上25~27)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。