沖縄伝統空手のいま 道場拝見 第5回 戦い続ける実践者 沖拳会(沖縄拳法)〈下〉

ジャーナリスト
柳原滋雄

〝平成の船越義珍〟

 47歳になる山城美智が空手を専業にして14年目。サラリーマン時代をへて、33歳から空手のみの生活に入った。
 20代半ばから大阪で空手指導を始め、これまで20年近く空手を教えてきた。
 沖縄出身者が本土に渡り、直接、空手普及を行った最初の人物は松濤館空手をつくった大正・昭和時代の船越義珍(ふなこし・ぎちん 1868-1957)が有名だ。ほかにも本部朝基(もとぶ・ちょうき 1870-1944)や摩文仁賢和(まぶに・けんわ 1889-1952)、上地完文(うえち・かんぶん 1877-1949)などが知られる。
 彼らは沖縄の古い時代の空手を日本本土に広めた功労者として日本の空手史に名を残す。だが〝平成以降〟の日本で、同じ行動で実績を残した沖縄人は私の知る限り、山城美智一人である。
 それを可能にしたのはひとえに山城が受け継いだ武術性の高さにあるといえる。事実、この日の稽古内容も〝武術の塊〟というべきものに見えた。

チャンプから発刊された書籍『泊手突き本』(2018年)

 沖拳会の発展をさかのぼると、出版社チャンプとのつながりを切り離すことができない。沖拳会のセミナーに同社関係者が参加し、以後、雑誌連載、DVD発行(2012年~)、オリンピック選手の指導へと続いたことはすでに紹介したとおりだ。競技選手らへの指導は、試合の結果が出なければ次のチャンスが生まれないシビアな世界でありながら、いまでもあらゆる格闘技からの指導依頼が途切れることがない。
 海外指導もこれまで40カ国に及ぶ。最近はNHKなどのテレビ出演依頼や、各国からの特殊部隊の武術指導なども声がかかる。
 これらの事実は試合のルールが異なる格闘技であっても、人間の肉体を動かす術理に共通する原理があることを裏づけている。山城は自身の多くの格闘技体験と、さらに沖縄拳法の〝奥義〟を継承する中で、普遍的な格闘原理を獲得し、勝利という最終目標から演繹的に指導する自らの方法論を確立してきた。さらに持ち前の研究熱心がそれを後支えしている。
 山城は、対戦相手の研究まで行って選手のために作戦を立てて綿密に伝授する。それでも最後に戦うのは選手本人だ。山城は試合当日、必ず試合会場には赴くが、リングセコンドにつくことはしないという。「手放すまでが僕の仕事」と割り切る。最終的には本人とコーチに委ねる姿勢だからだ。

(山城)先生のように綿密に競技のルールや相手まで研究して、戦略をアドバイスする指導者は見たことがありません

土曜日の練習会場となる守礼堂ビル(2F)

 沖縄稽古会の指導員をつとめる上野昌史もそう言い切る。
 上野は現在、合同会社アッチャーメイクを経営、沖縄でサイの販売を手掛け始めたことでも知られる。
 守礼堂ビルでの稽古を見学したとき、山城が上野の胸を軽く正拳で叩いた(突いた)場面があった。
「まったく力を入れない、形を作っただけ」という突き方ながら、その音は鈍く、辺りに重く響いた。相当の威力があることは傍目にも明らかだった。
 本気で突いたら確実に胸骨が折れるであろう、その武術性はやはり真正のものだ。
 確たる武術を身に付けた人間が、日本本土で〝伝道〟の旅をつづけたとき、その中身が徐々に受け入れられていった。
 月に5回の頻度で沖縄と本土を往復。本土ではホテル暮らしの日々がつづいたという。

昔は365日指導の日々でした。そんな生活が10年くらい続きました

 安ホテルや安い飛行機に乗りすぎて体調を崩し、死にそうな目に遭ったこともある。
 しかしその成果か、20年近い間に22都府県に広がり、沖拳会で汗を流す門弟は500人を超える。

いくら支部が増えても、教える人がいないと継続するのは難しい。かといって私が毎回教えに行けるわけでもありません。ある程度中央で育て、その人たちが地方に戻る。そうしたことを特に関東、関西で力を入れてきました

 山城は現在をコロナ後の〝急拡大期〟と評する。私にはかつての〝空手バカ一代〟のストーリーを想起させる生き方にも映る。
 大正年間、船越義珍たちは本土の人間が接したことのない沖縄の武術を披露・普及するためにさまざまな苦労を重ねた。その結果、沖縄空手は変質しながらも、本土に定着した。だが平成・令和時代に山城の空手が本土で広がった背景には、武術性の確かさにその要因があることは明らかだ。

泊手を称した背景

沖拳会のナイハンチの鍵突きは斜めに突き出す

 当初は私も創設者の山城は東京か大阪など都心に住んで沖縄空手を教える〝都会化された沖縄人〟のイメージで捉えていた。実際に会ってみるとその思い込みは見事に裏切られた。当人はどこまでも沖縄人らしい純粋さと、他者に優しいユイマール(相互扶助)精神の持ち主だったからだ。
 事実、山城は沖縄空手界にいかに貢献できるかとの思いを強く持つ。沖縄の空手指導者の2代目、3代目が〝専業空手家〟として生きていける土壌をどのように作るかを真剣に考えている。そのために自分が本土で名前を売ることが沖縄空手界への貢献につながるとの強い思いがある。
 一方で、流派にとらわれない流派であるはずの沖縄拳法でありながら、「泊手」を称することに疑念を抱く地元関係者がいることも事実だ。疑問を本人にぶつけると、次のような回答が戻ってきた。

武士国吉は久茂地の出身でしたが泊村で修行し、中村先生にニーセーシ―とセイサン、パッサイの3つの型を伝えました。泊村の記録を調べると、泊手の使い手は50~60人いたとされます。松林流などの泊手とは確かに違う趣きの空手なのですが、泊手の中における異なる一本の系統と認識しています

〝沖縄拳法6代目師範〟を名乗る山城美智は、これまで「武士崎山、武士国吉、中村茂、宮里寛、山城辰夫」の一本の系統を明示してきた。
 沖縄拳法の創始者である中村茂は、沖縄一中(現在の首里高校)で首里手を学び、那覇手も身に付けた流派不問の系統として「沖縄拳法」を創設した。そのため同流派の空手の一部に泊手がまじっていたとしても何ら不思議ではない。だが「泊手専業」を称すると、疑問を拭えないとの地元の声を耳にすることがある。山城は本土での売り出し方については、チャンプとの〝協議の結果〟であったという。
 かつて防具付組手で名を知られた沖縄拳法は、空手だけでなく、武器、沖縄相撲を融合した総合格闘技に近い実戦的な武術。だからこそ、あらゆる格闘技に応用できる素地があるともいえる。
 その正統な後継者であり、伝道者でもある山城美智の今後は、さらなる未来性を秘めていると思えてならない。(文中敬称略)

沖縄拳法空手道「沖拳会」創設者・山城美智師範を中心に

※沖縄現地の空手道場を、武術的要素を加味して随時紹介していきます。

シリーズ【沖縄伝統空手のいま 道場拝見】:
①沖縄空手の名門道場 究道館(小林流)〈上〉 〈下〉
②戦い続ける実践者 沖拳会(沖縄拳法)〈上〉 〈中〉 〈下〉

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。