沖縄伝統空手のいま 道場拝見 第1回 沖縄空手の名門道場 究道館(小林流)〈上〉

ジャーナリスト
柳原滋雄

現存する戦後最古の道場

究道館の現在の入り口。いまも「比嘉佑直」の名前を降ろしていない

 戦後まもない食うや食わずの日々に、沖縄空手の復興にもしばらく時間がかかった。戦後10年間で那覇市にできた大型道場は長嶺空手道場(久茂地)を嚆矢とし、それにつづく比嘉佑直(ひが・ゆうちょく 1910-1994)の究道館(きゅうどうかん)があった。以来、70年。長嶺道場はすでに取り壊されたが、究道館はいまも同じ場所に残る。その意味では沖縄に現存する最も古い道場のひとつといえるだろう。
 1972年に建て替えられた現在の道場は鉄筋コンクリート2階建て。1階部分の82平米が道場スペースだ。現在、比嘉佑直の子息・比嘉佑治が所有・管理する。入り口をくぐると正面右側に道場に上がるサッシ窓があり、左側に巻藁が4本設置されている。
 1945年4月から6月までつづいた沖縄戦で廃墟と化した沖縄本島で、最初に日常生活が復活したのはこの壺屋地区一帯(那覇市)だったとされる。現在の桜坂劇場(映画館)の裏手にあたる一角で独特の陶器を売る店が今も立ち並ぶ。1954年、その高台の一角に産声をあげたのが究道館だった。
 門弟の新崎景文が著した『拳豪 比嘉佑直物語』によると、当時の究道館道場の稽古風景は次のようなものだった。

1960年ごろの練習は、予備運動から始まり、突き、蹴り、転身、型の反復運動だけで1時間費やし、あと1時間は巻藁突きを行う

 比嘉は戦後になって小林(しょうりん)流の流祖・知花朝信(ちばな・ちょうしん 1885-1969)に師事しただけに、型の種類はナイハンチ、ピンアン初段~5段、パッサイ、公相君(クーサンクー)など首里手の型が中心だった。だが道場の前面に掲げられた顔写真には首里手以外の師匠も並ぶ。
 比嘉佑直が左手刀受けを行っている有名な写真の上に、左から新里仁安(しんざと・じんあん 1901-1945)、知花朝信、比嘉佑直本人につづき、宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん 1888-1953)、宮平政英(みやひら・せいえい 1890-1958)の4人の師の写真が掲げられている。
 宮城長順は那覇手の剛柔流創始者で、沖縄戦で戦死した新里仁安は、宮城の一番弟子だった人物。
 比嘉佑直は若いころは剛柔流をたしなんだため、究道館の稽古法は単純な知花流首里手の稽古法ともいえない面がある。
 最初の予備運動の方法は宮城長順発案とされているほか、剛柔流でよく行うカキエー(2人が向き合って片手を相手の手と接触させ、攻防の技術を養う稽古法)を取り入れているのも特徴だ。さらに那覇手系のセーサン(型)も行う。首里手特有の速さ(スピード)に那覇手の重さが乗れば、鬼に金棒だろう。

海外の門弟が頻繁に稽古に訪れる

4人の師匠の写真が飾られた正面

 私が初めてこの由緒ある本部道場の門をくぐった日、イギリスから来日していた空手歴35年のクリス・デンウッド(46歳)率いる海外門弟計8人(うち女性2人)と出会った。彼らは2週間近く那覇市内のウークリーマンションに滞在しながら究道館の稽古に通っていた。本部道場の稽古日は月、水、金曜日。沖縄の空手道場でこのような光景は珍しくない。
 この日指導したのは、もうひとつの泉崎道場で館長を務める比嘉康雄(ひが・こうゆう 1973-)。究道館2代目館長・比嘉稔(ひが・みのる 1941-)の次男で、現在は県空手振興課で非常勤職員として働く。
 沖縄国際大学を卒業後、銀行や保険会社で働き、現在は空手一本の生活だ。年に4回ほど海外指導に出かける。究道館の海外道場はインドを除くと南米、ヨーロッパが中心。特に南米アルゼンチンは比嘉佑直の実弟が移民として現地指導した関係で多いときには5000人の門弟を数えた。
 ちなみに比嘉稔は父親を沖縄戦で失い、伯父にあたる佑直に育てられた時期がある。
この日の稽古は午後8時、「神前に礼」との康雄(教士7段)の掛け声で始まった。参加者は11人。
 正拳(中段)突きで始まる光景はよくみるものだが、1人が1から10までを数えて順に回していく。師範を入れて12人で回すのだが、これがいつになっても終わらない。5巡(計600本)を過ぎたところで、ようやく「上段(突き)」の言葉で終わったことがわかった。
 その間、正拳突きで腕の内側と道着が擦れる音と、外国人ならではの癖のある数字の掛け声が奇妙につづいた。その様子は気合のこもったもので、それだけでも汗が滲み出る。
 究道館の稽古は反復練習を頑なに守っているのが特徴だ。冬でも窓を開けて稽古すると、床に道場生の汗で水たまりができる。さらに壁の片側全部を占める鏡も熱気で曇ってしまうという。
 上段突きは1巡(120本)で終わり、その後は各種の突きを行った。左、右のワンツーの「連続突き」、〝巻藁スタンディング〟からの左掌底で受けて右で突く動作。いずれも《腰使い》を活用する。腰振りの反動を使って突きを飛ばすやり方だ。年をとっても、あるいは疲労しても使える技法という。
 ちなみに首里手では、ナイハンチは〝腰を振る〟系統と、振らない系統に分かれる。
 さらに「自然突き」は両手を下に降ろした状態から突く極めて実戦性の高い稽古だった。
 この頃になると、門弟たちの汗がしたたり落ちる。開始から20分ほどすぎた段階で、師範が声をかけた。
「突き、終わりましょう。汗拭いてください」
 門弟はいちように答える。
「ありがとうございました」
 汗を拭いて一瞬だけ小休止すると、師範が再び声を発した。
「はい、じゃあ『受け』いきましょう」

延々600本も続いた正拳突き。比嘉稔本部館長が指導するときは1000本突きも珍しくないという

 受け技の各種も《腰使い》を活用する点は突きの場合と変わらない。
 蹴りの時間になると、前蹴上げ、直(ちょく)蹴り(=前蹴り)、左右交互の前蹴りを全員回して120本。やったことのある人なら想像つくが、かなりの有酸素運動だ。
 つづけて「基本動作1」。下がりながらの「受け+突き」を繰り返した。
 型の稽古は、普及型1から普及型2、ナイファンチ初段~3段、ピンアン2段、初段、3~5段の順で行い、最後にパッサイ(小)。どちらかというと流していく感じだ。
 ここまでおよそ1時間。9時になると、小グループに分かれての自由研究の時間に移った。2日後に沖縄空手・古武道連盟の6段の昇段審査を受けるクリス(究道館6段)が、ナイファンチ3段とセーサンを行った。その時間に巻藁を突く日本人女性の姿もあった。
 知花系は巻藁突きを重視する傾向が強く、本来のティーの使い手であった比嘉佑直は「巻藁稽古」を特に重視したことで知られる。反面、「型の分解は基本的に行わない」(比嘉康雄)方針という。
 この日特に印象に残ったことは、外国人メンバーにも礼儀作法が徹底されていることだった。イギリスの門弟たちは道場に入るとき、入り口付近で正面に向かって端座し、深々と頭を下げていた。空手だけでなく日本文化そのものとして、欧米人に受け入れられている光景をかいま見た思いがした。(〈下〉につづく、文中敬称略)

この日の稽古に集まった門下生11人と比嘉康雄・泉崎道場館長(後列左端)

※沖縄現地の空手道場を、武術的要素を加味して随時紹介していきます。

シリーズ【沖縄伝統空手のいま 道場拝見】:
①沖縄空手の名門道場 究道館(小林流)〈上〉 〈下〉
②戦い続ける実践者 沖拳会(沖縄拳法)〈上〉 〈中〉 〈下〉

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。