第68回 正修止観章㉘
[3]「2. 広く解す」㉖
(9)十乗観法を明かす⑮
③不可思議境とは何か(13)
(10)境の功能を明かす
第六段の「境の功能を明かす」については、短い説明があるだけであるが、不思議の境に大きな働きのあることを次のように示している。
此の不思議の境に、何れの法か収めざらん。此の境は智を発するに、何れの智か発せざらん。此の境に依って誓いを発し、乃至、法愛無し。何れの誓いか具せざらん。何れの行か満足せざらんや。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、598-599頁)
と。不思議境がすべての法を収め、すべての智を生じ、この境によって誓いを生じ、ないし法に対する愛著をなくすと説いている。誓いを生ずることは十乗観法の第二の「慈悲心を起こす」(真正菩提心を発す)に相当し、法に対する愛著をなくすことは十乗観法の第十に相当する。つまり、中略されているが、十乗観法の第二から第十までのすべてを含むというものである。さらに、すべての誓いを備え、すべての修行を備えると述べている。
最後の第七段の「諸法を収摂し以て観境に入る」については、「説く時は、上の次第の如し。行ずる時は、一心の中に一切心を具す、云云」(『摩訶止観』(Ⅱ)、599頁)とあるだけである。説くときは、これまで説明してきたように、上の順序のようにすること、修行するときは一心に一切心を備えること、つまり一念三千を観察するのであり、修行に前後という時間的な差がないことを指摘している。
以上で、十乗観法の第一である「観不可思議境」の説明を終わる。一念三千説が出、『摩訶止観』のなかで最も重要な箇所なので、やや詳しく説明した。
④慈悲心を起こす(1)
次に、十乗観法の第二の「真正菩提心を発す」について説明する。十乗観法の名称を列挙する前の箇所では(大正46、52中2)、「慈悲心を起こす」と名づけられていた。ここでも、慈悲心に基づく四弘誓願が説かれているので、二つの名称は通じるところがあると考える。『摩訶止観』巻第一上の五略の第一、「発心」の項には、「是を顕わす」として、四諦、四弘誓願、六即が説かれていたが、このことからも四弘誓願が正しい発心のあり方に密接に関係していることがわかる。
この段の冒頭には、
二に真正の菩提心を発すとは、既に深く不思議境を識れば、一苦は一切苦なるを知り、自ら昔の苦を悲しむ。惑を起こして麁弊の色・声に耽湎し、身・口・意を縦(ほしいまま)にして不善業を作し、悪趣に輪環(りんかん)して諸の熱悩に縈(まとわ)り、身は苦しみ心は苦しみて自ら毀傷(きしょう)す。(『摩訶止観』(Ⅱ)、600頁)
とある。不思議境を深く認識する以上、一苦が一切苦であることがわかり、自分で昔の苦を悲しむと述べられている。一苦が一切苦であるとは、十乗観法の第一である「観不思議境」で説かれた、一即一切の論理を苦の概念に適用したものである。そして、その認識のうえに、自分の昔の苦しみに対して同情する。具体的には、自分はかつて惑いを生じて粗悪な色(いろ・形あるもの)や声に耽り溺れ、身と口と心を放縦にして悪行をなし、悪しき生存領域に輪廻して多くの激しい悩みにまといつかれ、身も心も苦しんで自分で自分を損ない傷つけてきたと反省している。
さらに、経典に基づく、多くの比喩的表現をまじえ、自分の苦悩の現状を見事に描写している。原文の引用は省略し、内容の要点を紹介する。
蚕のように愛執の繭によって自分をまきつけ、蛾のように愚かさの灯に害されて、長い時を過ごしてきた。たとい地獄・餓鬼・畜生の三途を捨てようとして、人界に生まれる原因である五戒と天界に生まれる原因である十善を喜んで、執着の心で善行を修めても、あたかも市場での交易や博奕(ばくえき)での交換のようなものである。反対にいっそう罪を増やすことは、逃げようとして魚が笱(やな)の口に入り、蛾が灯に向かうようなものである。でたらめな考えや邪な狡猾さによって、ますます道に迷い、ますます目的地から遠ざかり、喉が渇いているのにさらに塩けをなめ、龍のひげで身を縛って水に入ればますます痛み、牛の皮で体をつないで太陽に向かえばますます皮が堅くなり、目の不自由な人がいばらの林に入り、渦をまいた水の流れに溺れて落ちるようなものである。刃を手でつかみ、かがり火を抱えれば、その苦痛は表現できないほどである。虎の尾や蛇の頭を踏んだときのように驚いて痛み恐れる、と述べられている。
以上は自分の苦悩についての反省であるが、他者の苦悩に対して同情することも同様であるといわれる。そして、自己と他者に対して、「大悲」を起こし、衆生無辺誓願度と煩惱無数誓願断の二つの誓願を立てるといわれる。この誓願については、
衆生は虚空の如しと雖も、空の如きの衆生を度せんと誓い、煩悩は無所有(むしょう)なりと知ると雖も、無所有の煩悩を断ぜんと誓う。衆生の数は甚だ多しと知ると雖も、甚だ多きの衆生を度せん。煩悩は辺底無しと知ると雖も、辺底無きの煩悩を断ぜん。衆生の如は仏の如の如しと知ると雖も、仏の如の如きの衆生を度せん。煩悩は実相の如しと知ると雖も、実相の如きの煩悩を断ぜん。(『摩訶止観』(Ⅱ)、602頁)
と述べられている。まず、衆生無辺誓願度については、衆生が空のように実体のないものであっても、その空のような衆生を救済することを誓い、衆生の数はとても多いことを知っているけれども、そのとても多い衆生を救済し、衆生の如(真実ありのままの姿)は仏の如と同一であると知っているけれども、その仏の如と同一である衆生を救済すると説明している。(この項、つづく)
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