『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第49回 正修止観章⑨

[3]「2. 広く解す」⑦

(7)灌頂による十六の問答②

⑦第七の問答:対象界の個別性について

 対象界の個別性について質問が立てられる。これに対して、十種の対象界がたがいに同じでないことが個別性の意味であると答えている。さらに、共通でもあり個別的でもあること(亦た通にして亦た別なり)を取りあげ、五陰がそれに当てはまることを示している。五陰は、第一に輪廻転生して身体を受ける場合の根本であり、第二に観察する最初の対象界である。この二義によって、五陰は他の九種の対象界と相違するので「亦別(やくべつ)」(亦た別なり)といわれる。また、五陰は他の九種の対象界と共通する面もあるので「亦通(やくつう)」(亦た通なり)ともいわれる。
 これに対して、他の九種の対象界は、他と異なった特徴を生ずることから名づけられていて、ただ共通である(是れ通なり)か、個別的である(是れ別なり)かのどちらかだけであって、共通でもあり個別的でもあるということはないと述べている。必ずしも明瞭な説明ではないと思われるが、五陰の持つ二義が他の九種の対象界と区別されることを重視していることは間違いない。

⑧第八の問答:煩悩と病患も五陰と同様に「亦通亦別」ではないのか

 煩悩もすべての存在の根本であり、煩悩を対治するためには、やはり観察の対象として最初のものである、病身の地・水・火・風の四大も、やはり事象の根本であり、病気を治療するためには、やはり観察の対象として最初のものであるはすであり、どういう意味で、五陰のように、共通でもあり個別的でもあるということがありえないのかという質問が立てられる。
 これに対して、身体(色陰のこと)が煩悩に基づくならば、煩悩は前世に属するので、観察の対象とすることはできないし、今世の煩悩は、身体によって存在するので、身体を正しく観察すれば、煩悩は生じないので。観察する必要はないと答えている。病については、いつも生起するわけではないので、五陰のように根本とする点は弱いし、多くの経典・論書は病を観察の対象として最初のものとしていない。したがって、煩悩・病患は、共通でもあり個別的でもある(亦通亦別)のではないと答えている。
 さらに、通・別・亦通亦別の三句に対して、第四句について、「非通非別は、皆な不思議なり。一陰は一切陰にして、一に非ず一切に非ず」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、542頁)と述べている。後出の不思議境の説明の段に、「若し一心一切心・一切心一心・非一非一切、一陰一切陰・一切陰一陰・非一非一切……を解せば」(『摩訶止観』(Ⅱ)、592頁)とあるのを参照すれば、「一A一切A・一切A一A・非一非一切」(Aにはさまざまな概念が当てはめられる)は思議を超えたあり方を説明するときの定型句のようである。したがって、ここの本文も、「一陰一切陰」の下に、「一切陰一陰」を挿入した方が完全な文章となるであろう。また、この定型句は、「若し一法は一切法ならば、即ち是れ『因縁もて生ずる所の法は、是れ仮名と為す』にして、仮観なり。若し一切法は即ち一法ならば、『我れは即ち是れ空なりと説く』にして、空観なり。若し非一非一切ならば、即ち是れ中道観なり」(同前)とあるように、三観と関係づけて説明される。

⑨第九の問答:陰入の解に対して、別の名を付けるべきであるか

 九種の対象界が次々に生起するときには、改めて別の名をつけるのであるから、五陰・十二入の解が生起する場合、当然別の名をつけるべきであるという問題提起がなされる。陰入の解とは、陰入を観察していくと、その効果として、真理の影が心に現われる(まだ真理そのものが全現しているのではない)が、それを「解」といっているようである。慧澄癡空(えちょうちくう。1780~1862。幕末の天台学者)の『講義』には、「陰解とは、観想は功を積めば、境理は心中に影現(ようげん)して、恍惚として情理を亡ずるが若(ごと)きを謂う。是れ影を帯ぶるは、仍(な)お名相を心に挟むに由る。若し品に入りて観成ぜば、智照は独立して、相を絶して理に称(かな)う。故に五品の前相と為す」とあり、大宝守脱(だいほうしゅだつ。1804~1884。幕末から明治にかけての天台学者)の『講述』には、「言う所の陰境は、之れを観じて已まずば、則ち三千空仮中の相、心中に影現することを、是れ陰解の発と為す。即ち是れ止観の気分、品に入るの前相なり。応に知るべし、三千三諦は仍お影象(ようぞう)を帯びて、心鏡の中に現ず。未だ是れ実証ならざるが故に、解に属して陰解と名づく」とある。
 これに対して、五陰の解が生起するとき、五陰の解は五陰・十二入とはっきりと区別されるわけではないので、また五陰・十二入のなかに収めると答えている。

⑩第十の問答:十種の対象界の明確な区別

 十種の対象界は、はっきりと区別されるのかという質問が立てられる。
 これに対して、それぞれの対象界の個別的な特徴を示している。つまり、四念処(身の不浄、受の苦、心の無常、法の無我を観察すること)は五陰の個別性であり、空聚(※1)(無人の聚落)を観察することは十二入の個別性であり、無我は十八界の個別性であること、不浄観・慈悲観・因縁観・界分別観(または念仏観)・数息観の五停心は煩悩の個別性であること、八念(仏・法・僧・戒・捨・天・出入息・死の八種を念じること)は病の個別性であること、不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不貪欲・不瞋恚・不邪見の十善は業の個別性であること、五繫(両手、両足、頸の五箇所を束縛すること)は魔の個別性であること、数息門・随息門・止門・観門・還門・浄門の六妙門は禅の個別性であること、四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道の三十七道品は見の個別性であること、無常・苦・空は慢の個別性であること、四諦・十二縁起は二乗の個別性であること、六度(六波羅蜜)は菩薩の個別性であることがそれぞれ示される。(この項、つづく)

(注釈)
※1 空聚については、『維摩経』巻上、菩薩品、「天女は即ち問う。何を法楽と謂うや。答えて言わく……五陰は怨賊の如しと観ずるを楽しみ、四大は毒蛇の如しと観ずるを楽しみ、内入は空聚の如しと観ずるを楽しむ」(大正14、543上29~中2)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。