『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第100回 正修止観章 60

[3]「2. 広く解す」 58

(9)十乗観法を明かす㊼

 ⑩知次位(1)

 今回は、十乗観法の第八、「知次位」(次位を知る)の段の説明である。「次位」は、修行の階位の意味である。修行の階位を知らないと、まだ悟っていないのに悟ったと思い込む増上慢に陥る危険性があるとされる。したがって、修行者に正しく階位を知らせる必要があるのである。この段の『摩訶止観』の冒頭には、

 第八に次位を明かすとは、夫れ真(しん)・似(じ)の二位に、解脱知見有り、朱紫(しゅし)分明なり。終に謬(あやま)り謂(おも)いて、未だ得ざるを得たりと謂い、四善根を計して以て初果と為し、初果を無学と為すをせず。断証する所、未だ断証せざるを知る。四門の名・位に殊なり有りと雖も、断、及び諦理は、孱然(せんねん)として異ならず。二乗は多く一生に結を断ずることを論ず。時節は既に促(そく)なれば、教門に明かす所は、大同小異なり。過(あやま)ちて迭動(いつどう)せざれ。菩薩の教門は、但だ時は長く行は遠きのみに非ず、智・断も亦た別なり。径路(きょうろ)は乃ち殊なれども、帰途は一なり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。大正46、97中17~23)

とある。次位には真実の位(聖の位)、相似の位(賢の位)の二つの位があり、真実の位が究極的になることが解脱であり、それを認識することを解脱知見というとされる。まだ得ていないのに得たと思い込んだり、内凡の位である四善根を誤って考えて初果(声聞の四果の最初の預流果[聖の位])としたり、初果を無学果(声聞の四果の最後の阿羅漢果)としたりすることをけっしてせず、断証したこと(惑を断じ真を証得すること)とまだ断証していないことを区別する。四門(有門・空門・亦有亦空門・非有非空門)の名と位(五停心・別相念処・総相念処の三賢と煖・頂・忍・世第一法の四善根を合わせた七賢、随信行・随法行・信解・見得・身証・時解脱羅漢・不時解脱羅漢の七聖、十八有学と九無学を合わせた二十七賢聖〈※1〉など)には相違があるけれども、見思惑を断ち切ることや真諦の理を対象とすることに関しては、明らかに相違しない。二乗は多くの場合、一生に結(煩悩)を断ち切ることを論じる。菩薩の教門は、ただ時が長く修行が遠大であるだけでなく、智徳・断徳も別であり、経路は相違するけれども、帰着点は一つであるといわれる。これは、蔵教の位についての記述である。
 次に、通教の位については、まず二乗の真実・相似の位について、智は三蔵教と相違するが、惑を断ち切る位は相違しないとされ、菩薩の位に関しては、二乗と相違するとされる。
 別教については、少し詳しく説明されている。別教の惑の断、智の位については、二乗の境界ではないので、別教と名づけるとされる。つまり、菩薩の境界ということである。一応、『摂大乗論』や『華厳経』に明らかにする地位を見ると、別教の意義である。ただし、別教の意義は多様であるので、衆生の機に趣いて、さまざまに説かれる。したがって、固定的に一経に執著してたがいに批評してはならないとされる。
 今、別教の位を明らかにすると、四門(有門・空門・亦有亦空門・非有非空門)の異説はさまざまで同じではないけれども、その趣旨は同一である。通教にさまざまな位を説く場合は、それは真諦であり、別教にさまざまな位を説く場合は、それは中道であるとされる。
 次に、十種の意味によって仏法(経論)を融通させることについて説いている。要点を紹介する。第一に権実の道理を明らかにすることである。第二に教門の大綱大体を知ることである。ここには、漸・頓・不定・秘密、蔵・通・別・円が出ている。第三に経と論は矛盾していて、言葉と意義はたがいに背いているが、もし四悉檀の意味を理解すれば、そのような問題は解決されるといわれる。第四に単・復・具足・無言の誤った見解を破るべきであることが示される。第五に修行に方便があり、証得に段階があり、権実、大小、賢聖について混同しなければ、増上慢の罪は生じないと述べている。これらの五種は、順に顕体、判教、釈名、明用、明宗の五重玄義を示していると、湛然は注釈している(※2)
 次に、第六に一々の法門について、次第順序があることを述べている。第七に章段を開いて段落分けをすることを述べている。第八に経文を提示して解釈することを述べている。総体的に上の七つの方法によって語にしたがって解釈すると、意義はしたがい文は適当であるとされる。第九に梵語を漢語に翻訳すること示している。第十に一々の句偈について、聞いた通りに修行し、心に入って観察を成就することを説いている。
 以上の十種の意味のなかで、第九の翻訳については詳しく尋ねるのに暇はないが、他の九つの意味については、世間の文字の法師とも相違し、事相の禅師とも相違すると指摘している。観心修行の欠如している学問僧を文字の法師と呼び、逆に観心修行はあるが、経典の学問がない僧を事相の禅師(暗証の禅師と同じ)と呼んで批判している。次位とは、これら十種の意味の一つと述べられているが、内容的には、とくに第五の意味に関係しているように思われる。(この項、つづく)

(注釈)
※1 『釈籖』巻第十には、「仏の言わく、学人に十八有り、無学に九有り。学の十八とは、謂わく、信行・法行・信解・見得・身証・家家・一種子・向初果・得初果・向二果・二果・向三果・三果、及び五種の含なり。謂わく、中・生・行・不行・上流なり。九の無学とは、思・進・退・不退・不動・住・護・慧・倶なり」(大正33、884中8~13)を参照。
※2 『輔行』巻第七之四(大正46、381中21~下24)を参照。

(連載)『摩訶止観』入門:
シリーズ一覧 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回 第11回 第12回 第13回 第14回 第15回 第16回 第17回 第18回 第19回 第20回 第21回 第22回 第23回 第24回 第25回 第26回 第27回 第28回 第29回 第30回 第31回 第32回 第33回 第34回 第35回 第36回 第37回 第38回 第39回 第40回 第41回 第42回 第43回 第44回 第45回 第46回 第47回 第48回 第49回 第50回 第51回 第52回 第53回 第54回 第55回 第56回 第57回 第58回 第59回 第60回 第61回 第62回 第63回 第64回 第65回 第66回 第67回 第68回 第69回 第70回 第71回 第72回 第73回 第74回 第75回 第76回 第77回 第78回 第79回 第80回 第81回 第82回 第83回 第84回 第85回 第86回 第87回 第88回 第89回 第90回 第91回 第92回 第93回 第94回 第95回 第96回 第97回 第98回 第99回 第100回 第101回(11月5日掲載予定)

菅野博史氏による「天台三大部」個人訳、発売中!

『法華玄義』) 定価各1980円(税込)

『法華文句』) 定価各2530円(税込)

『摩訶止観』) 定価(税込) Ⅰ:2420円 Ⅱ:2970円 ※全4巻予定


かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。2025年、第1回日本印度学仏教学会学術賞を受賞。