第96回 正修止観章 56
[3]「2. 広く解す」 54
(9)十乗観法を明かす㊸
⑨助道対治(対治助開)(3)
次に忍辱波羅蜜の説明の段では、「恨無く、怨無きこと、富楼那(ふるな)の罵られて、手を免るることを喜び、乃至、刃を被れば疾く滅することを喜びしが如くす」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、92中18~19)と述べ、怨恨がないことは、富楼那が罵られても、手や石によって打たれることを免れることを喜び、ないし刃を受けても速やかに死ぬことを喜ぶようなものである。この富楼那に関する逸話は、『雑阿含経』巻第十三(大正2、89中22~下13)に出るものである。富楼那がしだいに厳しい迫害を受けたとしても、それにすべて忍耐する決意を示したものである。
第一段階は、西方の輸盧那国(しゅろなこく)の人が富楼那の面前で彼をひどく罵っても、まだ手や石で殴られていないと思って忍耐することであり、第二段階は、手や石で殴られたとしても、まだ刀杖を用いていないと思って忍耐すること、第三段階は、刀杖を用いたとしても、まだ殺されていないと思って忍耐することであり、第四段階は、殺されたとしても、仏弟子は身を厭うべきであり、自分の腐ってくずれた身を殺されて解脱を得るのであると思って忍耐することである。
精進波羅蜜の説明の段では、「阿難は精進覚を説くに、仏は即ち坐を起つ。大施の海を杼(く)むが如し」(大正46、92中27~28)と述べている。まず、阿難が精進覚を説く場合、仏はすぐに座席から起ち上がったという逸話は、『大智度論』巻第十五(大正25、173下4~8)に出るものである。仏が阿難に、あなたは精進覚の意味を説くのかと質問したところ、阿難は説くと答え、この問答を三回くり返したところ、仏はすぐに座席から起ち上がって、阿難に、「人は精進を修行することを好めば、何事も得られないことはない。仏の覚りに至ることができて、ずっと虚しくないのである」と精進をたたえたというものである。
大施菩薩が海の水を汲み取るようなものであるというのは、『大智度論』巻第四(同前、89中14~16)に出るものである。これは精進波羅蜜の説明の箇所に出るもので、大施菩薩が一切衆生のために、一身によって大海の水を汲み干上がらせて、如意珠を獲得した様子を精進としているのである。
禅定波羅蜜の説明の段では、禅法はとても多いので、不浄観・慈悲観・数息観・因縁観・念仏観の五門観を取りあげて助道とすると述べている。
数息観については、もし禅を実践するとき、心に覚・観(推し量る心の粗い働きと細かな働き)が多く、貪欲・瞋恚・愚癡の三毒をくまなく対象とすれば、数息観によって対治するべきであると述べている。
不浄観については、もし女性の姿に耽溺し、迷い執著して離れなければ、不浄観によって対治するべきであると述べている。愛する人が死んだばかりの様相(九想の第一である、死体の膨脹するのを観想する脹想)を観察すると、思い通りに言葉を交わしていても、たちまちどこに去ってしまったのかわからないとされ、身体は冷たく姿は変化し、虫や膿が流れ出し、汚く臭い場所に、汚れが充満し、墓地に死体を捨てると、朽ち果てた木のようであるといわれる。欲の過失を知る以上、婬欲の心はすぐに止むと述べ、九想のなかの他の八想も同様に婬欲を対治すると述べている。
慈心観については、もし瞋恚を認識の対象とすれば、慈心によって対治するべきであると述べている。さらに、慈定・悲定・喜定・捨定(四無量心に基づく)を得れば、衆生たちにとっては、瞋が生じることがないとされる。
因縁観については、もし邪な顚倒を認識の対象とすれば、因縁観によって邪な顚倒を対治し、とくに我、断見・常見を破ることが説かれる。
念仏観については、もし睡(ねむり)という道を妨げる罪が起これば、念仏観によって睡という道を妨げる罪を対治するべきであることが示される。
六度の最後の智慧(般若)波羅蜜の説明の段では、四顚倒を破ることが説かれている。四顚倒とは、無常・苦・無我・不浄である存在を常・楽・我・浄であるとする誤った見解のことである。
第一に浄の顚倒を破ることについて、四念処(身の不浄、受の苦、心の無常、法の無我を観察すること)を踏まえて説明される。身の不浄について、『大智度論』巻第十九、「身の五種の不浄の相を観ず。何等か五なるや。一には生処の不浄、二には種子の不浄、三には自性の不浄、四には自相の不浄、五には究竟の不浄なり」(大正25、198下22~24)に基づいて、五種の不浄について説いている。
第一の種子不浄とは、父の白渧(白いしずく)と母の赤渧の二諦が和合して、識(識神)の種子となり、これが不浄とされる。第二に、赤子が生まれる場所(産道の口)は下品でみだらであり、底劣で卑しいとされ、これを住処不浄、または生処不浄という。第三に出生した後、成長していく過程で、耳には耳くそを貯え、眼には目やにや涙を流し、鼻の孔には膿をたらし、口気は常に臭く、ふけが重なり、脇から酸っぱい汗が出ることなどは、自相の不浄と名づけられる。第四に、ただ屎尿の集まり、膿の集まり、血の集まり、骨髄などの集まりだけがあることは、自性の不浄と名づけられる。第五に、命が終わると、風は去り、火は冷たくなり、地は壊れ、水は流れ、虫は食らい鳥はついばみ、頭と手は身体から分離されて、血は外に溢れ流れることは、究竟の不浄と名づけられる。このように身が不浄であることを事実のうえで観察すれば、浄の顚倒を破ることができるとされる。
次に、地大・水大・火大・風大の四大によって成立した身は、常に苦しみであり、楽しむべき何物もないとされる。さらに飢え・渇き・寒さ・熱さがあり、鞭打たれ繋(つな)ぎ縛られ、生老病死があることは、苦苦(好ましくない対象から感じる苦)であり、四大がたがいに攻め入って、たがいに破壊することは、壊苦(好ましい対象が破壊されることから感じる苦)であり、一瞬一瞬流れ燃え上がることは、行苦(すべてが無常であることを見て感じる苦)であり、このような苦があるので、楽の顚倒を生じないとされる。(この項、つづく)
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