『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第95回 正修止観章 55

[3]「2. 広く解す」 53

(9)十乗観法を明かす㊷

 ⑨助道対治(対治助開)(2)

 次に、たとい人は円教の捨覚分の観を理解しても、何事につけ物惜しみして執著し、堅く動かず、ただ理解するだけで行動がない場合、このような重大な慳蔽は何によって破ることができ、三解脱門は何によって開くことができるのかという問題を提起している。
 『摩訶止観』には、

 今、道場に於いて苦到(ねんごろ)に懺悔し、決定心を生じ、大誓願を起こし、身・命・財を捨てて、決して愛惜すること無し。自ら此の檀を行じて、又た以て他を教う。檀法を讃歎し、檀者を随喜す。此の誓を立て已りて、十方の仏を称(よ)びて、証と為し救と為す。心は若し真実にして欺誑(ぎおう)無くば、能く如来は檀の光明を放って、慳蔽を照除することを感ず。『思益』等、云云。光を蒙るを以ての故に、諸の道品の捨覚と相応し、須らく一一に之れを釈出すべし。事理は既に円かなれば、能く畢竟して檀捨す。財は糞土に同じく、身は毒器に比し、命は行雲の若し。三を棄つること唾の如し。慳の障は既に破すれば、治道の義は成じて、便ち解脱を得。若し因縁無くば、之れに寄せて道を行なう。応に利益有るべければ、捨つること遺芥(いかい)の如し。是れ事の油は道の明を増すを助け、三脱門を開きて、仏性を見ることを得と為す。若し爾ること能わずば、助治の益無けん。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、92上5~16)

と説明している。要点を示すと、覚りを得た場所において懺悔し、不動心を生じ、誓願を起こし、身体・生命・財産を捨てて、物惜しみすることが決してないという行為が勧められている。自分でも布施を修行し、さらに他者にも布施を修行することを教え、布施の法をほめたたえ、布施する者に対して喜びの心を生ずる。これと類似した表現は、布施波羅蜜以外の他の五度に対しても繰り返されるが、これは『大品般若経』巻第八、滅諍品、「自ら檀那波羅蜜を行じ、人に檀那波羅蜜を行ずるを教え、檀那波羅蜜の法を讃え、亦た檀那波羅蜜を行ずる者を歓喜・讃歎す」(大正8、281下22~24)に基づくものである。
 この誓願を確立してから、十方の仏を呼んで、証人とし救護者としなければならない。もしその誓願の心が真実であれば、如来が布施の光明を放って、慳心の蔽を照らし除いてくれるとされる。財産は汚い土、身体は毒器、生命は流れ行く雲のようなものであり、この三つを捨てることは吐き捨てる唾のようなものであるとされる。このように慳心という妨げるものが破られる以上、対治の道の意義は完成して、すぐに解脱を得ることができる。以上が事の檀度(布施波羅蜜)の油が、覚りの明るさを増すことを助け、三解脱門を開いて、仏性を見ることができることであると結んでいる。
 以上は布施波羅蜜によって具体的に慳心を破る様相を説明したものである。以下、同じように、他の五度についても説明されるが、詳細な説明は省略し、興味深い点だけを取りあげて紹介する。
 持戒波羅蜜の説明の段では、仏典に出る有名な三つの逸話が、「護持・愛惜すること、浮嚢(ふのう)を保つが如くし、終に身を全うして戒を損せざるなり。毒竜は皮を輸(いた)して蟻を全うし、須陀摩王は国を失いて偈を獲たり」(同前、92上27~29)と紹介されている。
 第一の逸話は、戒律を守り惜しむことは浮き袋を保持するようにし、身体を保って戒を損なうようなことは最後までしないことを述べている。これは、『南本涅槃経』巻第十一、聖行品に説かれる愛・見の羅刹が浮き袋を旅人に乞う比喩に基づいて、戒律について少しの譲歩をすることも命取りになる恐れがあることを描いたものである。これについては、本連載の第33回で取りあげたので、詳しい紹介は省略する。
 第二の逸話は、毒竜が自分の皮を与えて蟻の命を全うさせたというもので、『大智度論』巻第十四(大正25、162上10~中2)に出るものである。ある菩薩が過去世において大力の毒龍であったときの話である。この龍が一日戒(一日だけ在家の八斎戒を守ること)を受け、出家して静けさを求め、林樹の間に入って思惟した。長い時間、坐禅をしていて、疲れて眠ってしまった。龍の規則では、眠るときは蛇の形になる。その蛇の身に美しい模様があったので、猟者はこれを見て喜び、国王に献上したらまことに素晴らしいと思って、刀で蛇の皮を剝ごうとした。龍は国を転覆させるほどの力が自分にはあるが、今自分は戒を保持しているので、自分の身を顧慮せず、仏語に従うべきであると考えた。そこで、忍耐して、皮を剥がされるままにしても、後悔はなかった。皮を剥がされたので、赤肉はむき出しになり、太陽に照らされて、転げ回る苦痛であった。大水のところに行こうとすると、小さな虫がその身に食らいつく。しかし、持戒、仏道のために、自分の肉を虫に布施した。その龍は息絶えて、忉利天に生じた。そのときの毒龍は、釈迦文仏のことであると説かれる。
 第三の逸話は、須陀摩王(普明王)が国を失って偈を獲得したというものである。この逸話は、一説によれば、太宰治の『走れメロス』の種本になったといわれる。千人の王の頭を刎ねて家の神を祭ろうとした斑足王(鹿足王)は、千番目の王として普明王を捕らえたが、かえって普明王に教化された物語である。『仁王般若波羅蜜経』巻下、護国品(大正8、830上24~中28)によれば、昔、天羅国王に斑足という太子がいて、外道の羅陀師の教えによれば、千人の王の頭を取って家神を祭れば、王の位に登ることができるということであつた。斑足王はすでに九百九十九人の王を得て、もう一王だけであった。そこで北に一万里を行って普明王を捕縛した。普明王は斑足王に、一日、沙門に食事の供養をして三宝に頂礼することを許可してくださいと願った。班足王は、一日の猶予を与えた。そのとき、普明王は過去七仏の法によって、百の法師に請い、百の高座を準備し、一日に二回、般若波羅蜜の八千億の偈を講義してもらった。第一の法師は、普明王のために、「……形に常主無く、神に常家無く、形神すら尚お離る。豈に国有らんや」という偈を説いた。それを聞いた普明王は深く理解した。天羅国の斑足王のもとに帰還し、他の九百九十九人の王に、臨終のときは、その偈を誦するように告げた。そのとき、斑足王は諸王に何の法を誦しているのかと質問した。普明王は、斑足王に答えて上の偈を教えた。斑足王はこの法を聞いて、空三昧を得た。九百九十九の王も三空門定(空・無相・無作の三解脱門)を証得した。そのとき、斑足王は大いに歓喜して、諸王を放免し、自分も国を弟に譲って出家し、無生法忍を証得したというものである。(この項、つづく)

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。