『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第86回 正修止観章㊺

[3]「2. 広く解す」㊹

(9)十乗観法を明かす㉝

 ⑥破法遍(14)

 (5)中道正観の破法遍③

 ③正しく中観を修す

 次に、第三段の「正しく中観を修す」段について説明する。中観は正面から無明を破るものである。最初の空観は真(空)を観察するものであり、次の仮観は仮を観察するものである。仮観は、ただ空の智慧を観察して、不空にさせ、一心において万行を一つひとつ指し示し、法眼を生じて、くまなく薬と病を知るので、仮観と名づけるとされる。空観と仮観の二観が惑を破るとき、これを智と名づけるが、今、中道をながめると、二観の智慧(二諦の智慧)は逆に惑になってしまう。この惑は中智(中道の智)を妨げる智障となると示される。
 このように、二諦の智慧は、無明と合わさって、中道を妨げるとされ、さらにまた、妨げる主体は惑であり、妨げる対象は中智であり、妨げる主体と対象を合わせて論じるので、智障というとされる。
 次に、それでは、どのようにこの二智(二諦の智)が無明であると観察するのかという問題を提示している。これに第一に無明を観察し、第二に法性を観察し、第三に真修・縁修を観察するという三種の場合があると示している。
 第一に無明を観察することについては、この空・仮の二智は、法性から生じるのか、無明から生じるのか、法性と無明が合わさって生じるのか、法性と無明から離れて生じるのかという四句分別を提示し、いずれの場合も成立しないことを指摘している。
 そして、中道の観の観の三義について、

 前に見思・塵沙は久しく已に穿徹(せんてつ)す。唯だ二観の智をば、即ち金剛に喩う。智障を観破(かんぱ)するを、貫(※1)穿(かんせん)の観と名づく。心を此の理に安んずるを、観達(かんだつ)の観と名づく。此の理は不可思議なるを、第一義空と名づく。二乗の頑境(がんきょう)の空に待して、名づけて智慧と為せども、此の法性は智に非ず、不智に非ず。是れ中観に三義を具すと為すなり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正82上16~20)

と述べている。見思惑と塵沙惑については、空観と仮観によって、長い期間にわたって穿(うが)ち破っている。ただ空観と仮観の二観の智を、金剛(堅固なダイヤモンド)にたとえる。智障を観察して破ることを貫穿の観と名づけ、心をこの理に安んじることを観達の観と名づける。そして、この理は不可思議であり、そのことを、第一義空と名づける。二乗の頑迷な境の空に相対して智慧と名づけるが、この法性は智でもなく、不智でもない。以上が中観の三つの意義、つまり、貫穿の観、観達の観、法性は智でもなく不智でもないが法性を観とすること(つまり不観の観)である。
 次に、中道の止の三義についての説明がある。心の本源に到達すると、無明が静かになることを止息(しそく)の止と名づけ、心をこの理に安んじることを停止(ちょうじ)の止と名づける。常住の理は、止でもなく、不止でもなく、無常の動に相対するので、止という。とりもなおさず止でもなく、不止でもないとされる。以上が中道の止の三義(※2)である。
 第二の法性を観察することに関しては、無明は法性にほかならないと確定的に思い込むことも誤った考えであるとされる。無明の心が滅して、法性の心が生じるのか、無明の心が滅しないで、法性の心が生じるのか、無明の心が亦滅亦不滅(滅するのでもあり、滅しないのでもないこと)であって、法性の心が生じるのか、無明の心が非滅非不滅(滅するのでもなく滅しないのでもないこと)であって、法性の心が生じるのかという四句分別を提示し、いずれの場合も成立しないことを指摘している。
 第三の真修(ことさらに修行しようという意志を起こさずに無心無作で行なう修行のこと)と縁修(真如を縁ずる有心有作=作為的な修行のこと)に焦点をあわせて無明を破ることに関しては、智・明(真理に明るいこと)について、縁修であるのか、真修であるのか、真修と縁修が合わさって修行するのか、真修を離れ縁修を離れるのかという四句分別を提示し、いずれの場合も成立しないことを指摘している。

 ④中観を修する位

 次に、第四段の「中観を修する位」の段について説明する。ここでは、別接通(通教から別教に接続すること)、別教、円教の位について説明している。別接通に関しては七地において修行を論じ、八地において証得を論じるとされ、別教は十廻向において修行を論じ、登地(初地に登ること)において証得を論じるとされる。この別接通と別教の中道観は、凡夫の人にとっては、高尚すぎて、利益がないと示される。
 円教については、随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品の五品(『法華経』随喜功徳品に基づいて考案された円教の位で、十信=六根清浄位=相似即よりも低い位)の最初(随喜品)は凡地にすぎないが、円かに三諦を観察することができる。また、中・空を修行して如来の座に座り、寂滅忍を修行して如来の衣を着し、仏の禅定・智慧を修行し、如来の荘厳によって自分で荘厳し、対象に制約されない絶対平等の仏の慈を修行して如来の部屋に入るとされる。そして、初品(随喜品)から第五品の正行六度品に進んで入り、相似即の法が生じ、六根清浄に入るのである。五品弟子位において中道を修行して 相似即の理解を生じ、初住に転入して、すぐに無明を破るとされる。
 このように始め初品(随喜品)から終わり初住に至るまで、一生の間に修行することができ、一生の間に証得することができるとされる。通教と別教という前の教においては、高い位ではじめて証得するが、これは方便の説であるからであり、円教の場合は、低い位で証得するのは真実の説であるからであると述べられる。
 最後に、中道の正観によって無明・法性を観察すると、二辺(二つの極端)によらず、四句(自生・他生・共生・無因生)によらず、究極的に清浄であり、頼ることがなく、執著することがないとされる。そして、この智はからっと開けて、一つの破は一切の破であり、広く行きわたらないことはないので、破法遍と名づけるのであると述べられる。これで、中道正観の破法遍がおわり、また竪(縦)の破法遍の段落の説明が終わったことになる。

(注釈)
※1 底本の「観」を、『全集本』によって「貫」に改める。『摩訶止観』巻第三上、「観に亦た三義あり。貫穿の義、観達の義、不観に対する観の義なり」(大正46、21下5~6)を参照。
※2 『摩訶止観』巻第三上、「止息の止は、真を体するに似たり。停止の止は、方便随縁に似たり。非止の止は、二辺を息むに似たり」(同前、24上19~21)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。