第97回 正修止観章 57
[3]「2. 広く解す」 55
(9)十乗観法を明かす㊹
⑨助道対治(対治助開)(4)
今回は、十乗観法の第六、「助道対治」(対治助開)の段の説明の続きである。前回は、智慧(般若)波羅蜜の説明の段に示される四顚倒を破るなかで、浄の顚倒と楽の顚倒を破ることまで説明した。今回は常の顚倒と我の顚倒を破ることから説明を始める。
常の顚倒を破ることについては、生命の無常性について次のように述べている。無常という殺人鬼は、豪傑や賢人を選ばず誰にでも襲いかかるものなので、安心して百歳の寿命を希望することはできないし、突然死ぬ場合、あらゆる財産や金銭はむなしく他人の所有となり、暗くただひとり死んでゆく。もし無常を悟るならば、暴水、猛風、電光よりも速く、どこにも逃げ避ける場所がないので、争って火宅を脱出し、早く火事から免れ救われることを求めるように戒めている。以上が常の顚倒を破ることである。
我の顚倒を破ることについては、凡夫は無量劫以来、すべての行為や事柄に対して、我(アートマン)が実在すると誤って考えてきた。それは、膠(にかわ)を手に塗ると、物を取るにしたがって物が手にくっ付くようなものであるとたとえられている。さらに、興味深い逸話を紹介している。
第一の逸話は、「彼は夜の房にて謂いて鬼有りと言うも、天は明けて照了するに、乃ち本(も)と旧人なるが如し」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、94上23-24)というものである。これは『大智度論』巻第九十一(大正25、704下29~705上13)に基づくものである。
ある旅の僧が山中の仏塔の別房に宿泊することを願い出たところ、その房には鬼がいて修行者を悩ますと忠告されたが、旅の僧は自分には持戒、多聞の力があるので、小鬼は恐るるに足らずと言って、その房に入った。暮れにさらに別の僧が来て一夜の宿を願ったところ、前の僧に対する忠告と同じ忠告を受けたが、この僧も小鬼は恐るるに足らずといって、その房に入ろうとした。先に入った者は端坐して鬼を待っていたが、外から僧が戸を打って房に入ることを求めると、さては鬼が来たと思い込んで、戸を開けようとしない。外の僧も力尽くで戸を開けようとして、力比べとなったが、ついに戸が開いた。二人の僧は闇のなかでたがいに激しく殴り合ったが、朝になって光が房に差し込むと、何と二人は旧知の間柄であることがわかり、たがいに恥ずかしく思い陳謝した。多くの者が集まってきて、これを笑ったというものである。二人の我の対立が起こした悲喜劇を示したものであろう。
第二の逸話は、「又た、智慧無きが故に、計して我有りと言うも、慧を以て之れを観ずるに、実に我有ること無し。我は何処(いずこ)に在るや。頭・足・支節、一一に諦(あき)らかに観ずるに、了(つい)に我を見ず。何処にか人、及以(およ)び衆生有らん。業力の機関は、仮りに空聚(くうじゅ)と為り、衆縁従り生じ、宰主有ること無し。空亭に宿れる二鬼の屍(しかばね)を争うが如し」(大正46、94上24-28)というものである。ここでは、我が存在しないことを強調した後、二匹の鬼の話を出している。これは『大智度論』巻第十二(大正25、148下4~27)に基づくものである。
ある人が旅先で空き屋に宿泊したところ、一匹の鬼が死体を担いで入ってきた。さらにもう一匹の鬼が追いかけて来て、その死体は自分のものだと主張し、激しく喧嘩を始めた。二匹の鬼は死体のそれぞれ片手を捉えて争いを始めた。そこで、前の鬼がここに人がいるので質問しようというと、後の鬼が、「この死人は誰が担いで来たのかと」とその人に質問した。その人は本当のことを言っても、嘘を言っても、どうせ殺されるであろうと思い、思い切って「前の鬼が担いで来た」と答える。後の鬼は怒って、その人の片腕を抜き取って、地面に置くと、前の鬼がそれを死体の腕と交換して死体にくっ付ける。このようにして、両腕・両足・頭・脇など体全体を取り替えたのである。そこで、二匹の鬼は、交換されたその人の肉を平らげて去って行った。その人は、私が父母から受けた身は鬼がすべて食べ尽くしてしまったが、今私の身(死体と全身が取り替えられたものであるが、話のなかでは意識があって生きていることになっている)は、他人の身である。果たして、私には身があるのか、ないのか。あるとすれば他人の身であり、ないとすれば現に身がある。このように思惟して狂わんばかりに迷い悶えた。
次の日、その人は旅立って、やがて仏塔の僧と出会った。そこで、自己の身はあるのかないのかと質問した。比丘たちは、あなたは何者かと尋ねると、その人は私は人であるか、人でないかわからないと答え、前日のことを詳しく話した。比丘たちは、それを聞いて、この人は無我を知っているので、救い易いと思い、あなたはもともと無我であり、ただ四大(地・水・火・風)が和合しているので、我が身があると思い込んでいるだけであり、あなたのもともとの身(鬼に食われる前の自分)も今の身と変わることはないのであると教えた。この人は、そこで導かれて出家し、修行して阿羅漢となったというものである。このように、観察するとき、我の顚倒が止むとされる。
このように四顚倒を破れば、菩薩心が生じて、生死輪廻を大いに恐れ、それから脱出することを求める。この脱出に、声聞・縁覚・菩薩の三種の区別があるとされる。それぞれ動物にたとえて次のように説明している。
声聞は、麞(くじか)が狩猟のための囲みが設けられることを聞いて、すぐに驚き疾走し、水草に出合っても、飲食する暇もなく、ただ免れ脱出することだけを考えることにたとえられている。縁覚は、鹿が囲みを通り抜け、少しばかり難を免れることができ、仲間をふり返り、悲しい鳴き声を出すが、行きつもどりつ足踏みするだけで、悲しみながら前進することにたとえられている。縁覚は自分で生死を脱出して、衆生を憐れに思うが、衆生に対して悲しみ嘆くけれども、救済することができないのである。
菩薩は大象の王にたとえられている。大象の王は囲みについて聞くけれども、自分だけで去ることに耐えられず、自分の力が大きいことを自覚して、子らを守り、群に安全に危害から免れることができるようにさせることができる。菩薩は、無常・無我を正しく観察し、生死を正しく恐れるとともに、母が子を思うように、道理に暗く苦に焼かれることを理解しない衆生に対して慈悲を起こし、衆生を見捨てないのである。
菩薩は生死を恐れるけれども、常に善という根本を求め、衆生を担うので、二乗とも同じではなく、生死に留まるけれども、五官の欲望を貪るのではなく、ただ衆生を広く救済するだけなので、凡夫とも同じでない。以上が事の般若を修行する様相とされる。
このように六度によって六弊を破るのであるが、具体的な六度とともに、諸法実相の理を観察する理観も必要であり、事と理の修行が合わさって、助道対治が可能になるのである。(この項、つづく)
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