特別展「本阿弥光悦の大宇宙」を振り返って

美術史家/美術ライター
高橋伸城

多彩な美術品が一堂に

 本阿弥光悦という人がいた。
 16世紀の半ば過ぎに生まれ、17世紀の半ば近くに死んだ。
 戦国の世に始まり、織田信長と豊臣秀吉の台頭、徳川家による政権の確立と、時代はめまぐるしく変わった。

 光悦は生前から能書として知られていた。現存する書状などから、陶器や漆器の制作にも関わっていたことが分かっている。

 京都を拠点とする本阿弥家は、遅くとも室町時代より刀剣の鑑定、磨き、拭いなどを家職とし、歴代の為政者をはじめ名だたる武家に仕えた。
 彼ら一族は、日蓮の教えを信奉する法華衆(法華宗)でもあった。「法華衆(法華宗)」の名称は、日蓮が法華経を根幹の経典としたことによる。

 2024年1月から3月初旬にかけて、上野の東京国立博物館で特別展「本阿弥光悦の大宇宙」が開催された。
 国宝に指定される漆器の「舟橋蒔絵硯箱」、重要文化財に指定される「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(以下「鶴下絵」)や茶碗の「時雨」など、実にさまざまな美術品が光悦の作として一堂に会した。
 本阿弥家が携わったとされる刀剣や、そのほかの関連資料も充実していた。

本阿弥光悦「舟橋蒔絵硯箱」 国宝 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵
ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

五島美術館の光悦展との比較

 光悦の多岐にわたる作品を集めた展覧会には、いくつか前例があった。とりわけ2013年に五島美術館で開催された特別展「光悦――桃山の古典」と今回の光悦展との間には、特筆すべき共通点と相違点が認められる。

 共通点としてまず挙げられるのは、展示品の内訳だ。両者の出品目録を比べてみると、東京国立博物館の光悦展に出陳された美術品の4割近くは、五島美術館の光悦展にも含まれていた。
 また、展覧会の意図についても、おおむね一致している。それは、光悦の事績をめぐって形成されてきた従来のイメージを問い直すことにあったと言えるだろう。

 一方、相違点も著しい。なかでも、両者は光悦の人物像を再考するという意図を共有しながら、アプローチの仕方が大きく異なっていた。
 図録や紀要に記された文言を借りて要約すると、五島美術館の光悦展は、歴史的な「基本資料」を「可能な限り冷静かつ客観的な眼差し」で再読・再検討し、「より合理的な光悦像」を目指すものだった。
 光悦が成し遂げたとされる仕事のうち、どこまで明証があって、どこから裏付けがないのかを仕分ける合理性が重視された。

 五島美術館における光悦展では成果も目覚ましく、図録に掲載された中村修也氏の論文「光悦の芸術性のルーツ」は、本阿弥家の系図を歴史的に分析したものとして現在でも傑出している。
 展示品の選択やそれらに付される説明文の記述にも工夫が見られた。たとえば、美術館側の意向を直接に反映しているかどうかは別にして、代表作の1つでありながら光悦の真筆であることが何人かの研究者によって疑われている「鶴下絵」は出品されなかった。

本阿弥光悦筆/俵屋宗達下絵「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(部分)」 重要文化財 江戸時代・17世紀 京都国立博物館蔵
ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

 では、東京国立博物館の光悦展はどのような手法をとったのか。その力点は、光悦の信仰に置かれていた。
 同館の松嶋雅人氏は図録のなかで、「法華信徒としての光悦を踏まえたうえで、光悦の造形を考えることが今後ますます、重要になる」と指摘する。
 展示の構成や各作品の説明文をとおして、様式や技法の美的な分析のみならず、日蓮の教義やそれを実践する人たちとの関連が強調された。

 五島美術館の展示にはなかった「鶴下絵」も、光悦と同じく法華衆だった可能性のある絵師・俵屋宗達との共作として、また「彼らの信仰世界に相即している」実例として、出品のリストに加えられた。

 筆者はこれまで光悦を中心に、法華衆の信仰と造形活動の関係を探ってきた。本記事では東京国立博物館の光悦展を振り返り、特に信仰の観点からその意義について述べたい。

「蓮」に見る法華衆の祈り

 展示品の中に「蓮下絵百人一首和歌巻断簡」(以下「蓮下絵」)がある。
 蓮の一生を描いた金銀泥の下絵に『百人一首』の和歌を書写したもの。もともとは全長25メートル以上の大作だったと考えられているが、明治の半ばまでに分割されていった。
 現在は国内外の美術館などに「断簡」として所蔵されている。

本阿弥光悦「蓮下絵百人一首和歌巻断簡」 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵
ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

「蓮下絵」の墨と金銀泥、あるいは文字と絵の関係を様式的に論じた研究は多い。
 ところが、鎌倉時代の初頭に藤原定家の選んだ歌をもとに成立した『百人一首』の内容と、蓮というモチーフの関係を主題的に分析したものは、一部を除いてほとんどなかった。
 また、『百人一首』との関係を離れて、蓮の絵を単独で解釈する場合には、浄土の風景と結びつけるのが一般的だった。

 筆者は2022年12月に発表した文章で、アメリカのメトロポリタン美術館に収蔵される「蓮下絵」の断簡を取り上げた(『聖教新聞』2022年12月26日付)。
 要点は大きく3つあった。
 第1に、『百人一首』と蓮の取り合わせを吟味した数少ない先例である河野元昭氏の論考にもとづき、下絵と和歌の互いに補い合う様相を探った点。
 第2に、恋歌が多いという『百人一首』の特徴を踏まえて、人に限らず、手の届かないものを対象とした中世までの「恋」が祈りに近いものだったと捉えた点。
 第3に、法華経の正式名称である「妙法蓮華経」の中心を占めるとともに、多くの場合、日蓮の残した文字曼荼羅の真ん中にも位置した「蓮」の字が、光悦をはじめ法華衆の日常的な祈りと密接に結びついていたと想定し、この花が歌人たちの祈るような「恋」の感情を包む舞台になったと推測した点だ。

法華経と『百人一首』の関係

 東京国立博物館の光悦展で書を担当した樋笠逸人氏は、図録に掲載の論文のなかで、法華経と『百人一首』の関係をさらに具体的に検証している。
「蓮下絵」の主題を考察するにあたり、主に2つの文献が要となる。1つは日蓮の著作で、次のような引用が示される。

 蓮華と申す花は菓と花と同時也。一切経の功徳は先に善根を作して後に仏とは成ると説く。かゝる故に不定也。法華経と申すは手に取れば其手やがて仏に成り、口に唱ふれば其口即仏也。

 これは「妙法蓮華経」という経題に関する箇所で、「花」と同時に「実(菓)」のなる蓮が、善根を積むのと同時に仏になるたとえとして取り入れられたと日蓮は述べる。だから、「法華経というのは、手に取ればその手がすぐさま仏になり、口に唱えれば口がそのまま仏なのだ」と。

 参照されるもう1つの文献は、『百人一首』の注釈書だ。
 和歌の分野でも古くから植物の形態は比喩として用いられており、「花」は表に現れた言葉、「実」は内に秘める心になぞらえられた。
 このたとえに依拠して、室町時代に書かれた注釈書は『百人一首』の成立について次のように記す。
『新古今和歌集』の編纂に参加した藤原定家が、「花」ばかりで「実」を忘れたこの撰集に満足できず、「実」を根本として、それに「花」を少し兼ね備える『百人一首』を自ら編み直したと。

 光悦が蓮の下絵に書を重ね合わせたように、樋笠氏は日蓮の著作に『百人一首』の注釈書を照らし合わせていく。
 そして、「花」と「実」が同時になる蓮のモチーフは、和歌における「花」と「実」、つまり言葉と心のあるべき均衡を模索して定家が選んだとされる『百人一首』の内容とよく相応すると結論した。

 和歌の比喩と接合することで初めて造形的な意義が浮き彫りになった上述の日蓮の言葉は、光悦にとどまらず、より広く法華衆の制作活動を解き明かす証文の一つになり得るのではないだろうか。

展覧会に初めて並んだ扁額

 東京国立博物館の光悦展に入ってしばらく歩くと、壁一面に四つの大きな額が並んでいた。
 寺院の門戸などに掲げる扁額で、光悦の揮毫した寺号や山号を木の板にかたどったとされている。事実、表面に光悦の署名を刻みつけているものや、裏面の銘で書き手の光悦に言及するものもある。

 これだけまとまった量の扁額が出品されるのはおそらく初めてで、2013年に開催された五島美術館の光悦展と決定的に異なる点でもあった。
 光悦の信仰に関連して扁額が重要であるのは、単にそれらが寺院にあるからだけではない。近年の研究で、扁額の奉納に関する興味深い経緯が分かってきたのだ。

寺院を2つに分けた出来事

 中世以降、日蓮の教団では他宗からの施しを受けてはいけない(不受)、また他宗への施しをしてはいけない(不施)という決まりが共有されていた。
 ただし、特に京都で布教を進めるにあたり、将軍や公家などの為政者を例外として認め、施しを受けていた時期もあった。
 15世紀の中頃からは、為政者も例外とせず、幕府などの公許を得る形で、不受の徹底を試みるようになる。

 不受不施のうち、不受に対する態度が寺院や僧によって大きく分かれるきっかけになったのは、文禄4年(1595)9月に豊臣秀吉が行った大仏千僧会だった。
 これは、京都に大仏が完成したのに伴い、秀吉が亡き祖父母に対する法会として仏教の各宗に出仕を命じたもの。参加した僧侶には食事(斎食)が供されることになっていた。

 出仕を命じる書状が出されたのを受けて、京都の法華宗諸寺で協議の場が持たれた。
「これを拒めば寺院が破却されるかもしれない。一度だけでも出仕すべきだ」という意見が大方を占めるなか、妙覚寺の日奥という僧が出仕を拒否した。
 おそらく各人のなかで矛盾なくあったであろう〝教団を存続させたい〟という思いと、日蓮に淵源があるとされる教義を厳格に守るべきだという意志が、1つの政治的な出来事を契機にして、寺院を2つに分けた。

 以後、京都では為政者からの施しを例外として認める「受不施」の寺院が多数となった一方で、為政者からの直接的な関与を被りにくい関東では、どんな例外も認めない「不受不施」を支持する寺院がいまだ大半という状況が生まれた。
 光悦が扁額を手がけていたのは、まさにこのような時代の渦中においてだった。

「両派の一味和合」を願って

 では、光悦はどのような寺院に対して扁額を奉納していたのか。
 栗原啓允氏は2023年の論文で、新しく見いだされた光悦の書状を手がかりに、次の2点を明らかにした。
 1つは、光悦が扁額を手がけた背景には、加賀藩の藩主・前田利常の母で、自らも法華信徒だった寿福院による働きかけがあったこと。
 もう1つは、寿福院が受不施・不受不施の区別なく諸寺の再興に務めたのと同じように、光悦もまた相手がどちらに属するかにかかわらず扁額を奉納していたことだ。
 栗原氏はこう記す。

 関東を舞台として受不受両派の対立が先鋭化していく慶長末年から寛永七年(一六三〇) の「身池対論」に至る約二〇年間に亘って、寿福院は両派の一味和合を願いつつ諸本山に対して隔てなく諸堂の寄進を繰り返していた。そしてそれら諸堂の多くには光悦の扁額が掲げられた。この事実は寿福院の資助を受けて建立された諸堂と、本阿弥光悦の筆になる扁額が一体の事象として存在していたことを推測させるに加えて寿福院の法華教団の一味和合の願いは光悦にも共有されていたことを教える。

茶碗屋・樂家の場合

 光悦と寿福院の事例は、寺院が受不施と不受不施に分かれたからといって、どちらか一方に属する信徒が、他方の考えを簡単に、また完全に放棄できたわけではなかったことを物語っている。
 そこには、教義も教団もともに大切であるという、一人一人の素朴な実感があったのであろう。

 日奥が住持を務めた妙覚寺の檀徒に、茶碗屋の樂家がいた。同寺は江戸時代に入って間もなく、幕府の介入によって受不施へと立場を変えさせられる。
 当時の法華衆を取り巻く状況について、樂家15代の直入氏は2018年の著作『光悦考』で次のように推測する。

 法華宗十三ヶ寺はじめ大半の寺院が「受不施」派に回ったが、日奥のまっすぐな志と信仰への熱い信念に共感する人々も多く、むしろ法華町衆の心の奥にしっかりと根づいていったに相違ない。たとえ相手が太閤秀吉だろうと家康だろうとも毅然として反骨の思想を展開、その激しさゆえに宗門内での論争をも巻き起こし、為政者の介入弾圧を受けたが、妙覚寺日奥上人の率いた「不受不施」思想のラディカルさは、一筋に仏を求める信仰なるものの真実を指し示しているといえる。

 16世紀から現代に至るまで、京都に身を置きながら造形と信仰を実践し続けてきた樂家が、日奥やそれに連なる思想をどのように捉えてきたかを伝える貴重な証言だ。

思想的な対立を超えて

 不受不施への態度が一様でなかったのは、光悦も同じであったと思われる。
 本阿弥家が菩提寺とする本法寺は、大仏千僧会の件があって以降、受不施を支持していた。
 ところが、15世紀に同寺を創建した僧は誰かというと、為政者からの施しを例外として認めるのがまだ当たり前とされていた時代に、初めてその疑義を正した日親だった。

 江戸時代の諸資料によれば、本阿弥家は日親との出会いを直接のきっかけにして入信した。
 光悦自身も「寛永四年試筆」に「本法寺開山上人」と書き入れるなど、晩年まで日親を敬慕していた様子がうかがえる。

 加えて、一時期は受不施と不受不施で分かれた本法寺と妙覚寺、それぞれの檀徒である光悦と樂家は、屋敷を近所に構え、互いに手を貸し合いながら、茶碗づくりに励む間柄だった。

 光悦の扁額や樂家との協業は、寺院の思想的な対立を超えたところで法華衆の造形活動がなされていたことを示唆する。
 これを逆の方向から見ると、受不施であるか不受不施であるかに関係なく、寺院の側に光悦の扁額を欲し、所有し、さらに後代まで継承する人たちがいたことによって、寿福院や光悦の分け隔てのない活動が明らかになったと言えるだろう。

光悦研究のスタート地点

 五島美術館と東京国立博物館の光悦展がそれぞれに主眼とした合理性と信仰は、相反するものではない。

 前者の合理性は、徹底して対象を解剖する。
 すでに漆器の分野でCT撮影が導入されているように、今後は光悦の書作品に対しても最新の技術を用い、肉眼では見えなかった部分まで可視化して、真贋を選り分ける作業が必要になるだろう。

 対照的に後者の信仰は、見えないものへの視線と、何かを目の前にしたときの本来的な語りにくさへの自覚を回復する。
 一人の人物のうちで、信仰と造形がどう関係していたかという問いをめぐって、これ以上はもう黙るしかない、語ってしまったらウソになる、そのギリギリのところで記述する試みを促すだろう。

 約10年の時を経て、合理性と信仰という2つの視点が相そろったいま、光悦研究はようやくスタート地点に立ったと言えるのかもしれない。

〈参考文献〉
河内将芳『中世京都の都市と宗教』(思文閣出版、2006年)
栗原啓允「本阿弥光悦扁額揮毫の背景――新出の「光悦書状」を巡って」(『日蓮仏教研究』第14号、2023年3月)
河野元昭[編]『光悦――琳派の創始者』(宮帯出版社、2015年)
高橋伸城「海を渡った法華衆の芸術 米国編6」(『聖教新聞』2022年12月26日付)
玉蟲敏子「光悅書宗達畫「蓮󠄀下繪百人一首和歌卷」の傳來と復元に關する一考察――新出斷𥳑の紹介をかねて」(『國華』第1403号、2012年9月)
玉蟲敏子『俵屋宗達 金銀の〈かざり〉の系譜』(東京大学出版会、2012年)
寺尾英智/北村行遠『日本の名僧14 反骨の導師 日親・日奥』(吉川弘文館、2004年)
宮崎英修『不受不施派の源流と展開』(平楽寺書店、1969年)
『光悦』(第一法規出版、1964年)
『光悦――桃山の古典』(五島美術館、2013年)
『五島美術館研究紀要』第2号(2013年)
『特別展 本阿弥光悦の大宇宙』(NHKほか、2024年)
『日蓮宗事典』(日蓮宗宗務院、1981年)

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たかはし・のぶしろ●1982年、東京生まれ。創価大学を卒業後、英国エディンバラ大学大学院で芸術理論、ロンドン大学大学院で美術史学の修士号を取得。帰国後、立命館大学大学院で本阿弥光悦について研究し、博士課程満期退学。2021年12月、『法華衆の芸術』(第三文明社)を出版。