連載「広布の未来図」を考える――第5回 「カルト化」の罠とは

ライター
青山樹人

「反カルト」がはらむ「カルト性」

――旧統一教会の問題では、「カルト」という言葉に注目が集まりました。そもそも「カルト」と「宗教」は何が異なるのか。あまり深く考えないまま、安易に使われているような気もしないではありません。
 そこで、今回は「カルト」について、いくつかの観点から考える機会にできればと思います。

青山樹人 「カルト」の定義は、じつは学術的には厳密にこれと定まったものはないのです。一般的には〝特定の人物や事物に対して熱狂的に崇拝する小規模な集団〟を指して使われることが多いと思います。
 べつに特定の宗教集団だけを指す言葉ではなく、むしろ集団の性格や構造に向けられた言葉といえるでしょう。

 性格という点では、「反社会性」です。具体的には、集団の理念や目的のためであれば「人権侵害」を正当化することです。
 家族や友人から隔離して集団生活を強制したり、生計に支障をきたすような額の出資や献金をさせたり、就学や就労などの機会を奪って集団のための役務に就かせたりする。

 構造という点では、指導者や特定の幹部が絶対的な権威を持ち、構成員は異論をはさむことができずに従属を強いられる。集団の内部では、社会通念とは大きく異なる特殊な世界観や価値観を強いられるのです。
 その結果、集団の外側である一般社会や、集団と相いれない他集団への敵意を植え付けられます。

――なるほど。宗教団体に限らず、陰謀論など極端な思想に傾倒した政治運動や、医療に関して特異な主張をする集団、悪質な勧誘をするビジネス集団もありますね。

青山 注意しなければならないのは、「カルト」の定義が厳密に定まらないまま言葉だけが流通している現状にも、危うさが付きまとっていることです。
 批判したい対象に対して「カルト」、すなわち「反社会的」というレッテルを貼るというのは、本来はきわめて乱暴な行為です。よほど慎重でなくてはならない。
 しかし、昨今は深い思慮もなく「カルト」という言葉を平気で相手に投げつけますよね。

 他者に向かって「カルト」、すなわち「おまえらは反社会的な存在だ」とレッテルを貼って排除しようとする際、じゃあ、その他者にレッテルを貼っている側の〝暴力性〟〝反社会性〟はどうなんだ? という話です。
 誰かに「カルト」というレッテルさえ貼ってしまえば、その相手に対してはどんな批判も、人権侵害すら正当化されてしまうということが、実際しばしば起きています。

――過去に旧統一教会の会合に出席していた閣僚に対し、立憲民主党の議員が国会審議の場で、その閣僚自身に信仰の告白を迫るという場面もありました。

青山 憲法が定める「信教の自由」には、「信仰の秘匿」も含まれます。つまり、自分がどういう信仰を持っているか、あるいは持っていないか、それを公表しないことも重要な「内心の自由」「信教の自由」なのです。

 リベラルを標榜する野党第一党が、インターネット中継が入り議事録が残る国会審議で、閣僚に自分の信仰を告白するよう迫った。しかも、迫った議員は弁護士資格を持っていた法律家です。
 憲法の人権規範、リベラルの価値観を真っ向から否定するようなことをやっているわけですが、本人も所属政党も、その自己矛盾、人権侵害をおそらく自覚できていないのです。

 ある集団を「カルト」と認定すれば、それを批判するためには人権規範からの逸脱も辞さない。「反カルト」のはらむ「カルト性」とも言うべきものですね。
 戦時中に濫用された「非国民」にも通じるような話で、その便利な言葉を他者に向かって発した瞬間、発する側は〝無敵〟になった感覚に陥ります。この危うさを、私たちの社会はもう少し自覚したほうがいいように思います。

「創価学会はカルト認定」というデマ

――旧統一教会に注目が集まったことに便乗して、SNS上などではいまだに「創価学会はフランスでカルト認定されている」等といったデマを吹聴している人を見かけます。

青山 もはや「情報リテラシー」の問題なのですが、単に無知なだけでなく、悪意を持って意図的にこうした情報を流通させている人間もいる。
 これについては、正しい情報がきちんと社会に広がるように、徹底して正さなければなりません。とくに創価学会青年部には、デマを打ち破る有効な対応の創意工夫をお願いしたいです。

 事実関係は、いたってシンプルなのです。
 まず1983年、フランスの社会党議員アラン・ヴィヴィアンが「セクト」に関する報告書を作成します。フランスでは「カルト」とは呼ばず、社会の主流的価値であったカトリック的なものから外れる集団という意味で、「セクト」と呼ぶのです。

――「異端」とか「派生的なもの」といったニュアンスですね。

青山 そうです。カトリック的なものから見て「異端」であり「派生的」なのです。

 ヴィヴィアン報告書の背景には、フランス社会に旧植民地だったアフリカ諸国などからイスラム系の移民が増えてきたことや、当時アメリカなどで狂信的な宗教集団が凄惨な集団自殺を遂げたりした事件への警戒感がありました。
 ただこの報告書は、カトリック的でないと見なしたものを片端からリスト化した杜撰(ずさん)なもので、創価学会に関しても1人の脱会者の主張を鵜呑みにしたものでした。

 1995年になると、オウム真理教のテロや米国やカナダ、スイスなどでの狂信的な教団による銃撃事件、集団自殺事件などを受けて、ジャック・ギヤール議員による新たなリストが国会に出されます。ここにも厳密な検証を欠いたまま、フランスSGI(創価学会インタナショナル)が含まれていました。

 こうしたフランスの左翼連合政権下での杜撰なセクト対策は、「セクトの定義はできない」と述べながら10項目の「セクトの指標」を掲げる矛盾や、セクト認定した団体に弁明の機会さえ与えないなど、きわめて問題の多いものでした。
 実際に、欧州評議会やアメリカ国務省など、国内外から強い批判を浴びています。

 この結果、2005年5月、フランスでは首相通達が出され、創価学会などを含めていた過去の国会報告書のリストは「信憑性に欠けるもの」として廃止されます。
 つまり過去において〝杜撰なリスト〟はたしかに存在しましたが、それらは国内外からの批判を浴びたシロモノで、2005年に首相通達で廃止されているのです。

 フランスSGIはセクト認定どころか、2007年には国家から宗教的典礼を実践する典礼法人として公認されています。以来5年ごとの審査を経て更新もされています。
 議会でもSGIを問題視するような報告は一度も出ていません。

 隣国のイタリア創価学会は14年間の審査を経て、2015年に国家とのあいだで宗教協約を締結し、カトリック以外の〝公認宗教〟の地位を得ています。
 ドイツでも「公法社団法人」に、ポルトガルでも「宗教法人」として認可されています。
 先ごろ崩御したバチカンのフランシスコ教皇はSGIに強い信頼を寄せ、核廃絶運動などでもバチカンとSGIは手を携えてきました。

――2024年5月には、創価学会の原田会長がバチカンの国家元首でもあるフランシスコ教皇と30分にわたり単独会見しています。

青山 2017年のICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)、2024年の日本被団協のノーベル平和賞受賞式にも、ノルウェーのノーベル委員会はSGI代表を招待しています。
 ちなみに亡くなられたフランシスコ教皇は、南米の枢機卿であった時代から、母国のアルゼンチンSGIと親交を深めておられました。

「カルトの魅力」の落とし穴

青山 創価学会がカルト認定されているなどという話は全くのデマだということを指摘したうえで、今回はあえて別の角度からお話をしましょう。

 冒頭で「カルト」の特質について検討しましたね。ただし、なにか固定的に、「カルト」と「非カルト」が棲み分けられていると見ないほうがいいと思うんです。
 このことは宗教でも同じです。あらゆる宗教運動においても、カルト的な要素をはらんでしまう危うさは常にあるという自覚を持ったほうがいいということです。

 たとえば、龍谷大学の竹内綱史准教授(現在は教授)は「カルトの魅力」として大要、次のような点を指摘しています。

①仲間との絆が強く、親身に相談に乗ってくれて、仲間が褒めてくれる。
②世の中のさまざまな問題に対してスタンスが明快で、「ここはよくない」「ここが間違っている」と指摘してくれる。
③価値観にブレがなく、常に明快な答えが用意されている。
「『カルト』の楽しさ、『自由』のしんどさ」/りゅうこくブックス134『「わたし」って何だろう?』龍谷大学宗教部

――これだけ見ると、とくに悪いこととは思えない気もしますね。それこそ自分が学生部に入ったころ、むしろ同じような点で学生部の活動に魅力を感じた気さえします。

青山 そうなんですよ。ここに危うさというか、落とし穴があるのです。
 厳密にいうと、ここに挙げたポイントは、それ自体では必ずしも悪いこととは言えない。美徳とさえ思えるでしょう。問題は、これらが表裏一体で、往々にして「負の側面」をはらみがちなところです。

 仲間との絆は,たしかに素晴らしい。しかし、それが「内部」「外部」を分ける方向に過剰に働いて、「外部」に敵意を抱くようになると、一気に反社会性を帯びてしまいます。
 とくに、集団が社会から批判や攻撃にさらされると、「内部」の結束が「外部」に対する強い敵意として表れかねません。

 世のなかの諸問題に対して批判的な目を持つことも、それ自体はまじめで純粋な動機によることが多いのだろうし、立派なことかもしれない。
 しかし、ものごとを単純化して、社会を「善」と「悪」に二分していくような思考になれば、容易に扇動に乗せられてしまい、社会を分断するだけでしょう。
 社会への批判的なまなざしが、やはり簡単に「反社会性」へと回収されてしまう。

 日本の政治運動などの世界でも、たとえば財務省を悪魔化してみたり、陰謀論に絡めた「反ワクチン」を掲げたり、敵意を向けた相手に対して「死ねばいいのに」などと公言する政党がありますね。

――安倍元首相のマスクをブルドーザーで轢くパフォーマンスをやったデモなどもありました。

青山 アメリカの「トランプ現象」でも、誰かを敵認定して、自分たちこそ被害者だと考える側面が指摘されています。不安や不満を抱えている人々は、善悪をスッキリ明快に語る煽情的な指導者に心酔しがちです。

 価値観にブレがなく、常に明快な答えを示してくれることも、そこだけ見ると信頼できる頼もしい相手だと思ってしまう場合があります。
 しかし、現実社会では簡単に白黒をつけられない問題も多々あります。「正解」なんて一つではないということのほうが多い。
 そこに迷うことなく「正解」を主張し、原理原則を当てはめようとしたら、それはもう「原理主義」「教条主義」でしかなくなってしまいます。

 宗教でも政治でも、複雑な問題に対して、熟慮・葛藤・忍耐を伴いながら、なんとか解決策を見出していこうとするのが本来あるべき健全な姿だと私は思います。
 それに対して、「これが〝正解〟です」と言い淀むことなく答える人がいて、周囲がその態度に心酔するとしたら、やはりそれは要注意なのです。

――そう考えると、「カルト的」な思考や行動様式というのは、意外とどこにでも忍び寄っているものなのですね。

青山 往々にして「純粋さ」や「正しさ」の仮面をかぶって忍び寄ってくる。当の本人でさえ、そこに気づけないかもしれません。だからこそ、常に自分自身を省みていく必要があるのではないでしょうか。

 誤解を恐れずに言えば、宗教運動や政治運動というのは、むしろ出発点は「カルト」的にさえ見える場合が少なくないのかもしれない。なにしろ既存の宗教や政治に納得できずに、ある種の危機意識や使命感を持った小集団として登場してくるわけですから。
 既存の社会との軋轢も生むでしょうし、非難や嘲笑も浴びる。そのことで「内部」は結束し、「外部」との壁を強く意識することもあるでしょう。

 しかし、そこから成熟へと移行し、社会性やコミュニケーション能力を身につけ、バランスの取れた運動に進化してこそ、社会のなかで信頼され市民権を得ていくわけです。
 それは、やはり不断の努力のなかから達成されていくものだろうと思います。

異質な行動様式、言葉、話し方

――末法万年の広宣流布へ向けて、世界宗教化への本格的な歩みを開始した創価学会にとって、ある意味で、今はまだ「草創期」かもしれません。

青山 口幅ったいことを言うようで恐縮ですが、創立100周年から、次の50年、100年をめざす青年の皆さんには、とりわけ「言葉」に意識を払っていただけたらというのが、私の率直な思いです。

――どういうことでしょうか?

青山 大きな会合での幹部の話し方や、スローガン、機関紙の見出しなど、人々に訴えかける「言葉」というものがありますね。
 もちろん、いろんなケースがありますから一概には言えませんが、まず一般社会から見て〝閉ざされた〟印象を与えるような言葉遣いや話し方には、極力ならないほうがいいと思うのです。

 たとえば壇上で青年が絶叫調で何かを訴える姿は、これまで日本など東アジアのごく一部の社会では「凛々しい姿」「力強い姿」として映ってきたかもしれません。
 しかし、世界の多くの文化のなかでは、それだけで扇動家のような印象を与え、全体主義のような異様なものを感じさせてしまいます。
 欧米であれば、むしろリーダーは人々をリラックスさせながら、安心感を与え、共感を得ていくように話さなければなりません。

 かつて創価学会の草創期を築いた諸先輩は、多くが軍国主義の時代の教育を受けた世代でした。昭和の学会には、そうとは意識しないまま、やはり〝軍隊調〟の行動様式が入り込んでいた面があったように思います。
 そうした仏法の本義とは関係のない、日本流のやり方や価値観にすぎないものを、海外のメンバーに強要することがないよう、常に注意を促されていたのが池田先生でした。

 一般社会とは異質な行動様式、言葉、話し方というのは、ある意味で独特の世界を形作りますから「外部」に対して「内部」だけの結束を強めるように錯覚しがちです。
 しかし、集団の「内部」と「外部」に断絶を作っていくのは、危うい手法なのです。外から見れば、閉鎖性だけが目についてしまう。

――そう言えば、外国が攻めてくるとか大地震が起きるとか脅して、高校生などに強引な勧誘をすることで社会問題化している某教団なども、ものすごく時代がかった言い回しや全体主義的な行動様式をとりますね。

青山 先に触れた竹内教授は、「カルトの危険性」は「自由がないこと」だとしたうえで、「カルトの楽しさ」もまた「自由がないこと」だと指摘しています。

 常に先回りして正解が用意され、それに従うだけの世界ですから、楽なのです。どうすればいいか自分で考えなさいと言われると面倒だし困ってしまう。自由を放棄し、こういう時はこういうふうに振る舞うのだと決められてしまえば、悩まずに済みます。
 それこそが「カルト」的な世界なのです。

 もちろん創価学会のなかには、学会家族ならではの雰囲気、信頼する仲間内での自然な空気感もありますから、ひとくくりに良し悪しを言えるものではありません。
「学会は学会らしく」という面も当然あっていいと思います。

 そのうえで、学会が今よりもさらに社会から信頼され、理解されていくためにも、世界宗教として発展していくためにも、閉ざされた異質な言語空間や行動様式になっていないか、リーダー自身が気を配ってほしいと思っています。

 言葉遣いという点では、「正義」とか「勝利」といった言葉の使い方にも、ある種の緊張感を持ったほうがいいと思います。こうしたワードは、ものすごく便利なんですよね。
 しかし、深く吟味もしないまま安易に使っていくと、威勢のいい言葉だけが上滑りして、中身がよくわからないものになってしまいます。定型の言葉だけがインフレのように溢れて、結局は発するメッセージが弱くなってしまうのです。

 妙な言葉狩りをするつもりはありませんが、「大感動」というような情緒的な言葉にも注意が必要だと思っています。
 池田先生は、創価学会が社会からエモーショナル(感情に動かされやすい)な団体に見られないよう、ご自身の感情表現にも細心の注意を払っておられました。その意味を、よくよく考えてほしいのです。

言葉の固定化は、精神の硬直化

――そういえば先日のNHK「クローズアップ現代」(初回放送日2025年4月16日)で、闇バイトや校内暴力の背景に〝マジ・ヤバ・うざっ〟など「短語」の多用があることが指摘されていました。

青山 その一言で何でも済ませられるようなワードばかり使っていると、他ならぬ自分の心のなかが把握できなくなり、表現できなくなるのですね。人は、豊かな言葉を使えてはじめて、豊かな思考が可能になるのです。
 そう考えると、定型化された言葉が安易に氾濫していくことは、その集団の思考を貧しいものにし、さらには感情に訴えて人を動かすことにもつながりかねません。

 これも先ほどの「カルトの楽しさ」に通じる話で、パターン化された言葉を多用するのは楽なのです。
 また、一般社会であまり耳にしないような単語が飛び交うほど、「内部」への没入感も高まるでしょう。でも、そこに危うさが隠れていることに注意を払う必要があります。

――NHK「クローズアップ現代」では、感情リテラシー教育を導入していくことで、小学校の校内暴力が低減した事例が報告されていました。

青山 池田先生は、キルギスの作家チンギス・アイトマートフ氏との対談集『大いなる魂の詩』(『池田大作全集』第15巻)でも、「言葉」を扱う慎重さについてさまざまに語られています。

言葉の固定化は、精神の硬直化です。言葉をつねに瑞々しく保つ秘訣は、現実との格闘を忘れぬ精神の弾性にかかっていると言ってよいでしょう。(『大いなる魂の詩』)

 要は、人間であろうとするかぎり、言葉という道具を自在に使いこなせるよう、精神を鍛え上げる以外にないのです。換言すれば、人間はそのままで人間であるのではなく、〝言葉の海〟の中で鍛えられてこそ、人間になるのです。(同)

 言葉の背後に広がる宇宙の深さに思いをいたさず、符丁のごとく言葉を軽々に取り扱い、じつのところ言葉の力の偉大さと怖さにいっこうに気づこうとしない人には、命の値に匹敵するほどの言葉の値など、顧慮することさえ不可能なことでしょう。(同)

 池田先生亡きあとの創価学会が、再び社会のなかで深い精神性を放ち、青年たちの心をとらえていけるかどうかは、「言葉」にかかってくると私は思っています。
 また、あらゆる宗教運動が宿命のように抱え持つ「カルト化」の罠を遠ざけ、今までにも増して社会から信頼されていくためにも、リーダーの話し方も含めた言葉の使い方が重要になってきます。

 私たちは世界桂冠詩人である池田先生の跡を継ぐ者として、「言葉」の復権をめざしていきたいと思います。

連載「広布の未来図」を考える:
 第1回 AIの発達と信仰
 第2回 公権力と信仰の関係
 第3回 宗教を判断する尺度
 第4回 宗教者の政治参加
 第5回 「カルト化」の罠とは

「フランスのセクト対策とは」:
フランスのセクト対策とは(上)――創価学会をめぐる「報告書」
フランスのセクト対策とは(中)――首相通達で廃止されたリスト
フランスのセクト対策とは(下)――ヨーロッパでの創価学会の評価

仏『ル・モンド』の月刊誌がフランスの創価学会のルポを掲載――その意義と背景

特集 世界はなぜ「池田大作」を評価するのか:
 第1回 逝去と創価学会の今後
 第2回 世界宗教の要件を整える
 第3回 民主主義に果たした役割
 第4回 「言葉の力」と開かれた精神
 第5回 ヨーロッパ社会からの信頼
 第6回 核廃絶へ世界世論の形成
 第7回 「創価一貫教育」の実現
 第8回 世界市民を育む美術館
 第9回 音楽芸術への比類なき貢献

「池田大作」を知るための書籍・20タイトル:
 20タイトル(上) まずは会長自身の著作から
 20タイトル(下) 対談集・評伝・そのほか

三代会長が開いた世界宗教への道(全5回):
 第1回 日蓮仏法の精神を受け継ぐ
 第2回 嵐のなかで世界への対話を開始
 第3回 第1次宗門事件の謀略
 第4回 法主が主導した第2次宗門事件
 第5回 世界宗教へと飛翔する創価学会

「政教分離」「政教一致批判」関連:
公明党と「政教分離」――〝憲法違反〟と考えている人へ
「政治と宗教」危うい言説――立憲主義とは何か
「政教分離」の正しい理解なくしては、人権社会の成熟もない(弁護士 竹内重年)
今こそ問われる 政教分離の本来のあり方(京都大学名誉教授 大石眞)
宗教への偏狭な制約は、憲法の趣旨に合致せず(政治評論家 森田実)

旧統一教会問題を考える(上)――ミスリードしてはならない
旧統一教会問題を考える(下)――党利党略に利用する人々


あおやま・しげと●著書に『宗教はだれのものか』(2002年/鳳書院)、『新装改訂版 宗教はだれのものか』(2006年/鳳書院)、『最新版 宗教はだれのものか 世界広布新時代への飛翔』(2015年/鳳書院)、『新版 宗教はだれのものか 三代会長が開いた世界宗教への道』(2022年/鳳書院)など。WEB第三文明にコラム執筆多数。