世界はなぜ「池田大作」を評価するのか――第8回 世界市民を育む美術館

ライター
青山樹人

文化遺産として尊重していく

――池田名誉会長が創立した東京富士美術館は、昨年(2023年)開館40周年を迎えました。それに合わせてリブランディングを実施し、新たなコンセプトのもと、より開かれた美術館へ施設の改修や、ロゴマークやウエブサイトなども一新されました

青山樹人 古今東西を問わず、人類の遺産とも言うべき美術品や文化遺産には、それぞれの時代・地域の信仰に根差したものが数多くあります。「宗教と、芸術、文化というのは、本来、切っても切れない関係にある」(『新・人間革命』第5巻「開道」)からです。

 池田先生は早い時期から美術館の設立構想を語ってきました。会長就任の翌年(1961年)の6月17日に京都で開催された「関西第四総支部結成大会」では、早くも将来の美術館構想に言及しています。
 とくに京都や奈良には他の仏教宗派の古刹が数多くあり、伽藍や仏像などには国宝や重要文化財などに指定されたものが多数あります。まだ草創期の学会員のなかには、広宣流布の進展にあたって、こうした他宗の伽藍や仏像などをどのように捉えていけばいいのかという思いがあったのでしょう。
 池田先生は、それらも人類共通の文化遺産として捉え、精神を高めていく糧とすべきだという視点から、美術館の構想に触れたのです。
 この点については、後年にも京都で次のように明確に語っています。

 たとえ宗派の違い、教義の違い、本尊の違いがあったとしても、それは宗教、信仰という〝法〟の次元のかかわりあいであって、それによって、他宗派の人々を憎んだり、不和になったり、疎外するようなことはけっしてあってはならない。人間として、社会人としての連帯は、とうぜんのことなのである。
 したがって、私どもは、たとえ誤った教義、本尊を破折する立場にあるといっても、その人のもつ人間的権利、社会的権利を最大限に尊重していくのはいうまでもない。また、神社、仏閣の建物等の文化的価値、意義等まで否定するわけでもない。日本人の文化、芸術、あるいは精神史の貴重な成果であり、文化遺産として尊重していくことはいうまでもない。(京都代表者会議/1985年1月23日)

 信仰の選択という次元では教義の〝高低浅深〟〝正邪〟を論じる必要があるとしても、他宗教・他宗派の人を憎んだり見下したりするような独善があってはならないこと。神社や寺院、仏像などの文化的価値はきちんと尊重すべきことを、池田先生は早くから明言されているのです。
 創価学会が本格的に世界教団として発展しゆく時代を迎えた今、このことはあらためて再確認しておくべきだと感じます。

――あくまで信仰の対象にはしないという話であって、他宗教・宗派の建築や仏像などの歴史的・文化的な価値まで否定するような独善であってはならないわけですね。

青山 そのとおりです。これに対して、1990年に日蓮正宗が創価学会に突き付けてきた文書には、学会が会合等でベートーベンの第九をドイツ語で歌うことは〝外道礼賛〟であるという馬鹿げた非難が記されていました。
 信仰と文化的価値をきちんと分けて尊重されてきた池田先生と、異なる文化の価値すら理解できない、理解しようともしない宗門の、あまりに鮮やかなコントラストです。

ルネ・ユイグ氏との友情

青山 池田先生は、1961年10月のヨーロッパ初訪問の際には、パリのルーヴル美術館やロンドンの大英博物館も見学しています。その際にも、新たな人間主義の芸術の創造のため、世界の民衆を結ぶ文化交流のため、将来は立派な美術館をつくろうと同行のメンバーに語られました。
 このルーヴル美術館が所蔵する「モナ・リザ」をはじめとした人類の至宝を、第二次世界大戦中にナチスから守り抜いたのが同館の絵画部長だったルネ・ユイグ氏でした。高名な美術史家であり、アカデミー・フランセーズの会員でもあった、20世紀のヨーロッパを代表する知性のおひとりです。
 1973年にアーノルド・トインビー博士が池田先生との2年越しの対談を終えた際、〝ぜひ、この人たちとも対談してほしい〟と託されたリストにあった人です。1974年4月に「モナ・リザ」の日本公開に際して来日した折、氏のほうから聖教新聞社に池田先生を訪ねたのが初の出会い。以来、10度を超える会見を重ねました。
 ユイグ氏と池田先生の対談集『闇は暁を求めて』は、1980年に先にフランスで発刊され、翌81年に日本でも刊行されています。

――1983年11月に東京富士美術館が開館した際も、同館の初期コレクションの形成や、オープニングを飾った「近世フランス絵画展――ルーブルなど8美術館の秘蔵の名作」展、さらに「栄光の18世紀フランス名画展」(86~87年)「フランス革命とロマン主義展」(87年)などの開催に尽力されたのがユイグ氏でした。

青山 1987年の「フランス革命とロマン主義展」は、「フランス革命・人権宣言200年」記念公式行事の第1号に認定されたものです。パリ市庁舎で、記念委員会のミシェル・バロワン会長から創立者の池田先生に出品目録が手渡されています。
 東京富士美術館は、ルネサンス期から20世紀に至る500年の西洋美術史を俯瞰する作品群を有し、なかでもオールドマスターと呼ばれる18世紀までの巨匠たちの重要な作品を系統立てて所蔵していることで知られています。

 こうした作品は単に資金があれば誰でも入手できるというようなものではありません。財力で実現するのなら、アジアをはじめ世界各国には大富豪たちが大勢います。池田先生への信頼と、ユイグ氏の審美眼があってはじめて、私立美術館ながら日本はもちろんアジアでも屈指の西洋美術コレクションの骨格が可能になったのです。
 開館記念の「近世フランス絵画展」は、ルーヴル美術館、ヴェルサイユ美術館、ジャックマール・アンドレ美術館、プチ・パレ美術館、ボルドー美術館、シャルトル美術館、ディジョン美術館、サン・ドニ美術館という、フランスを代表する美術館の協力のもと、16世紀のフランス画派成立から19世紀の写実主義まで、400年の各時代を代表する名品をユイグ氏が選び抜いた展覧会でした。

文化大恩の国への恩返し

――創立者である池田名誉会長は、東京富士美術館が所蔵する貴重な西洋美術コレクションを、韓国や中国でも公開してきました。

青山 韓国は長く軍事政権下にあり、民主化が宣言されたのは1987年6月でした。3年後の1990年9月、ソウルの湖巖(ホアム)ギャラリーで「東京富士美術館所蔵 西洋絵画名品展」が開催されます。
 16世紀から20世紀の西洋絵画の名品74点を展示したもので、質から見ても量から見ても、韓国における初の本格的な西洋美術展になったのです。池田先生はこの折の心情を〝文化大恩の韓国へ、「せめてもの恩返しを」との思いを込めて〟と語っています。この開幕式に出席されたのが、池田先生の韓国初訪問になりました。

 また1992年10月には日中国交回復20周年を記念して、北京の中国美術館で「東京富士美術館所蔵 西洋絵画名作展――ルネサンスから印象派、20世紀の絵画」展が開催されます。精選された名品70点が出品され、これだけまとまった西洋美術の展覧会としては、やはり中国初となるものでした。
 本物を一目見ようと、広い中国全土の各地から、画家や研究者、美学生、美術ファンらが詰めかけ、なかには5日も列車を乗り継いで来たという人々もいたそうです。池田先生は〝文化の大恩ある中国に、せめてものご恩返しとなれば、との思いからであった〟と語っています。

 近年も2018年から19年には、北京の清華大学芸術博物館と上海の上海宝龍美術館で、「東京富士美術館館蔵作品展 西方絵画500年」が開催されました。
 そしてコロナ禍が明け始めた2022年12月からは、東京富士美術館が所蔵する西洋絵画の巡回展が瀋陽の遼寧省博物館、上海の宝龍美術館、北京の国家大劇院、深圳の南山博物館で開催され、この2024年3月22日からは成都の成都市美術館で開幕しています(6月23日まで)。
 仏教をはじめとして、漢字や建築、医学、天文学など、日本にあらゆる文化をもたらしてくれたのは中国であり朝鮮半島の諸国です。幕末に開国した際も、西洋人とのあいだで通訳や貿易に関する実務を担ってくれたのは、当時の清国人でした。
 池田先生は中国や韓国を「文化大恩の国」として、こうした展覧会を開催してきたのです。

 1992年の北京での「西洋絵画名作展」の折には、周恩来の名通訳であった中日友好協会の王效賢・副会長と池田先生の語らいのなかで、〈和平頌〉の話になったそうです。
〈和平頌〉とは中国の高名な画家14人の手になる巨大な花鳥図で、郭沫若の筆で「和平頌」(平和賛歌の意味)という画題が右上に記されている中国の国宝級の書画です。池田先生は以前に、中日友好協会の応接間に飾られていたこの〈和平頌〉をご覧になっていました。
 王副会長が、中国人民対外友好協会には優れた貴重な書画が飾り切れないほどたくさんあるのだと語ると、先生は即座に東京富士美術館での展覧会を提案されました。こうして実現したのが1994年の「現代中国巨匠書画展」です。中国人民対外友好協会の創立40周年を記念して、同協会が所蔵する傑作50点を精選して企画されました。
 任伯年、呉昌碩、斎白石、傳抱石、呉作人、郭沫若、啓功といった近現代中国を代表する画家や書家たちの作品が一堂に会し、〝中国でも見られない〟と感嘆の声があがった展覧会でした。

「美術館は民主主義の結実」

――東京富士美術館が開館以来モットーとしてきた創立者の言葉「世界を語る美術館」は、このほど同館の〝永遠の指針〟に定められました。まさに池田名誉会長みずからが信義と友情の道を世界に開いて、この「世界を語る美術館」としての文化交流を大きく果たしてきたのですね。

青山 一般的に美術品を収蔵庫から出すことは、それ自体が劣化を招くリスクになります。ましてや国外に貸与するとなれば、輸送や展示での管理など、非常に困難が伴うものです。重要な美術品であるほど、館外に出すことを禁じたり、厳しく制限したりしている美術館も少なくありません。
 東京富士美術館が国外で「西洋絵画名作展」を開催するときも、反対する声はありました。しかし、池田先生は「何を言っているのか。それこそ、芸術作品は見たい人のものではないか」と言われたそうです。
 そこには、「美術館は民主主義の結実」なのだという、池田先生の信念があったのだと思います。たとえばパリのルーヴル美術館などは、フランス革命によって、それまで王侯貴族の独占物だった美術品を「公共財」として市民に公開するために設けられた歴史を持っています。
 あるいは世界最大級の美術館として有名な米国のメトロポリタン美術館は、人びとの寄贈や寄付金によってコレクションを形成してきた〝私立〟美術館です。
 先生は未来部員に贈った『青春対話』で、次のように語っています。

 たとえば、美術館に行くことも、日本では特別のことのようになっている。ヨーロッパなどでは、ごく小さい時から美術館に行く。当たり前のことであり、特別なことではないのです。それは、一つには欧米の美術館が民主主義の結実だったからかもしれない。
 昔、一部の王侯貴族とか大富豪しか美術品を集められなかったし、見られなかった。それを「私たちにも見せろ!」と言って生まれたのが美術館です。簡単に言うと、そういうことです。「美」を皆で楽しみたいという民衆の欲求の高まりで生まれたものです。これに対して、日本の美術館は、明治からの近代化に伴って、政府が「わが国にもヨーロッパのような美術館がないと恥ずかしい」と思って、つくったものです。「官」主導だったから、どうしても、「お前たちにも見せてやろう」という発想になってしまう。(『池田大作全集』第64巻)

 平明な言葉ですが、庶民が最高峰の芸術に触れる機会を作ろうとされてきた、池田先生の真情を見る思いがします。

――3度にわたるフランス美術展の開催に尽力してくださったルネ・ユイグ氏への返礼の意義も込め、1988年には氏が館長を務めていたパリのフランス学士院ジャックマール・アンドレ美術館で、「東京富士美術館所蔵 永遠の日本の名宝展」が開催されています。

青山 東京富士美術館は、屏風や浮世絵、甲冑、刀剣などを中心とした日本美術コレクションも所蔵しています。このパリでの展覧会を皮切りに、日本美術の展覧会だけでもこれまで20回以上、海外で開催してきました。
 ブラジル政府などが支援したサンパウロ美術館での「珠玉の日本美術の名宝展」(1990年)は、南米初の本格的な日本美術展で、サンパウロ美術館の創立以来となる入場者数を記録しています。
 スウェーデン国立東洋美術館で開催された「日本美術の名宝展」(1990年)も、同国では第二次世界大戦後初となる本格的な日本美術展で、開会式にはカール16世グスタフ国王ご夫妻が臨席されています。
 1996年にキューバ国立美術館で開催された「日本美術の名宝展」は、当時のフィデル・カストロ国家評議会議長が名誉実行委員長に就任し、最終日には会場に足を運んで鑑賞しました。
 こうした「日本美術の名宝展」は、日本と諸外国を結ぶ文化交流としても、大きな役割を果たしてきたと思います。

写真家としての「池田大作」

――その東京富士美術館では今、「没後70年 戦争を越えて―写真家ロバート・キャパ、愛と共感の眼差し―」展が開催されています(6月23日まで)。

青山 じつは東京富士美術館には、写真の黎明期から今日に至る約2万点もの充実した写真コレクションがあるのです。
 なかでも、国際写真家集団マグナムの創立にもかかわった報道写真家ロバート・キャパ(本名アンドレ・フリードマン/1913-1954年)の貴重なヴィンテージ・プリントの数々と、彼がインドシナの戦場で地雷を踏んで亡くなる瞬間に使っていた愛用のカメラは、同美術館が所蔵しています。
 キャパの死後、弟で写真家のコーネル・キャパ氏は兄の遺志を継ぎ、ニューヨークに国際写真センター(ICP)を設立します。ここから世界中に数多くの写真家が育っています。
 池田先生とコーネル氏は、1989年の初会見以来、3度にわたって語らいを重ねました。生涯を兄の宣揚と写真界の発展に尽くしたコーネル氏は、人類の平和と文化、教育に貢献してきた池田先生に深く共感し、世界の写真史の宝とも言うべき兄のヴィンテージ・プリント一式と〝最後のカメラ〟を東京富士美術館に寄贈したのです。

――写真といえば、池田名誉会長ご自身も写真を愛し、激務の合間を縫って数多くの写真を撮ってきました。ご自身では「素人です」と謙遜されていましたが、国内外で開催されてきた「自然との対話」展など名誉会長の写真は、高い評価を受けています。

青山 1970年代の初め、ある人から一眼レフカメラを贈られた池田先生は、その真心に応えようとカメラを移動中の車中などにも置いて、折を見ては練習されていたようです。この頃、先生は「月」の写真をしばしば撮っています。
 1973年に刊行された『月』という写真集(非売品)を見たことがありますが、いずれも詩情豊かで、しかも驚くほど静寂な写真でした。
 1977年にオートフォーカス機能のカメラが登場します。1980年代に入ると、池田先生もオートフォーカスのカメラを使うようになりました。そのことで、先生の撮影方法も大きく変化します。あえてファインダーを覗くことをやめ、カメラを胸の前で構えて被写体に向け、シャッターを切るようにしたのです。

――後年になって名誉会長も知ったそうですが、写真愛好家だったアメリカの大詩人ホイットマンも、同じように胸の前でカメラを構えて写真を撮っていたといいます。

青山 撮影方法を変えたことで、池田先生の写真は被写体を〝切り取る〟ものから広々と収めるものに変わり、それが自在に自然と対話をするような作風を生んでいきます。
 美術館関係者や親しい写真家たちの要請もあり、1982年に静岡の富士美術館で「平和と文化を写す」と題した初の写真展が開催されます。ここに足を運んでいたのが、あのフランスの美術史家ルネ・ユイグ氏でした。
 ユイグ氏は先生の撮った写真を高く評価し、「私が思うに、池田氏のポエムは口で詠まれた詩であり、写真は眼で詠まれた詩である」と語っています。
 そして1988年、ユイグ氏みずからが選定から展示の配置まですべて陣頭指揮して、氏が館長を務めるパリのジャックマール・アンドレ美術館で、海外初の「池田大作写真展」が開催されるのです。

 その後、「自然との対話」展として、国内各地はもとより、ブラジルのサンパウロ美術館や中国の民族文化宮、ロシアのモスクワ大学など、海外151都市で開催されてきました。
 1990年に北京で開かれた写真展には、当時の江沢民総書記が足を運び、先生の案内で作品を鑑賞しています。
 池田先生の写真芸術に対しては各国の写真家や識者からも高い評価が寄せられ、「ロシア芸術アカデミー名誉会員」、「オーストリア芸術家協会名誉会員」、「シンガポール写真家協会終身名誉会員」などの称号が授与されています。

「写真を撮ることは戦い」

――80年代に入って名誉会長は撮影方法を変えたということですが、たしかに〝構図を計算して切り取られた被写体〟ではなく、そこにあるものの姿をそのまま、全部受け止めて包み込んでいくような写真だと思います。

青山 プロの写真家などであれば、それこそ天気や時間までベストの瞬間を待って、シャッタースピードや光量を調整して撮るものです。しかし、池田先生はそもそも写真を撮るためだけにどこかに出かけたりすることはありません。
 行事から行事に向かう車中や、国外であれば滞在先の宿舎の窓からなど、ふとした一瞬を逃さずシャッターを切ってきたのです。
 むしろ、「自然との対話」展などを鑑賞した人々が一様に驚くのは、自分たちが見過ごすような何でもない日常の光景が、これほど生命の輝きに満ちた美しいものだったのかという発見です。
 先生の撮る風景には、ときには高圧電線もマンホールも排水溝の蓋も写り込んでいます。走っている車中から撮れば、いくらオートフォーカスカメラでも手前の景色がブレることも少なくありません。
 私たちは意識的に、あるいは無意識にすら、〝きれいなもの〟〝きれいじゃないもの〟を選別して写真を撮りがちです。しかし池田先生の眼には、そういう差別がない。この世界のあらゆるものの、ありのままの姿を、先生自身が心から歓迎し、褒め称えているように、私は感じてきました。
 また、ときに美しい光景や雄大な風景に出合ったときには、〝これを友にも分かち合いたい〟という思いで、シャッターを切っておられたのではないかと思います。

 心の眼を広々と開けば、この裟婆世界こそ、美に輝く生命の宝処となる。
 創価学会の平和・文化・教育の運動は、生き生きとした「美の価値」の創造であり、拡大でもある。
 私が写真を撮り始めてから、すでに三十年余りになろうかそれは、余暇というより、むしろ戦いであった。
 一年、三百六十五日、ゆっくりカメラを手にする時間は、もちろんない。どうしても、移動の車中や機中、また行事の合間の撮影となる。
 しかし、不思議なもので、そんな多忙の日常でも、美の発見には、事欠かない。
 王者の富士の英姿。はるかに延びる一本の道。
 刻一刻と色を塗り替える、夕焼けの空変幻自在に姿を変える雲。
 水に浮かぶ睡蓮の清楚さ。路傍に凛と咲く花々……。
 光の加減で、街角のビルにも、美の彩りが宿る。(「随筆 新・人間革命」268/『池田大作全集』第133巻)

――「余暇というより、むしろ戦いであった」と語っておられるのですね。

時代を先取りしていた写真哲学

青山 写真を愛し、悠々と自然と対話しながらも、それは〝余暇の趣味〟などではなく、やはり真剣勝負の〝戦い〟だった。これこそが「自在」の境地というものかもしれません。
 池田先生は先ほどの随筆で、

 かけがえのない一瞬、また一瞬に、生命が敏感に反応し、呼応して、シャッターを押す。
 単純といえば単純である。ありのままの自然の美しさと、気取らず飾らず繕わず、無作の対話を、ただ誠実に織りなしていくことだ。
 素人には素人なりの写真芸術の道があると、私は思ってきた。

 この日、この時、この一瞬にしか存在しない価値があり、美がある。それが写真の命ではないだろうか。

とも綴られています。
 先生はさらに、

 芸術というと、どうしても、お金がかかる場合が少なくない。写真ならば、誰でも、いつでも、どこでも、気楽に楽しんでいくことができる。
 この広々と開かれた民衆文化を通して、世界に友情を結んでいけることは、このうえない喜びである。

とも綴られています。一般的に、芸術を嗜もうとすれば、舞踊でも音楽でも絵画でも書道でも、専門的な修練が不可欠ですし、お金もかかります。この場合、芸術はどこまでも一部の人だけの独占物になってしまう。
 しかし、その点で写真は例外的に、誰もが気軽にかかわれる芸術です。先ほどの随筆が発表されたのは2002年で、デジタルカメラが大きく普及してきた時代でした。フィルムの時代と違って、撮ったその場で画像を確認できるし、何枚でも撮れます。
 その後、カメラ付きの携帯電話が日本で開発され、さらにスマートフォンが登場すると、今では誰もがいつでも写真や動画を撮れる世界になりました。
 今ではインスタグラムなどのSNSの普及で、世界中の人がまさに写真を「誰でも、いつでも、どこでも、気楽に楽しんでいくことができる」ようになり、国籍も立場も関係なく、それらをシェアし合って「世界に友情を結んでいける」時代になっているではありませんか。

 池田先生が綴り残した活字は、もちろん各国語に翻訳されて世界に共有されています。多くの揮毫も残されていますが、これも翻訳を必要とします。その点で、池田先生が撮った写真は〝翻訳〟を必要としません。その瞬間その瞬間、池田先生の網膜に映っていたもの、心眼が捉えていたものが、そのまま見る側に伝わります。100年後、1000年後の人々も、池田先生の見ていた光景を共有できるのです。
 今後、先生が撮った写真は、池田先生の〝身体性〟を伴った芸術として、ますます意義を持っていくのではないでしょうか。

写真界の巨匠たちこそ歴史の証言者

――コーネル・キャパ氏との友情の話がありましたが、池田名誉会長は日本国内の著名な写真家たちとも深い友情を育んでこられましたね。

青山 戦後、日本人で唯一の『LIFE』誌の公式写真家となり、日本写真家協会会長などを歴任した三木淳氏。南極や世界の名峰などを撮り続けた白川義員氏。ジャーナリズムの第一線で活躍した富山治夫氏。1965年から80回も中国を訪れてきた人物写真の名手・齋藤康一氏。雑誌や広告写真の第一線を走り続けてきた立木義浩氏。こうした巨匠たちはいずれも池田先生と友情を深めてきました。
 三木氏、富山氏、齋藤氏、立木氏は、池田先生の国内外の激励行や平和旅にも同行して、先生を被写体にした写真集も出されてきました。どの人も日本を代表するような写真家です。ファインダー越しの相手がどんな人間か、たちどころに見抜く眼を持っています。

 池田先生は会合や行事はもちろん、国家元首など要人との会見、また移動中や執務中でさえ、こうした写真家たちの求めるままにシャッターを切らせてきました。
 先生を撮った写真集『平和への行脚』(講談社)を1973年に出していた齋藤康一氏は、1988年2月から再び2年6カ月にわたって先生の国内外での姿を撮り続けています。この期間だけで1万数千カットに達したといいます。写真集を拝見すると、カメラを構えて自然を撮っている先生の姿を齋藤氏が撮ったりもしています。
 国王や大統領と会見する先生も、幼い子供に接する先生も、路上の露天商に気さくに声をかける先生も、さまざまな国の学会員と向き合う先生も、巨匠たちはつぶさに目撃してきました。
 ある意味で、誰よりも「池田大作」の実像を自分の眼で見てきた〝非学会員〟が、これら日本写真界の巨匠たちだったかもしれません。

――先生や学会に取材したこともなければ、そもそも著作さえまともに読んでいないような人間たちが、逝去に便乗し、憶測や風聞を根拠に、売るためにあれこれと書いているようです。

青山 大きなものを批判していれば、自分も大きく見えるとでも思っているのかもしれない。犬が月に向かって吠えているようなものです。
 しかし、100年、200年と経ったとき、学会員ではない超一流の写真家たちが目撃し、シャッターを切ってきた「池田大作」の姿こそ、なによりも雄弁に池田先生の実像を伝える歴史の証言者になるのではないでしょうか。

 ともあれ、美術という一分野においてさえ、池田先生がどれほど早くから未来を遠望し、人知れず尽力し、世界に信頼と相互理解の橋を架けてきたことか。

 私どもは、文明を荒廃させる「野蛮な物質主義」に対抗し、「精神の戦い」すなわち「文化と教育の戦い」を力強く推進してまいりたい。
 平和の建設のために!
 人間主義の未来のために!(『池田大作先生の指導選集 広宣流布と世界平和』)

特集 世界はなぜ「池田大作」を評価するのか:
 第1回 逝去と創価学会の今後
 第2回 世界宗教の要件を整える
 第3回 民主主義に果たした役割
 第4回 「言葉の力」と開かれた精神
 第5回 ヨーロッパ社会からの信頼
 第6回 核廃絶へ世界世論の形成
 第7回 「創価一貫教育」の実現
 第8回 世界市民を育む美術館

「池田大作」を知るための書籍・20タイトル:
 20タイトル(上) まずは会長自身の著作から
 20タイトル(下) 対談集・評伝・そのほか

三代会長が開いた世界宗教への道(全5回):
 第1回 日蓮仏法の精神を受け継ぐ
 第2回 嵐のなかで世界への対話を開始
 第3回 第1次宗門事件の謀略
 第4回 法主が主導した第2次宗門事件
 第5回 世界宗教へと飛翔する創価学会

「フランスのセクト対策とは」:
フランスのセクト対策とは(上)――創価学会をめぐる「報告書」
フランスのセクト対策とは(中)――首相通達で廃止されたリスト
フランスのセクト対策とは(下)――ヨーロッパでの創価学会の評価

仏『ル・モンド』の月刊誌がフランスの創価学会のルポを掲載――その意義と背景

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あおやま・しげと●ライター。著書に『宗教はだれのものか』(2002年/鳳書院)、『新装改訂版 宗教はだれのものか』(2006年/鳳書院)、『最新版 宗教はだれのものか 世界広布新時代への飛翔』(2015年/鳳書院)、『新版 宗教はだれのものか 三代会長が開いた世界宗教への道』(2022年/鳳書院)など。WEB第三文明にコラム執筆多数。