世界はなぜ「池田大作」を評価するのか――第7回 「創価一貫教育」の実現

ライター
青山樹人

創価の学舎では「宗教教育」はしない

――このほど創価インターナショナルスクール・マレーシアが開校しました。2月22日には、マレーシアのヌグリスンビラン州スレンバンにある同校で開校式がおこなわれ、9カ国・地域の138人が1期生として出発しました。

青山樹人 憲法でイスラム教を国教(連邦の宗教)と定めているマレーシアでも、創価学会に対する信頼は篤く、同国のマレーシア創価学会も大きく発展しています。
 創価インターナショナルスクール・マレーシアは、中等教育と大学予備教育、つまり日本で言うところの「中高一貫教育」にあたる学校ですね。外国語の授業以外は試験も授業もすべて英語でおこなわれるとのことです。
 すでに2023年8月24日に第1回入学式がおこなわれて授業はスタートしていたのですが、国によって卒業時期が異なることもあって、マレーシア以外の生徒はオンラインで授業を受けていました。今回、それら外国からの生徒も現地に合流し、追加試験で合格した生徒らもあわせて、晴れの開校式となりました。

 創価教育の機関としては、日本には創価幼稚園(札幌市)、東京創価小学校(東京都小平市)、関西創価小学校(大阪府枚方市)、創価中学校・高等学校(小平市)、関西創価中学校・高等学校(大阪府交野市)、創価大学、創価女子短期大学(いずれも東京都八王子市)があります。
 また海外では、香港創価幼稚園、韓国に幸福幼稚園(ソウル市)、シンガポール創価幼稚園、マレーシア創価幼稚園(クアラルンプール市近郊)、ブラジル創価幼稚園(サンパウロ市)があり、ブラジルでは小中高一貫教育のブラジル創価学園(サンパウロ市)もあります。
 そして、米国では創価大学ロサンゼルス分校を経て、アメリカ創価大学(カリフォルニア州オレンジ郡)が2001年に開学しています。

――開校・開学からすでに半世紀以上を経た創価学園や創価大学からは、司法、公認会計士、税理士、外務省専門職員、など各種難関試験合格者をはじめ、実業界、教育界、学術界、さらに福祉分野など、各界に多彩な人材が輩出されていますね。創価大学は、近年では正月の箱根駅伝でも強豪校入りし、シード校の座が定着してきましたね。プロ野球界でも多くの卒業生がめざましい活躍をしています。

青山 意外に思う人も多いでしょうが、じつは日本でも諸外国でも、「創価教育」の学舎では〝宗教教育〟を一切おこなっていません。
 たとえば多くの宗教系の大学などでは「神学部」「仏教学部」などがありますが、創価大学ではそうした学部もありません。また入学式などの諸行事で宗教的な儀式をおこなうこともありません。
 それどころか、世界からの留学生も多い創価大学には、ムスリムの学生たちのための祈祷スペースも設けられているし、大学内では2016年からムスリムのためのハラール認証を受けた食品も販売されています。
 アメリカ創価大学では多様性がより顕著で、学生に占める仏教徒の比率そのものが半数以下です。ブラジル創価学園でも生徒の半数は非創価学会員であることが現地の地元紙で報じられていました。

 日本の場合は創価学会そのものが多くの会員を有しているので、創価学園や創価大学に入学する生徒や学生にも学会員の子弟の数が多いわけですが、受験に際して信仰の有無や宗派を確認することもありません。なので、入学してきた生徒や学生の内心を学校側が掌握などしていないのです。当たり前の話ですが、学校生活で信仰を強要されたり、信仰によって何か差別されたりすることもありません。
 創価大学の野球部や駅伝部などに、信仰に関係なく優秀な選手が集まってくるのも、そのような校風への信頼感があるからでしょう。

 創価学園出身の友人が感慨深げに話してくれたことがありますが、自分の学年は卒業から何十年経って同窓で集っても、信仰など一切関係なく同じ「学園生」として本当に仲がよいのだと。信仰をしていない卒業生で、今も学園時代の「生徒手帳」を大切にし、自分の生涯の指針として、新年を迎えるたびに学園の校訓を書き写している人もいるそうです。
 そんな仲間たちと母校で、あの頃のように皆で一緒に校歌を歌いながら、「ここには信仰とはまったく別の次元で、創立者・池田先生が作られた人間的な世界がある。皆が母校に誇りを持ち、創立者を敬愛し、創立者が示された理想に続いていこうとしているのだと実感した」と語っていました。

――アメリカ創価大学は開学後の早い時期から全米のランキングでも上位に入っています。

青山 そうですね。アメリカ創価大学は、開学まもない時期から卒業生がケンブリッジやオックスフォード、ハーバードといった欧米の名門校の大学院等に進学しています。これはきわめて異例なことなのです。「USニューズ・アンド・ワールド・リポート」の全米大学ランキングで、2022年にはリベラルアーツの大学210校の中で総合29位にランクインしています。
 そうした学生の優秀さに加え、学生を構成する出身国の多様さ、米国以外からの学生の数では全米でも1、2位を争うほどトップクラスです。
 また、日本の創価大学も「THE 日本大学ランキング 日本版2023」の「国際性」ランキングでは全国6位。首都圏では国際基督教大学に次いで2位です。

――アメリカ創価大学も日本の創価大学も、国際性という点で特に抜きん出ていることがわかりますね。

青山 それは創立者である池田大作先生が、とりわけ「世界市民」の輩出ということを重視されてきたからだと思います。若い時期にできるだけ世界の多様さに触れ、異なる文化や宗教に触れて、そのなかで友情や信頼を育める人になってもらいたいということを、先生はことあるごとに生徒や学生たちにも語ってきました。
 アメリカ創価大学では、3年次の1学期間、自分が選択した言語圏の国に留学することが義務付けられています。もちろん、その渡航費・学費・生活費はすべてアメリカ創価大学の学費に含まれています。家庭の年収が6万ドル以下の学生には授業料が返済不要で全額支給されるなど、各種奨学金制度も充実しています。

――ときおり週刊誌等の中傷記事に、創価学園や創価大学を〝創価学会のエリート幹部を養成する機関〟などと無責任な邪推を書いているものがありますが、もうそれだけで記事の信ぴょう性のなさと、書いている人間の程度がうかがい知れるというものです。

青山 たしかに世間の宗教系の大学には、母体となった教団の聖職者を養成する教育機関を淵源とするものも少なからずあります。神学や仏教学を履修の必須にしている大学も多くあります。しかし、池田先生はどこまでも人類に貢献する有為な人材を育むために、普遍的な教育をする学校をめざしたのです。
 そもそも創価学会の幹部を養成する機関であれば、わざわざ教育行政の干渉を受ける「大学」を設立する必要などないのです。創価学会のなかに〝私塾〟を設ければ、いくらでも自由なカリキュラムで授業ができるのですから。
 創価大学が開学した際も、宗教と教育の線引きを厳格にする意味から、池田先生は開学祝賀会にも第1回入学式にも出席していません。先生が学生たちの強い要請に応えて初めて入学式に出席したのは、開学3年目に入った1973年の第3回入学式です。1968年に開校した創価学園でも、池田先生は第1回の入学式にはあえて出席せず、記念撮影のみに駆けつけています。

――本来なら創立者として出席して何の不思議もないのに、学校のことは学校に任せるという姿勢を貫かれたのですね。一方で素朴な疑問なのですが、あえて宗教教育をしないにもかかわらず、なぜ創価学会はそこまでして国内外に教育機関を設立し、教育に力を入れてきたのでしょうか。

「人間的・社会的価値」こそ宗教の使命

青山 そこが大事な点です。ちょうどアメリカ創価大学が開学したタイミングの2001年5月に開かれた本部幹部会で、池田先生はそのことについて語られています。

〈牧口先生も、戸田先生も、教育者であった。私も、「教育こそ最後の事業」と定め、全魂を注いできた。
 教育によって、人間は真の「人間」となる。また、宗教だけでは独善におちいる場合がある。
 これまでの歴史を見ても、人々の心を開ざし、無用の紛争を引き起こす宗教もある。傲慢な聖職者が、信徒を奴隷のごとく見くだし、金もうけの道具にする宗教もある。とんでもない間違いである。人を救わない宗教、平和に尽くさない宗教は、正しい宗教とはいえない。
 本来、宗教とは信念である。「人を救おう」という信念である。人々の心に、その信念を植えていくのである。そして教育は、開かれた普遍的知性をもって、人を育てていく。
 宗教と教育の両方があってこそ、人間の正しき路線が完成する〉

〈民衆のため、社会のため、人間のために貢献する指導者を育てゆくことだ。これが世界平和の波動を広げる。これが創価学会の実践である〉

 池田先生が明確に「宗教だけでは独善におちいる場合がある」と言い切られたことを、今も鮮烈に思い出します。
 ここで先生は「宗教」と「教育」が果たすべき根本的な役割の違いを、はっきりと述べておられます。
 宗教は本来、どこまでも人を救おうという信念を人間に与えていくものです。信仰を持つということは、人間だけに許された特権でもあります。しかし同時に、宗教は固有の価値観を大切にします。たとえば一神教であれば、唯一絶対神を信じるというところから出発します。
 これに対し、教育はどこまでも開かれた普遍的な知性を人間にもたらしていくものです。「宗教と教育の両方があってこそ、人間の正しき路線が完成する」という池田先生の信念は、きわめて重要なものだと思います。
 先生は『新・人間革命』第17巻「希望」の章にも

〈教育なき宗教は偏頗(へんぱ)な教条主義に陥り、宗教なき教育は「なんのため」という根本目的を見失ってしまう。
 ゆえに、人類の幸福と平和を築く、広宣流布という偉業の実現をめざす創価学会は、教育に最大の力を注がねばならない〉

と記されています。
 創価学会の目的が「人類の幸福と平和」だからこそ、学会は人類社会に対して、確固たる理念を持った「宗教」と、普遍的な知性を育む「教育」の両方を提供していくのです。

――なるほど。池田名誉会長が「教育は私の最後の事業」と語って、全力で取り組んでこられた理由が少しわかった気がします。

青山 池田先生が創価一貫教育の第一歩となる創価学園を東京・小平の地に開学したのは1968年です。先生自身が、まだ40歳でした。その後の創価大学の開学にあたっても、当時は大学紛争の渦中であり、地元の地権者の理解を得ることも大変でした。学会首脳のなかにも慎重論が強かった。必要な資金も足りない。
 先生はこの頃、激務を縫って何冊もの本を書き、その印税を学園や創価大学の資金に充てています。余裕があって手掛けた事業などではないのです。
 それでも、池田先生が「創価教育」の実現に着手されたのは、ひとつには当時、世界的に学生運動が起き、教育の荒廃、迷走、機能不全が深刻だったことがあります。教育が行き詰まり、闇に包まれゆくような時代だったからこそ、池田先生は牧口・戸田という先師と恩師の悲願を、今こそ実現して世に問おうとされた。

 もうひとつは、「宗教的使命」は必ず「人間的・社会的使命」への昇華し結実していかなければならないという、池田先生の揺るぎない信念があったからです。「宗教的使命」は、すべての人々の向上や幸福という「人間的・社会的使命」と相即不離であり、むしろここが切り離されてしまうと危ういのです。
 宗教が宗教の世界の内側だけに閉じこもって、「人間的・社会的使命」への結実を忘れてしまえば、これこそ先生が警鐘を鳴らした〝独善〟に陥ってしまいます。極端な場合は、閉ざされた教団内部の世界観に人々を囲い込み、信者を搾取の対象としか見なさなくなったり、社会を敵視してテロを引き起こしたりするようなカルト教団になってしまう。

 月刊誌『第三文明』(2024年2月号)に、池田先生が「戸田大学」での最後の講義を受けた日(1955年11月12日)の日記に、民衆を土壌とし、仏法を基調とした新しい文化の創出について遠望を記していたことが紹介されていました(「特別企画 池田大作先生と『第三文明』63年の軌跡」)。
 つまり、池田先生は会長に就任する何年も前から、「宗教的使命」は「人間的・社会的使命」へと必ず昇華されなければならないと考えていたのです。
 少し専門的な話になりますが、日蓮仏法でも〝理〟としての「不変真如の理」は、〝智慧〟としての「随縁真如の智」となって顕現されるべきことを教えています。

――創価学会の「平和・文化・教育」の運動を、世間に対するソフト路線とか、布教のための手段であるかのように語る人もいるようですが、とんでもない見誤りですね。

青山 池田先生は1960年に会長に就任すると、東洋学術研究所(現・東洋哲学研究所)、民主音楽協会、公明党、創価学園を、相次いで創立しています。創価大学の設立構想が発表されたのは1964年です。1967年には創価学会本部に隣接して創価文化会館(当初は東京文化会館)も落成しています。
 先生が「広布第二章」と銘打って、仏法を基調とした本格的な「平和・文化・教育」の運動や世界との対話に挑み始めるのは、創価大学が開学した翌年の1972年ですが、その基盤となる機関はすべて最初の10年のうちに実現しているのです。
 国内外にある創価学会の会館の多くが、「文化会館」「平和会館」等の名称になっているのも、そうした普遍的な価値の実現にこそ宗教の使命があることのあらわれなのです。
 その後も、東京富士美術館、池田国際対話センター(旧・ボストン21世紀センター)、戸田記念国際平和研究所などが創立されていますが、こうした諸機関はすべて宗派性に閉じこもることなく、普遍的な「人間的・社会的価値」の実現に貢献してきました。

 ただし、宗教が宗派性の壁を乗り越えて、より普遍的な精神性・宗教性に立って、教育をはじめとする平和や文化の価値を社会に創造していくことは、容易なことではありません。〝こうすればよい〟というマニュアルがあるわけでもない。また国によって、地域によって、時代によって、社会は時々刻々、複雑に変化していきます。
 先生は2001年に発表した提言「教育力の復権へ——内なる『精神性』の輝きを」のなかで、

〈それは、いってみれば人類史を俯瞰するような文明論的課題であり、各人、各家庭、各界、各団体が、それぞれの立場、方法でもって力を合わせて事に当たっていかなければ越えることのできない、大きな〝山〟であります。
 当然のことながら、それは創価学会(インタナショナル)の課題でもあります。私どもの仏教運動とは、同時に「人間革命」であると常々申し上げている意味もそこにあります〉

と明言されています。

――「それは創価学会(インタナショナル)の課題でもあります」と語っているのですね。

青山 ただ気休めに拝んでいればよいという宗教ではないのです。また、聖職者に依存していれば死後に救われるというような宗教でもない。
 これまで世間一般で漠然と捉えられてきた「成仏」という言葉を、創価学会は「人間革命」と表現しました。信仰を実践することで、その人自身が強くなり、賢くなり、善くなっていくための宗教なのです。1人の人間が悪戦苦闘しながら自分をよりよい方向に変革し、他者・社会とのかかわりのなかで、一生をかけて〝人間の持つ輝き〟を放ち残していくための信仰なのです。
 自分という人間の生き方を通して、「宗教的使命」を「人間的・社会的使命」へと昇華し結実させていくのが創価学会の信仰です。
 同時に、創価学会としても社会に対して、「人間的・社会的価値」の創造へ、試行錯誤を厭わず不断の挑戦と努力を続けてきたわけです。それは今後も変わりませんし、むしろこれからの時代のほうが、ますます必要になってくるのではないでしょうか。
 口はばったい言い方で恐縮ですが、第三文明社の社会に開かれた挑戦も、さらに重要になっていくと私は思っています。

 前回(第6回)、池田先生が1975年11月に広島での「第38回本部総会」で講演されたことに触れました。じつは、この総会での講演で、先生は創価学会の社会的役割について次のように語っているのです。

〈創価学会の社会的役割、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を犯しつづける〝力〟に対する、内なる生命の深みより発する〝精神〟の戦いであると位置づけておきたい。またこれが、ファシズムを阻止する戦いの原点ではないかと思うのであります。その意味で、人間革命を標榜する創価学会は、社会の安定にとって、今後ますますその存在価値を高めていくでありましよう〉

 池田先生はまたこの講演で、長期的には、日本は「経済大国」の夢を追うのではなく、文化をもって、世界人類に貢献する「文化の宝庫」「文化立国」とすべきであるとも提唱しています。
 日本がバブル経済に踊るよりもはるか以前、およそ半世紀前の講演ですが、むしろ2020年代の今になってみて、先生の慧眼に驚くばかりです。

 当時は想像もつきませんでしたが、今や創価学会は世界教団として192カ国・地域に連帯を広げています。創価教育の舞台も世界各国に広がっています。
 公明党も連立政権の一翼を担って20年以上が経ちました。イギリスのEU離脱やアメリカの大統領選をめぐる混迷が象徴するように、世界の先進国でも軒並み極右政党が台頭したりポピュリズムで政治が揺れ不安定化するなかで、日本だけが例外的に中道路線の安定した政権運営を維持できています。自公連立については海外の政治学者も関心を持って見ています。
 宗教が宗教の内側に閉じこもらず、信仰する人間の現実の上に、そして社会のなかで、「人間的・社会的価値」を創造すること。宗派性の独善に陥ることなく、広く世界に普遍的な価値を創造すること。これが、池田先生が当初からめざし、生涯をかけて築き上げてきた創価学会なのです。
 今また創価学会が、さらに社会と世界に向かって大きく開いていく時代を迎え、この原点をしっかりと確認しなければならないのではないかと思います。

世界で加速する「池田思想」研究

――池田名誉会長には生前、世界の大学・学術機関から409の名誉学術称号が贈られました。空前絶後の数であり、おそらく今後もこれほどの評価を受ける人は出ないのではないかとさえ言われています。

青山 409番目は南米パラグアイのイベロアメリカ大学からの名誉博士号でしたね。授与が決定したのは池田先生が存命だった2023年3月でした。逝去から1カ月後の同年12月13日に、サーニエ・ロメロ総長ら一行が来日し、創価大学で授与式が挙行されています。

 ロメロ総長が池田会長の存在を知ったのは、93年の会長のパラグアイ訪問の際だった。総長は当時、教育大臣の首席補佐官を務めていた。直接、池田会長と言葉を交わす機会はなかったが、その卓越した人格と思想に感銘を受けた、と話す。

 当時、パラグアイは長期独裁政権が倒れ、民政移管の真っただ中にあった。
「政治的にも、価値観や思想的にも、国が大きな混乱状態にあったなかで、池田博士は、新しい思想を爽やかに、素晴らしい人格をもって我が国に届けてくださいました。教育大臣をはじめ多くの政府高官や要人たちが、敬意と尊敬の念を抱く印象的な出会いであったと、非常に好意的に語っていたことを今でも鮮明に覚えています」(『パンプキン』2024年3月号

 ロメロ総長はさらに、

「私はクリスチャンですが、池田博士は人間主義を根底にしたまったく新しいパラダイム(規範となる物の見方)、普遍的な価値を示されています。それは宗教を超えて共感できるものです。まさに宇宙大ともいえる思想だと思います」

とも語っています。

 こうした世界の大学・学術機関からの顕彰は、当然ながら各大学の理事会や評議会で決定されるものです。それも「満場一致」が原則です。宗教団体の指導者に対して授与するとなれば、慎重な意見も出るでしょうし、ネガティブな情報については真偽を確認するでしょう。
 私自身、こうした授与した側の当事者である学長や総長らに、直接お会いして取材した経験が数多くあります。どの人も、驚くほど池田先生のことを知り、著作を読み込み、深く尊敬していました。しかも、各大学での授与のプロセスは本当に厳正厳格なのです。

 じつは1997年9月8日付の産経新聞夕刊が「斜断機」という匿名のコラムで、池田先生の世界の要人との対話や名誉学術称号授与を〝金で買ったもの〟と決めつけ、〝学問不足の劣等感〟〝名誉欲の旺盛な俗物性〟などと中傷したことがありました。
 これに激怒し、即座に反論の原稿を産経新聞に送って、9月22日付紙面に掲載させたのは上智大学の安齋伸名誉教授でした。日本を代表する世界的な宗教社会学者であり、カトリック教徒として当時アジアで唯一のバチカン評議員だった方です。
 安齋先生は1963年から長年にわたって、奄美・沖縄の島々での宗教受容についてフィールド調査を実施しました。そのなかで、創価学会についても綿密な聞き取り調査を重ねていたのです。そしてその後、何度も池田先生と会見し、友情を結んでいます。
 安齋先生は産経新聞に掲載させた「斜断機へ」と題した反論で、

〈これまで池田名誉会長がアジアの哲人として各国から顕彰され、多くの大学からの名誉博士号や名誉教授称号を贈られたことを、あたかも金で買い取ったかのように述べているが、邪推としか言いようがなく、ご本人のみならず、顕彰を行った各国、各大学に対しても非礼であろう〉

〈劣等感と名誉欲と俗物性で大教団の指導、統率ができるなどと、この筆者は本当に考えているのであろうか。長年にわたり、宗教を研究してきた一人として「宗教蔑視」ともいえる誹謗を看過できず、一文をしたためた次第である〉

と痛烈に、この無責任な言論を叱責しました。日本を代表する宗教社会学者が威信をかけて、同じ新聞の紙面に反論を掲載させたのです。

――そういえば最近も、創価学会ネタで売っている某宗教学者が著書のなかで「受賞のからくり」と題し、〝授与の背景には、創価大学や民音(民主音楽協会)、あるいは東京富士美術館といった創価学会系の機関の活動がかかわっている〟〝機関の代表である池田が称号や勲章を授かったのであって、決して池田個人の活動や実績が評価されたわけではないことが少なくない〟などと、愚にもつかない中傷をしていました。

青山 この人物が学者としてどれほどアカデミアで評価され、授与した当事者の何人に会って話を聞いてみたのか知りませんが、ここまでくると、もはや子どもじみた難癖としか言いようがありません。
 むしろ世界の大学からの「授与の辞」では多くの場合、池田先生が宗教の世界だけに留まることなく、開かれた「平和・文化・教育」の諸機関を早くから創立し、人類社会へ多大な貢献を重ねてきたことを大きく評価しているのです。それこそが、池田先生の比類なき実績だからです。
 WEB第三文明でも紹介されていましたが、先生にとって第1号の名誉学術称号を授与したのはモスクワ大学(1975年の名誉博士号)で、同大学は2002年に重ねて名誉教授称号を先生に授与しています。
 その際、わざわざ来日して授与式を挙行したヴィクトル・サドーヴニチィ総長は「授与の辞」で、

純粋に個人でなした功績に対し、わが大学の2つの称号を受けられた方は、池田博士が初めてであり、現在のところ唯一の方であります〉

と強調しています。
 少なくとも1755年創立のモスクワ大学は、池田先生が「純粋に個人でなした功績」に対して、史上唯一となる2つの名誉学術称号を贈っているのです。
 池田先生に対する「300番目」の名誉学術称号となったアメリカの名門マサチューセッツ大学ボストン校からの名誉人文学博士号授与式は、2010年11月21日、池田先生ご夫妻がキース・モトリー学長夫妻、ウィンストン・ラングリー学事長、ウンスーク・ヒュン学事長補佐を迎えて、信濃町の創価学会恩師記念会館で挙行されました。
 モトリー学長は「授章の辞」で、次のように述べています。

〈貴殿は、平和と文化、教育を推進する上で、個人のエンパワーメント(能力開花)と社会への関わりを提唱しておられます。
 貴殿は、それらの価値観を反映させる、特定宗派に限定されない教育機関を創立され、また、池田国際対話センターや、戸田記念国際平和研究所、東洋哲学研究所を設立しておられます。
 貴殿は数多くの著作を手がけ、随筆から詩歌、子どものための物語、市民社会の関わりを強めるよう具体的に促す平和提言に至るまで、あらゆる出版物を刊行しておられます。
 貴殿は、世界平和は社会、あるいは構造的改革のみならず、自発的な個人の変革によって実現されると信じておられます。
 貴殿の著作は、幾つかの国の大学の授業でも採用されており、貴殿の思想を中心に研究を進める20以上の機関が、世界に存在しております〉

〈貴殿の仏教理念へのたゆまぬ献身と、その人生と構想が他者への啓発の源とされていることを顕彰し、2010年6月4日(の卒業式で)、池田大作氏への「名誉人文学博士号」の授与を発表し、本日、11月21日、その学位記をお渡しできることを、誠に光栄に存じます〉

 なお、ここでも触れられている「池田思想」の研究機関は、2001年に中国の北京大学に「池田大作研究所」が設立されたのを皮切りに、中国、インド、アメリカやヨーロッパにも広がって、今では44の大学に公式に設置されています。
 大学の学長や副学長が代表を務めているところもあり、各国で開催されるシンポジウム等には、世界中の学術研究者らが参加し、あるいは論文等を寄せています。
 2024年3月に入ってからも、台湾の中国文化大学で第15回「池田大作平和思想研究国際フォーラム」が開催されていますね。17大学の19人の研究者が論文を寄せ、会場には学生や教職員ら約300人が詰めかけました。
 述べてきたように、池田先生は宗派性に閉じないかたちで、民衆に根差し、また広く宗教性を土台とした、普遍的な「平和・文化・教育」の運動を国内外に展開されてきました。
 21世紀に入って、今度はその池田先生という一個の人間の「思想」そのものが、政治体制も文化も越えて、各国の名門大学で研究の対象になってきているのです。この流れは、今後さらに加速していくことでしょう。

特集 世界はなぜ「池田大作」を評価するのか:
 第1回 逝去と創価学会の今後
 第2回 世界宗教の要件を整える
 第3回 民主主義に果たした役割
 第4回 「言葉の力」と開かれた精神
 第5回 ヨーロッパ社会からの信頼
 第6回 核廃絶へ世界世論の形成
 第7回 「創価一貫教育」の実現
 第8回 世界市民を育む美術館

「池田大作」を知るための書籍・20タイトル:
 20タイトル(上) まずは会長自身の著作から
 20タイトル(下) 対談集・評伝・そのほか

三代会長が開いた世界宗教への道(全5回):
 第1回 日蓮仏法の精神を受け継ぐ
 第2回 嵐のなかで世界への対話を開始
 第3回 第1次宗門事件の謀略
 第4回 法主が主導した第2次宗門事件
 第5回 世界宗教へと飛翔する創価学会

「フランスのセクト対策とは」:
フランスのセクト対策とは(上)――創価学会をめぐる「報告書」
フランスのセクト対策とは(中)――首相通達で廃止されたリスト
フランスのセクト対策とは(下)――ヨーロッパでの創価学会の評価

仏『ル・モンド』の月刊誌がフランスの創価学会のルポを掲載――その意義と背景

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今こそ問われる 政教分離の本来のあり方(京都大学名誉教授 大石眞)
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旧統一教会問題を考える(上)――ミスリードしてはならない
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あおやま・しげと●ライター。著書に『宗教はだれのものか』(2002年/鳳書院)、『新装改訂版 宗教はだれのものか』(2006年/鳳書院)、『最新版 宗教はだれのものか 世界広布新時代への飛翔』(2015年/鳳書院)、『新版 宗教はだれのものか 三代会長が開いた世界宗教への道』(2022年/鳳書院)など。WEB第三文明にコラム執筆多数。