旧統一教会問題を考える(上)――ミスリードしてはならない

ライター
松田 明

「政治と宗教」の問題ではない

 政治家と世界平和統一家庭連合(以下、旧統一教会)の関係をめぐる報道が連日、人々の耳目を集めている。
 旧統一教会は宗教法人ではあるが、全国霊感商法対策弁護士連絡会が把握している被害額だけで1237億円(1987年~2021年)を超えるようなきわめて反社会性の強い実態が明らかになっている。そうした団体が社会的信用を偽装するために、さまざまな手口で政治家に接近してきた。
 憲法学が専門の南野森(みなみの・しげる)九州大学教授は、

 旧統一教会の問題は政治と宗教の問題というよりは、政治と不法行為を繰り返す団体の問題であると理解すべきだ。「信教の自由」や「政教分離」といった憲法上の一般的な問題と捉えるべきではない。(『毎日新聞』8月9日

と指摘している。
 旧統一教会の問題を「政教分離」にからめて批判したところで、(そもそも憲法の定める政教分離とはそんな話ではないので)旧統一教会側は痛くもかゆくもない。
 これを「政治と宗教」の問題と雑に括って論じることは、かえって旧統一教会の期待する土俵に乗ることになりかねないし、一方で日本国憲法が定めた国民のさまざまな権利を否定することになる。

「宗教は政治の質を向上させる」

 ところが不用意なのか意図的なのか、「政治と宗教」の問題として語る言説が一部に絶えない。
 ワイドショーや週刊誌、SNS上などには「政治と宗教がズブズブの関係」「宗教が政治に影響を与えるな」といった類の危うい言葉が飛び交っている。「ズブズブの関係」とは具体的に何を指すのか境界線が不明だし、「宗教が政治に影響を与えるな」という言説に至っては民主主義を真っ向から否定する暴論にすらなる。
 日本国憲法は「法の下の平等」(14条)、「思想・信条の自由」(19条)、「信教の自由」(20条)、「結社・表現の自由」(21条)、「両議院の議員及び選挙人の資格を信条等で差別してはならない」(44条)を定めている。

 表現することによって、人々がいろんな議論を闘わせる。しかも政治的な議論を闘わせることによって、そこで民主主義というものが発展するはずです。(『伊藤真の憲法入門』日本評論社)

 すべての国民は「信仰を持つ/持たない」自由を持っており、社会の営みについても意見を表現する自由を持っている。さまざまな思想・信条的価値観に立って政治的議論を闘わせることが民主主義の肝なのだ。特定の思想・信条が政治的議論の場から排除されるとなれば、それはもう民主主義国家とは呼べない。
 チリの軍事独裁政権に抗して1990年に大統領となり民政移行を実現させたパトリシオ・エイルウィン(キリスト教民主党創設者の1人)は、

 宗教が人間の精神性の向上を促して、道徳的克己や人間同士の理解や団結や平和の意義を高めている限り、政治の質を向上させることに明らかに貢献しています。(『太平洋の旭日』河出書房新社)

と述べている。
 昨年まで16年間ドイツ首相をつとめたアンゲラ・メルケルは、2000年以来キリスト教民主同盟の党首でもあった。
 欧米や日本の「信教の自由」「政教分離」は、人々が宗教的価値観に基づいて政治活動をすることを認めている。宗教を個人の内面に限定して政治への関与を禁じるのは、大日本帝国や旧ソ連、北朝鮮、中国などが採用する考え方だ。

ミスリードしてはならない

 ネットメディアのなかには、「政教分離原則」の意味を「政治がある特定の宗教団体と結びつく」ことを禁じたものだと解説する論説もあったが、これも「政治」が何を意味しているのか曖昧で誤解を生む。「政治」が「政治家」や「政党」を指すというのなら、それは日本国憲法と相容れない話になる。
 政教分離原則とは、「Separation of Church and State」(教会と国家の分離)であり、「政」は「国家」を指す。戦前・戦中の大日本帝国のように、国家が特定の宗教を特権的に扱ったり弾圧したりすることを禁じているのであって、宗教者の政治参加を否定したものではない。
 そして政党は政策の実現を目的にしている以上は政権獲得をめざすものであり、選挙の結果、何らかの信仰を持った議員や宗教団体の支援する政党が与党になり内閣を担うことはある。もし、それが問題だというのなら、宗教的信条を持った人間だけは憲法の保障する権利から除外されることになってしまう。
 なお「信教の自由」には信仰を持たない自由も含まれているから、〝無宗教〟を自任する人もまた、〝無宗教〟という〝宗教的信条〟を持っていることになろう。
 石橋湛山首相は日蓮宗の僧籍を持ったうえで政界入りし、首相在任中の1957年1月、身延山久遠寺から大僧正に次ぐ「権大僧正」の僧階を授けられている。大平正芳首相は19歳のときに洗礼を受け、終生をクリスチャンとして過ごした。神社本庁から最高位の「長老」敬称を授与されている綿貫民輔は神職の家系に生まれ、神職のまま議員となり衆議院議長までつとめた。
 信仰を持った者、とりわけ宗教団体の聖職者の立場にある者が三権の長に就いたとしても、当然それは日本国憲法に何ら反しないのだ。
 野党議員の多くも神社仏閣への参拝はしているだろうし、選挙の際にさまざまな宗教団体の支援を受けている者も少なくない。日本共産党でさえ「宗教人と日本共産党との懇談会」を開催し、

「平和を希求し、人間の平等と人権の尊重を目指すという点で、宗教と日本共産党の目的は同じです。政治をかえるために多数者とともに進む道で、宗教者のみなさんはもっとも大事なパートナーのひとつです」(小池晃書記局長『しんぶん赤旗』2018年8月30日


と、宗教者を「もっとも大事なパートナー」と位置付けている。政治家や政党が特定の宗教と接点を持つとしても、それ自体は何ら問題のないことなのだ。
 旧統一教会と政治の問題は、あくまで政治家が「反社会的な団体」とかかわることのモラルが問われている話であって、「宗教」とかかわることの是非の話ではない。

旧統一教会は、宗教であることを隠して近づく手法や、家族や知人との接触を断ちきっての洗脳・教化、霊感商法や法外な金額の献金強要など多くの違法行為・不法行為が裁判で認定されており、他の宗教団体と決定的に異なる。(南野森・九州大学教授『毎日新聞』前出)

 オウム真理教は不法行為が認定され、宗教法人法に基づく解散命令を受けた。後継団体も公安調査庁が「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律に基づく観察処分」の対象としている。
 社会として旧統一教会の問題に本気で取り組もうとするのであれば、「政治と宗教の関係」などというあらぬ方向にミスリードしたりせず、違法・不法行為を繰り返す「反社会的な団体」の問題として追及していくべきであろう。

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