「政治と宗教」危うい言説――立憲主義とは何か

ライター
松田 明

目につく「政教分離」への誤解

 世界平和統一家庭連合(以下、旧統一教会)と政治家との関係に注目が集まったことで、あらためて政治と宗教についての議論が起きている。
 一般論として、政治家が(相手が宗教団体であろうとなかろうと)反社会的な問題が指摘されている団体からの支援を望んだり、それらの行事に参加したりすることは慎重であるべきだし、市民感情としては容認できない。たとえ形式的な挨拶や祝電であったとしても、当該団体の正当化や権威付けに利用されかねないからだ。
 一方、政治と宗教をめぐって飛び交う言説のなかには、憲法や民主主義に対する基本的な理解を欠いた、かなり危ういものがいくつか見受けられる。
 まず「政教分離」に対する初歩的な誤解だ。
 日本国憲法は第20条で「信教の自由」と、これを担保するための「政教分離」を定めている。ところが「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」という条文を、「宗教者の政治参加の禁止」の根拠に挙げる言説が、インフルエンサーと目されるような人のなかにもいまだに見られることには、いささか驚く。
 伝統的な法学が言う「政教分離」とは「Separation of Church and State」(教会と国家の分離)である。「政」は「国家」であって、政治や政党と宗教の分離ではない。あくまで国家に対して宗教的中立性を求めているものであり、国民である宗教者が政党を結成すること、政治家になること、宗教団体が政治家や政党を支援することを禁じたものではないのだ。
 なぜなら憲法は国家を縛るもの(第99条)であり、「信教の自由」のほかに「思想および良心の自由」「集会・結社・表現の自由」「職業選択の自由」「信条によって議員や選挙人の資格が差別されないこと」などを定めているからだ。
 20条が宗教者の政治参加を一切否定していないことは、憲法草案が作られたGHQ内部でも、草案を審議した帝国議会でも、繰り返し議論され確認されている。日本国政府は(公明党が野党だった時代を含め)戦後一貫して、この憲法制定以来の立場を崩していない。
 したがって〝宗教(宗教を持った国民)は政治に関わるな〟という主張は、日本国憲法を真っ向から否定する暴論になる。詳しくは筆者が1年前に書いた記事を参照してもらえればと思う。
 参考記事:公明党と「政教分離」――〝憲法違反〟と考えている人へ

「信教の自由」が意味するもの

 もう一つの危うい言説は、国は宗教団体への規制と管理を強化せよというものだ。
 ここで「宗教法人法」(1951年4月3日施行)がなぜ作られたかを確認したい。
 憲法20条が「信教の自由」と「政教分離」を定めたのは、一つには戦前・戦中の日本が事実上の国教ともいえる国家神道を国民に強制し、その他の宗教団体を統制・弾圧して、戦争遂行への総動員体制を敷いた愚行を二度と繰り返させないためだ。
 GHQが戦後真っ先に出したのは国家神道を廃止させる「神道指令」(1945年12月15日)だった。これこそ戦後民主主義の出発点であり眼目なのだ。
「信教の自由」には、宗教を信じる自由、宗教を信じない自由のほかに、信仰を告白しない自由、そして同信の者が宗教団体を結成し宗教を広める自由も含まれる。より多くの人々の救済や理想的な社会の実現を信条とする宗教にとって、信仰の輪を拡大し次世代に継承していくことは当然だからだ。
 また宗教を広めることは、実際には他者を従来の信仰から改宗させることを意味する。したがって、信教の自由には他の宗教の教義に批判を加える自由も含まれる。
 参考記事:「政教分離」の正しい理解なくしては、人権社会の成熟もない
 こうしたことが日本社会ではほとんど理解されていない。開かれた議論のなかで互いの教義やあり方を批判し合い、切磋琢磨し成熟していくことこそ宗教本来の健全な姿であり、特異な教義を掲げるカルトに対する注意を喚起するうえでも重要なのだ。

宗教法人法の意味とは

 人々が信仰をまっとうし、宗教の継承や発展を可能にするためには、宗教活動に必要な礼拝施設や財産を持ち、維持運用していくことが不可欠となる(別に大教団でなくても、集落の小さな神社を維持することをイメージすればわかりやすいだろう)。そこで、要件(教義をひろめる、儀式行事を行う、信者を教化育成する、礼拝の施設を整える)を満たした宗教団体に法人格を与えることを目的としたのが宗教法人法だ。

第一条 この法律は、宗教団体が、礼拝の施設その他の財産を所有し、これを維持運用し、その他その目的達成のための業務及び事業を運営することに資するため、宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする。(「宗教法人法」

 この宗教法人法に関して、国が「認可」をすると誤解している人が多い。同法では、宗教団体側が前述した所定の要件を満たして申請すれば「認証」しなければならない。「許認可」ではないのだ。

 宗教法人法には、宗教法人の公共性を維持しつつ、その一方で、信教の自由を妨げないよう、法人の自主性を極力尊重するという特徴があります。
 そのため、認証においても、所轄庁は、法の要件が備えられていると認めたときは、裁量の余地なく、認証しなければなりません。
 ただし、認証は機械的に行われるものではなく、所轄庁は、審査に当たって事実の存否に理由ある疑いを持つときには、その疑いを解明するための調査を行います。(文化庁文化部宗務課「宗教法人制度の概要と宗務行政の現状」/傍線太字は筆者)

 なぜ「許認可」ではなく「裁量の余地なく認証」なのかといえば、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」という憲法の規定があり、国が人々の信教の自由に介入することを避けるためだ。
 ある人々の信じる宗教の教義が適格かどうか、正しいか間違っているか等の判断を公権力が行ってはならない。これこそが「政教分離」なのである。
 戦時下の日本では国民を総動員するために国家神道が特権的な扱いを受ける一方で、政府の意向で宗派の統一や解散を命じられ、国策に背き神社への拝礼や神札の奉掲を拒む教団は不敬罪とされ弾圧された。

「立憲主義」を毀損してはならない

 憲法20条が「信教の自由」を謳っていても、宗教法人法がなければ人々の「信教の自由」を実質的に担保することはできない。宗教法人法は「信教の自由」と「政教分離」を担保するための法律なのだ。
 だから、国に宗教の教義の是非を判断させたり、宗教法人にするかどうかの自由な裁量を委ねたりすることは、同法の精神とは真逆のことであり、基本的人権の精神的自由権を毀損することになってしまう。
 たとえば一方で安倍元首相の国葬は精神の自由を侵害し立憲主義に反するものだと非難しているような人の一部が、他方で憲法の定める「政教分離」を正しく理解しようとせず、宗教者の政治参加に異を唱え、戦前に逆戻りするかのような公権力による宗教への管理統制の強化を求める声さえ発しているのは、じつに不可解なことだと思う。日本社会における宗教への無知を、あらためて痛感させられる。
 もちろん、過去には宗教を偽装した悪徳商法と見なされた「法の華三法行」「明覚寺グループ」などの例もある。旧統一教会の実態が極めて悪質な問題を抱えているという認識に筆者も異存はない。個人の人生を破壊するような教団のあり方には、これを機に社会として何らかの手立てを講じる必要がある。
 しかし、カルト対策の名のもとに日本国憲法の根幹の一つを破壊するようなことになっては、「湯あみの湯と一緒に赤子まで流す」愚行になってしまう。
 くれぐれも「立憲主義」の危機を訴える人々が自らの手で「立憲主義」を毀損しないよう、まずは政治と宗教の関係について、正確な認識をすることから始めてほしい。
 論理の一貫性を欠いた憎悪の熱のような空気のなかで、かえって反社会的教団への妥当な対処がためらわれることも、逆にそのような空気に便乗して国家が宗教団体に介入することも、どちらも社会に深刻な禍根を残すと考える。

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