書評『プーチンの野望』――内在論理から戦争を読む

ライター
本房 歩

ワシントンが驚いた情報収集力

 2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が起きてから、書店にはロシアやウクライナ関連の書籍コーナーが目立つ。ロシアやウクライナの基本的情報を綴ったものから、経済、軍事・安全保障、文学、地政学など、さまざまな視点に特化したものがベストセラーにランクインしている。
 つまり、それは今回起きている軍事侵攻に人々が大きな不安を覚えている表れであり、同時にこれまで私たちがロシアやウクライナことをほとんど知らなかったことを意味している。
 さて、そうした関連書籍のなかで、とくに注目されている一冊が佐藤優氏の『プーチンの野望』(潮新書)だ。6月6日に発売されるや、たちまち版を重ね、1カ月あまりで7万部を突破した。

 本書は、私が職業作家になった05年以降、さまざまな媒体に発表したプーチン論を再編集し、加除修正を加えたものだ。この機会に昔の原稿を読み直してみたが、基本線について変更することはなかった。(本書「はじめに」)

 さらに2月のウクライナ侵攻後、著者自身の思うところを語り下ろして新章としている。
 著者は作家にして元外務省主任分析官。1988年から95年までモスクワの日本大使館に勤務し、独自の情報網を築いてきた。1991年8月にクーデターが起き、当時のゴルバチョフ大統領の安否が不明になった際、その生存情報を西側世界で一番早くつかんで外務省本省に打電した。ホワイトハウスが舌を巻いたという逸話は有名だ。
 本書の醍醐味もまた、著者だから知り得た、あるいは実際に見た、過去30数年間の経験に基づいた独自の分析がなされているところにある。

プーチンの内在的論理

 ウクライナ侵攻が起きた直後、著者はほとんどの取材依頼を断り、軍事侵攻について多くを語ることをやめた。

 四月くらいまでは、冷静な議論ができるような雰囲気ではありませんでした。停戦を訴えたり、ウクライナ側に少しでも批判的な意見を述べたりするだけで、集中砲火を浴びてしまうような時期でした。何よりも、そうした議論自体が多くの人々に受け入れられなかったでしょう。しかし、最近ではかなり変わってきて、議論できる素地ができたように思います。そこで、この『プーチンの野望』を緊急出版したというわけです。(『第三文明』8月号

 本書は、1998年暮れに著者が初めてプーチンを間近に見たときの光景からはじまる。このときロシアはエリツィン政権下で、プーチンはFSB(ロシア連邦保安庁=国内秘密警察)の長官だった。プーチンが首相に任命されるのは、翌99年8月のことだ。
 そして、著者はまず「信仰者としてのプーチンの素顔」を語る。ロシアのブルブリス元国務長官が著者に語った言葉は興味深い。
「プーチンははじめ、大統領の権力をエリツィンから譲ってもらったと思っていた。その次に国民に選ばれたと考えた。しかし次第に、自分のようなKGBの中堅官僚が突然国家のトップになるのは、神の意思ではないかと考えるようになった。これはトップになる政治家の共通の要素だ」
 著者は、ロシアのさまざまな人脈に精通した情報のプロとして、さらに神学者として、プーチンという人物の内在的論理に迫り、そこから歴史の流れを読み解こうとしている。

 21世紀のロシア国家とロシア国民を安定的に発展させる「民族の理念」を構築した「中興の祖」となるという課題をプーチンは自らに課しているのだと、私は考えている。(本書)

 ロシアは地政学的にヨーロッパから極東にまでまたがる「ユーラシア国家」だ。そこには多様な民族、言語、宗教と文化が広がっている。したがって、この国には「独自の秩序と発展法則」が必要だとプーチンは考えている。
 旧ソ連のようにユーラシア諸国を政治的に併合することは求めないが、「ロシアを核とする共同権をユーラシアに形成しようとしている」と著者は見ている。

 プーチン大統領に見えている世界地図の中のロシアは、ソ連の崩壊という歴史的悲劇によって不当に縮小させられた版図だ。プーチン大統領にとってのロシアは、「ロシア帝国(1721~1917年)の地図」だ。(本書)

熱狂に流されることなく

 もとより、ロシアによるウクライナ侵攻が他国の政権打倒を目的にした領土侵略であり国際法違反であることは論をまたない。著者も本書で「ロシアの要求は露骨な内政干渉であり、国際法に違反する」と明確に述べている。
 一方で、本書では2013年の「ウクライナ危機」(当時のウクライナ大統領ヤヌコビッチに対する民衆の蜂起)の背景を詳細に記す。まだら模様のアイデンティティと宗教対立、民族主義。その後、ロシア軍の介入を望んだクリミアの住民と、プーチンによるクリミア併合の既成事実化。ロシアとウクライナの間で交わされたミンスク合意。今般の軍事侵攻は突発的に起きたものではなく、少なくとも10年に及ぶ複雑な経緯のなかから生じている。
 また、日本のメディアではことさらにゼレンスキー大統領を英雄視し、対するプーチンを悪魔化して対比する言説が溢れているが、著者はあえて感情に流されることなく、あくまで「リアリズムに基づいてここ20年余りの歴史を振り返ってみること」を試みる。
 目下、ゼレンスキー大統領は「領土の完全な回復」まで戦い続けることを公言し、欧米に対してさらなる武器の追加供与を求めつづけている。ウクライナでは18歳から60歳までの男性の出国が原則禁止されている。日本の外交・安全保障の専門家たちやリベラルな新聞の特派員などにも、「停戦は平和を意味しない」「和平と言ってプーチンと手をむすべるのか」といった、戦闘の継続を断固支持する言説が溢れている。
 著者は、こうした「残虐なロシアVS悲劇のウクライナ」という単純な二元論に落とし込んで戦争の熱狂を煽ることに、繰り返し警鐘を発してきた。ウクライナの平和のために何が必要か、私たちは冷静に考え続けなければならない、と。
 ところで、本書はAmazonのレビューなどでも押しなべて高い評価を得ているが、「はじめに」と「終章」で創価学会の平和思想に言及されていることに戸惑いや違和感を覚える読者も少なくないようだ。実際、書評子も唐突な印象を禁じえなかった。
 なにも潮新書だからと言って、著者が本書を創価学会の会員向けに書いたとは到底思えないし、そのような内容でもない。ではなぜ、あえて著者はこのように創価学会の平和思想に触れたのだろうか。
 この戦争にも終わりを迎えるときが必ず来るであろうし、ウクライナが復興に取り組み、ロシアと日本がふたたび関係を正常化させる日も必ずやってくる。「知の巨人」の胸中を測ることはとてもできないが、大きな時間軸で考えたときに、この深謀遠慮の答えは自ずと明らかになるように思えるとだけ記しておきたい。

「本房 歩」関連記事:
書評『今こそ問う公明党の覚悟』――日本政治の安定こそ至上命題
書評『防災アプリ特務機関NERV』――ホワイトハッカーたちの10年
書評『かざる日本』――「簡素」の対極にある日本の美
書評『「価値創造」の道』――中国に広がる「池田思想」研究
書評『JAPと呼ばれて』――第一級のオーラル・ヒストリー
書評『創学研究Ⅰ』――師の実践を継承しようとする挑戦
書評『法華衆の芸術』――新しい視点で読み解く日本美術
書評『創価教育と人間主義』――第一線の学識者による力作
書評『池田大作研究』――世界宗教への道を追う