書評『JAPと呼ばれて』――第一級のオーラル・ヒストリー

ライター
本房 歩

日系人部隊442連隊

 ハワイ真珠湾奇襲攻撃によって日米が開戦してから80年となる2021年12月8日。米国にとって長いあいだ〝忌まわしい記憶〟であったその日、その真珠湾で、米海軍の新しい駆逐艦の就役式がおこなわれた。
 駆逐艦の名前は「ダニエル・イノウエ」。ハワイに生まれた日系2世で、長く上院議員を務めて2012年に逝去した故ダニエル・イノウエの名を冠したものだ。日系人の名前が米軍の艦船につけられたのは初めてのこと。
 日系アメリカ人の歴史は、1868年(明治元年)の最初の移民団にさかのぼる。主にハワイや西海岸の労働者として入植した人々は、過酷な環境のなかで米国社会に根を張った。やがて2世たちも生まれ育ち、それぞれに苦労が実りはじめていた。
 1941年12月8日(米国時間では7日)早朝の真珠湾奇襲攻撃は、そんな日系人たちの運命を一瞬で変える。
 米国本土には当時、12万6948人の日系人が暮らしていた。その9割におよぶ11万3798人が、裁判も経ずに生活も財産も奪われて強制的に収容所に移送された。
 一方、日系人が住民のなかで相応の比率を占めていたハワイでは少し事情が違った。当局に連行されたのはコミュニティに影響力をもった一部の者だけで、一般の日系人は強制収容されていない。それをすればもはや社会が機能しなくなるからだ。
 しかし日本が「敵国」となったことで、若い日系2世たちはアメリカ国民としての忠誠心を誰よりも示さなければならなくなった。

そのためハワイの二世の軍人志願率は高く、三〇〇〇人の応募に対して一万人の若者が集った。(『JAPと呼ばれて』「あとがき」より)

 ダニエル・イノウエも、そうした若者の1人だった。米陸軍の日系人部隊として編成された442連隊は、ヨーロッパ戦線に従軍。同じ米国人でありながら「敵性外国人」のレッテルを貼られたこの部隊は、常にもっとも熾烈な戦闘の前線に立たされ続けた。
 フランスのボージュ山中でドイツ軍に包囲された白人のテキサス大隊を救出する作戦では、211人のテキサス大隊全員を無傷で救出した。だが、そのために日系人部隊では約800人の死傷者を出した。
 イノウエもイタリアでの戦闘で右腕を失った。多くの犠牲者を出してドイツ軍からローマを解放する突破口を開いたのは442連隊だったが、ローマへの入城は許されず、後続の白人連隊がローマ市民の歓声をもって迎えられた。
 442連隊で兵役をつとめた人数は約1万4000人。戦争終結時にいた数はわずか4~500人だった。

かなりの死傷者が出た上、要員の交代率が非常に高かったということが分かります。(同「ダニエル・イノウエの証言」より)

ホノルルでの運命的な出会い

 宍戸清孝は第二次世界大戦の終戦から9年が経った1954年に仙台市に生まれた。少年時代、日本が高度経済成長時代を迎えても、周囲には復員した傷痍軍人たちの悲痛な姿があった。
 画家だった叔父が米軍三沢基地で画商をしていた関係で、13歳になった少年は基地のなかを案内してもらう。そこにはドラマで見る「豊かなアメリカ」があり、轟音を響かせてベトナムへと飛び立っていく戦闘機があった。
 ベトナム戦争を取材し、1966年にピューリッツァー賞を受賞した報道写真家の沢田教一は、叔父の友人だった。いつか自分も「日米の架け橋」になる仕事をしようと少年は決意する。
 1980年1月、25歳になった宍戸は写真を学ぶために渡米した。費用の都合で、最初はハワイでの生活からスタートする。そして3月16日、ホノルルで出会ったのがトーマス・オオミネだった。442連隊にいた元軍人だった。
 このトーマス・オオミネから聞いた壮絶な半生が、宍戸の心を強く揺さぶった。第二次世界大戦に従軍した日系2世の証言を記録する。以来40年以上、これが今日に至るまで宍戸のライフワークとして続いている。
 元442連隊の人を探し出しては全身全霊で話を聞き、写真を撮らせてもらう。やがて、軍人となった2世たちのなかには、ヨーロッパ戦線とは別の任務を与えられていた人々がいたことを宍戸は知る。
 陸軍情報部語学学校(MIS)を経て主に諜報任務に従事させられた日系2世たちが大勢いたのだ。彼らは暗号の解読などのほか、日本兵らに投降を呼びかけたり、捕虜となった日本人への尋問の通訳にあたったりした。
 捕虜になれば自ら命を絶つよう教育され自暴自棄になっていた日本兵たちに、日系兵士たちは「命を大切にしてください」と懸命に説得した。
 さらに戦争が終わると、彼らは日本への駐留軍の通訳としても重要な任務を果たしている。カン・タガミは連合国総司令部に通訳として勤務していた。
 米国の放送関係者が昭和天皇の私生活を撮影させるよう宮内庁に圧力をかけたことがあった。天皇は困惑していることをマッカーサーに伝える。マッカーサーは天皇に「NOと言ってかまいません」と伝え、タガミが通訳すると、天皇はマッカーサーに丁寧に礼を述べた。

陛下は私に「タガミ中尉は日本人ですか」と尋ねられましたので、「そうです。両親は広島出身です」、と答えますと「わたくしは日系の人々に感謝しております。どうか日米の橋となって今後もよろしく頼みます」と言われました。陛下のおおらかで、隠すところがない人柄をマッカーサーは好んでいたようでした。(同「カン・タガミの証言」より)

 442連隊の元兵士とは異なり、こうした情報要員だった人々は戦後もずっと守秘義務から沈黙を貫いていた。
 何度も足繫く通っていた宍戸に対し、少しずつ当時のことを話すようになる者が出てくるのは、戦後50年の1995年頃からだったという。
 ハリー・フクハラのように、自分は米軍の語学兵として従軍し、母親と日本軍人だった兄は広島で原爆の閃光を浴びて亡くなったという人もいる。
 本書は戦後60年の2005年に出版されていた。後世に真実の記録を残しておきたいという宍戸の強い思いで、今回2021年11月に論創社から〝リニューアル版〟として再刊された。
 再刊にあたって宍戸は自身が撮影した関係する写真をすべて精査し直し、いくつかは新しいものに差し替えられている。
 ダニエル・イノウエなど本書に証言を残した日系2世たちは、ほぼ全員が今はもう鬼籍に入っている。これほど多くの日系2世元兵士たちの貴重な証言と肖像を記録した仕事は、世界に類例がない。
 文字どおりオーラル・ヒストリーとして第一級の歴史的資料であり、その価値は未来へ歳月を経るごとに高まっていくだろう。
 歴史は、それを見る者の立ち位置によって見え方がまったく違ってくる。日系人から見た昭和史というものを知ることで、はじめて見えてくる日本という国の真の姿がある。

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