連載「広布の未来図」を考える――第6回 三代会長への共感

ライター
青山樹人

未来への展望が求められる時代

――3月から始まったこの連載ですが、おかげさまで反響をいただいているようです。

青山樹人 第1回で申し上げたように、あくまでも一つの見解としての言論であり、読んでくださる方の何らかの思索のヒントになればという企画です。
 お手軽なネット記事と違って、あえて毎回それなりに文字量も多くしています。それでも読んでくださる方々には感謝するばかりです。

 今から70年前の1955(昭和30)年7月の『大白蓮華』巻頭言で、戸田先生は「青年よ、心に読書と思索の暇(いとま)をつくれ」と綴られました。池田先生もまた、この恩師の言葉を何度も青少年たちに語られてきました。

 そのなかで戸田先生は、「読書と思索のない青年には向上がない。青年たる者はたえず向上し、品位と教養を高めて、より偉大な自己を確立しなければならぬ」と記されています。

 仕事に、家庭や家族のことに、地域のことに、学会活動に、本当に多忙な日々を送っている人が多いと思います。ともすれば目の前のことに追われていく日々です。
 だからこそ、創価の青年には、また青年の心で生き続ける先輩世代も含めて、あえて活字に挑んで思索を重ねていただきたいと願っています。

――じつは、ちょうどこの連載が始まったのと同時期に、公明党が政策立案アンケート『We connect』をスタートさせました。党内外のさまざまな人の声、なかんずく若者・現役世代からの政治への要望をキャッチする試みです。
 集まった声をAI技術で集約・整理して、党としての政策立案につなげようとするものだそうです。
 そうしたなかで、「公明党には積極的に国家観やビジョンを示してほしい」という声もあったようですね。

青山 学会の内外を問わず、若い世代の方々と話していると、日本社会の未来に対して漠然とした、けれどもかなり大きな「不安」を抱いている人が、圧倒的に多いように思います。
 物心ついた時から、日本はずっと下り坂で、人口も減少に転じ、閉塞状況が続いてきたのですから当然といえば当然でしょう。
 若い世代にとって上長に当たる方々も、まさに不公平感と老後への不安を抱えた就職氷河期世代です。

 選挙において本来は、実績や政策実現能力が問われるものですが、未来に不安を抱えた人々にとっては、とりあえず〝今ある不安や困窮に手当てをしてもらえるのかどうか〟〝自分の将来がどうなるのか〟という明確なメッセージが欲しいのだと思います。
 たしかに各種世論調査で支持が伸びている政党は、いずれも国家観やビジョンをストレートに発信していますね。

 たとえ整合性や合理性に欠けるような稚拙な政策や極端な主張であっても、やはり人々の不安を受け止め「変化」を強く打ち出しているところに、一定数の支持が集まっているのです。
 その是非はともかく、閉塞を感じている若者や現役世代などが、現状を変えたいという強い思いを抱いていることは明らかです。

 公明党の場合、掛け値なしで、都議会でも国政でも実績が多すぎて伝えるのが大変なくらいです。いわば、その実績そのものが〝現状を変えてきた成果〟でもあるのです。
 しかし、責任政党として手堅くものごとを進め、ウケのいい極端なことを主張しないので、大きく何をどう変えていきたいのかと問われると、そこが見えづらくなってしまう。

 政策実現力としての実績を語ることとあわせて、「公明党が議席を獲得することによって、あなたの暮らしが次はこのように変わります」という具体的なビジョンを、短期的にも中長期的にも明確に打ち出せるといいのかもしれませんね。

――これまでの手堅い政策実現力が、今後へのビジョンを語る際の説得力につながっていくことを望みます。

私たちが築くべき広布の未来像とは

青山 ビジョンという話でいうと、創価学会の活動のなかにあっても、未来への明確なビジョンを描き、共有していくことが重要になっているのではないかと考えています。
 つまり、具体的に私たちはどのような社会を築こうとし、どのような創価学会のありかたをめざすのか。

 この連載のタイトルに「広布の未来図」という言葉を織り込んだのも、まさに広宣流布の具体的な未来図をみんなで思索していきたいという思いからでした。
 言うまでもなく、創価学会がめざすのは「広宣流布」です。「会憲」でも、

創価学会は、「三代会長」を広宣流布の永遠の師匠と仰ぎ、異体同心の信心をもって、池田先生が示された未来と世界にわたる大構想に基づき、世界広宣流布の大願を成就しゆくものである。(創価学会会憲 前文)

と、会にとっての大願が「世界広宣流布」であることを明記しています。

――「広宣流布」という言葉そのものは法華経に出てくるものですね。法華経の「薬王菩薩本事品」に、「我滅度して後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得しむること無かれ」とあります。

青山 『日蓮大聖人御書全集 新版』にも「広宣流布」は49カ所出てきますね。「広宣流布」は釈尊と日蓮大聖人の遺命です。そして仏法史上、池田先生の時代に初めて「世界広宣流布」が現実のものとなったのです。
 今では365日24時間、途切れることなく、創価学会員の唱える題目の音声が地球を包む時代が到来しました。

――以前、未来部のメンバーから、「広宣流布が実現したら、他の宗教はなくなるのですか?」と質問されたことがあります。

青山 私も同じことを聞かれたことがあります(笑)。
 これについては、かつて松下電器(現・パナソニック)の創業者である松下幸之助氏が、池田先生に質問されました。松下氏は、

宗教における宗団・宗派というものは、究極的には一つであったほうがいいのでしょうか。またさまざまにあったほうがいいのでしょうか。(対談集『人生問答』/『池田大作全集』第8巻)

と問われました。
 池田先生は、

信教の自由は絶対に守られるべきであり、したがって、必然的にさまざまであってよい。いや、さまざまであらざるをえないと考えます。(同)

選ぶのは民衆であり人間であって、それはどこまでも選択者の自由意思に委ねられるべき問題です。選ぶべき道が最初から制限され、一本化されてしまった場合には、選択の余地はないし、人間の自由意思を奪ってしまいます。(同)

と答えられています。

 広宣流布といっても、他の宗教をすべて淘汰して、なにか一色に染め上げていくような世界ではないのです。それでは全体主義になってしまう。
 池田先生は「広宣流布」について、まさに未来部世代からの問いに答える形で、次のように語られています。

 妙法を持(たも)つ人が、一人から二人になるのも広宣流布です。一万人が五万人になるのも広宣流布です。
 しかし、広宣流布とは数ではなく、「流れ」です。永遠に流れていくものです。ある時がきて、「これで、広宣流布が終わった」というものではない。それでは魂が消え、人間革命ができなくなってしまう。
 どこまでいっても広宣流布がある。「いつ、こうなったから広宣流布」というのは、譬(たと)えでは言えるものだが、決まった形のことではない。(『青春対話』)

「人間革命」と「広宣流布」の関係

――『青春対話』では、「人間革命」と「広宣流布」の関係を、「自転」と「公転」になぞらえて語られていました。

青山 「広宣流布」といっても、単に教勢が拡大していくという〝数〟の話ではないわけです。どこまでいっても、1人1人の「人間革命」が基軸となる。
 先生はわかりやすく「病気の人が健康になるのは、すごい人間革命です。意地の悪い人が、人に親切にするのも人間革命。親不孝の人が、親孝行になるのも人間革命です」と語られました。

「人間革命」といっても、何か特定の姿が決まっているわけではない。この仏法を実践していくことで、1人1人が少しでも強く、賢く、善く、変化していくことです。
 だから「人間革命」も「広宣流布」と同じく「流れのようなもの」だと先生は語られています。

 当然、人が生きていく上でも、さまざまな変化があり試練もある。社会も同じように、さまざまな変化があります。その常に変転する多様な関係性のなかで、ときには一進一退しながらも、忍耐強く試練に打ち勝ち、より善い方向へと挑戦し続けていくわけですね。

――「流れ」といっても、勝手に流れていくような、のんびりしたものではないということですね。

青山 この「広宣流布とは流れ」ということを明快に示されたのは、1970年5月3日の本部総会での講演でした。
 当時、学会は2年後の1972年10月の正本堂の完成をめざして前進していました。日蓮正宗は正本堂を「戒壇の建立」と位置付けて建設資金の供養を集めていました。供養のおよそ98%は創価学会によるものです。

 その正本堂の建設が進むなか、会員のなかには、その建立を達成すれば、時代も社会も一変するかのように考えている人も少なくなかったのです。
 池田先生は講演で、

 広宣流布とは決してゴールではありません。何か特別な終着点のように考えるのは、仏法の根本義からしても、正しくないと思います。大聖人の仏法は本因妙の仏法であり、常に未来に広がっていく正法であります。
 また、日蓮大聖人が『末法万年尽未来際』と叫ばれたこと自体、広宣流布の流れは、悠久にして、とどまるところがないことを示されたものといえます。広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、社会への脈動なのであります。(『新・人間革命』第14巻)

と語られました。
 そして、まさに1972年5月のトインビー博士との対談を皮切りに、ご自身が先頭に立って、むしろここから世界の知性との対話を精力的に展開していかれるのです。

前進するための「化城」が必要

――この「広宣流布は流れそれ自体」ということと、先ほど言われた「未来へのビジョンが大切」という話は、どう結びつくのですか。

青山 広宣流布といっても、何か特定の到達点を指すのではなく、万年までの歩みそのものです。しかし、だからこそ、さしあたって私たちはどのような社会をめざしていくのか。
 その〝今とは違う次の社会像〟をある程度クリアにし、共有していくことで、やはり新しい活力や智慧は出てくるのではないでしょうか。
 それがないと、腰を据えた展望が描けなくなります。

 法華経「化城喩品」に「化城宝処の譬」がありますね。宝処をめざして砂漠を行く隊商が疲れ果ててしまったときに、導師が神通力によって次の目標となる化城を作り出します。
 池田先生は『法華経の智慧』のなかで、「広宣流布とは流れそれ自体」にも関連して、

 前進するためには、目標という「化城」を設定しなければならない。しかし、その「化城」に向かっての前進、行動は、深く見れば、それ自体、仏の所作なのです。その舞台が、すでに「宝処」なのです。(普及版『法華経の智慧』上)

と語っています。

――幾世代、幾十、幾百世代にもわたっての広布の旅路だからこそ、どのような未来像をめざすのかが不可欠になってくるわけですね。

青山 もちろん、こうしたことは根本的には、教団としての創価学会が各国のリーダーで協議して決めていくことでしょう。
 それを前提としたうえで、とりわけ若い皆さん自身が、日ごろから主体的に考え、自由闊達に議論していっていただくことも大事だと思うのです。

 日本の総人口は2005年に初めて前年を下回ったあと、2008年をピークに減少に転じています。世界全体の人口も、今世紀の後半にピークを迎えたあと減少に転じると予測されています。
 30年前の1995年には約25%だった日本の単身世帯の割合も、2020年の国勢調査では38%を超えました。国立社会保障・人口問題研究所は、2050年には全世帯に占める単身世帯の割合が44・3%に達すると予測しています。

――約半数が周囲との接点に乏しい単身世帯になってしまうのですね。

青山 少子化の影響はあらゆるところに顕著で、たとえば東京や大阪の美容室なども、全国各地の専門学校にリクルートに出かけないと、今や新入社員を確保できないようです。
 日本は、外国人労働者がいないと機能しない社会になりつつあります。
 地方では人口減少が進んで、公共交通や道路整備、上下水道などの生活インフラが維持できなくなる自治体が急増していくと予測されています。

 じつは高度経済成長期が終わった1970年代以降、日本の新宗教は総じて縮小傾向に向かっています。さまざまな要因があるとされていますが、大きな要因として指摘されているのが「女性を取り巻く環境」の変化です。
 独身女性やシングルマザー、共働き世帯の女性が増え、どの教団も女性の会合参加や布教活動へのコミットが難しくなったことが、宗教社会学者の研究などからも指摘されています。

――少子化による若者減少、高齢化、勤労女性の増加、単身世帯の増加はますます加速していくわけで、あらゆる組織形態や社会構造が、もはや20世紀型のモデルでは立ち行かない時代になりつつありますね。

「法華経の行者」を尊敬する社会

青山 そうした時代にあって、たとえば10年後、20年後、30年後、わが地域がどのようになっていけばいいのか。社会のなかで、創価学会がどのような存在になっていけばいいのか。
 むろん、「広宣流布は流れそれ自体」であることは当然として、一方でめざすべき社会の姿、学会の姿を考えることも必要ではないかと思うのです。

 私は、一次元から見た広宣流布の姿というのは、「法華経の行者を尊敬する社会」の実現ではないかと思ってきました。
「法華経の行者」とは、もちろん一義には日蓮大聖人のことです。同時に死身弘法の精神で大聖人に連なる者も「法華経の行者」です。
 熱原の法難で、大聖人と会ったことがない庶民の弟子のなかにまで、大聖人に連なる「法華経の行者」が誕生したことで、民衆仏法の基盤が完成したのです。

 戦時中、日蓮正宗は軍部に不都合な御書を削除し、神札を受けて弾圧を逃れようとした。牧口先生と戸田先生は、「今こそ国家諫行のとき」と立ち上がられて、逮捕・投獄され、牧口先生は獄死しました。
 死身弘法の「法華経の行者」である創価の師弟がいなければ、日蓮大聖人の仏法は絶えていたのです。

 戸田先生は、師である牧口先生を宣揚するため、先生の十回忌となる1953年に『価値論』を再刊し、約50カ国422の大学・研究機関へ送付されました。

――50年後の2003年、オックスフォード大学のボドリーアン図書館に、この『価値論』が所蔵されていることが確認されたと『聖教新聞』でも報じられていました。

青山 池田先生も生涯をかけて、ただただ先師と恩師を宣揚することに尽くしてこられました。
 牧口先生・戸田先生の人間像、人格や行動が鮮明になったからこそ、創価学会は世界から信頼を得てきたし、創価教育も世界に広がる普遍性を持てたのだと思います。

 同時に、池田先生の闘争によって、世界が「池田大作」を尊敬する時代が現出しました。宗教を越えて、たとえばキング牧師の弟子やガンジーの弟子たちが、「私は池田先生の弟子である」と公言して、世界中に池田先生を宣揚する活動に取り組んでいます。

 中東のドバイでは毎年、著名なコーラン研究家であり詩人・翻訳家であるシハブ・ガネム博士を中心に、湾岸SGI主催の「詩人の集い」が開催されています。これは池田先生の詩に共鳴する世界の詩人や識者、青年が自作の詩を披露する催しです。
 ガネム博士にお目にかかったことがありますが、コーラン研究の権威だからこそ、博士には誰よりも池田先生の詩の偉大さがわかるのだと感じました。

 中国では40を超す名門大学や学術機関に公式の池田思想研究拠点があり、日中関係が悪化した時期でさえ、盛大な学術シンポジウムが続けられてきました。
 池田思想を研究する機関は、インドやヨーロッパにも広がっています。

――なにより、池田先生には生前、409の名誉学術称号が世界の大学・学術機関から贈られています。

学会と宗門の正邪を分かつもの

青山 法華経の精神を体現する人間像としての「法華経の行者」とは、同時に宗派性を乗り越えた、万人にとっての理想の人格である。そのことを、池田先生は身をもって体現してこられたと思います。
 それは「差異にとらわれない人」であり、「すべてを生かす人」であり、「万人を尊敬する人」です。目の前の1人を「励まし続ける人」であり、どのような状況にあっても悲観せず、「強靭な楽観主義で活路を開こうとする人」です。

 池田先生は人生の大半において、「公私」の「私」をほとんど持たない、非常に過酷な時間を過ごされてきました。言ってみれば365日24時間のすべてが衆人環視の生活であり、普通の人が味わうような自由気ままさも許されない。
 そのようにして自身の生涯を「公」のものとされることで、先生は現代社会に生きる「法華経の行者」としての人間像を、あえて後世のために残してくださったように私には思われてなりません。

 宗教としての創価学会の〝正しさ〟をいくら論じても、それだけではドグマ(独善・教条主義)になりかねない。他の宗教を持つ人にとっては、改宗しないかぎり、どこまでいっても自分とは異質な世界の話になるでしょう。
 しかし、そこに「人格」としての「法華経の行者」が伴うことで、その「人格」を通して、創価学会の運動の偉大さが普遍性を帯びて可視化されてくるのです。
 他の信仰を持つ人にとっても、創価学会は価値を共有し連帯できるものになり得るのです。

――事実、世界の知性たちは創価の三代の会長の姿を通して、学会に深く共感してきました。まさに、他の宗教の信仰を持つ識者たちが「私は池田先生の弟子だ」と公言されるゆえんですね。

青山 ご存じのように、1990年代に創価学会は日蓮正宗と決別し〝魂の独立〟を勝ち取りました。
 日蓮正宗にも御本尊はあるし一応は題目もある。では、学会と宗門の決定的な違いは何か。
 それは、大聖人に連なる「法華経の行者」としての三代会長、なかんずく仏教史上初めて世界広宣流布の大道を開かれた池田大作先生の存在だと私は思います。

 つまり、池田先生を師と仰ぎ、先生の人格を模範とし、先生と理想を分かち合い、先生の思い描かれた世界の実現に向かって進むという一点が、学会と宗門の正邪を分かつものだと思うのです。

 ここから考えれば、広宣流布の眼目もまた、池田先生を正しく認識し、先生の人格・行動を範と仰ぎ、先生の理想に向かって共に歩む人を拡大していくことに尽きるのではないでしょうか。
 そして、ほかならぬ池田先生ご自身が、既に生前においてそのような世界を開いてくださっているのです。

「法華経の行者を尊敬する社会」の建設というのは、前進のための「化城」であると同時に、それ自体が広宣流布の究極でもあるのではないでしょうか。

会員を尊敬する「文化」を育む

――そう考えると、わが地域の広宣流布のビジョンも、一つの観点から方向性が明確になる気がしますね。

青山 学会は池田先生が会長に就任した1960年代に大きく発展しました。そこから60年経って、当時の青年世代が80代、90代を迎えています。
 急拡大した時期の分厚い層が高齢化しているわけですから、従来の運動量のシュリンク(縮小)が生じるのも当然です。また、社会の構造も変わってきています。
 広宣流布は「地涌の義」ですから、自然の変化に一喜一憂する必要はありません。

 大事なことは、いよいよここから本格的に、「法華経の行者を尊敬する社会」を築いていくことではないでしょうか。
 まず会内にあっても、今まで以上に、「法華経の行者」である学会員を尊敬していくこと。マニュアルや形式ではなく、そうした確固とした会内の「文化」を育んでいくことです。
 学会員の1人1人が「ここでは自分が尊重されている」と実感できる創価学会を作っていくことでしょう。

 そして、池田先生の人格・精神・行動に1人1人が連なっていく学会を、一段と築いていくこと。『人間革命』や『新・人間革命』の読了運動も、それを通して自分が何を発見していくのかが明確でないと、画竜点睛を欠きます。
 座談会や、各部の日常の活動のなかで、先生の息吹に触れていけるような、会合に来たときよりも帰るときのほうが、先生が身近になり、心が燃え上がるような活動でありたいですね。

 地域に学会理解を広げるといっても、その急所は「池田先生への正しい認識」を広げていくことに尽きると思います。
 先生を尊敬する人を、1人、また1人と、誠実なかかわりのなかから、わが地域社会に作っていくことです。

 これらはけっして個人崇拝などではありません。世界の最高峰の識者たちが共感した、「差異にとらわれない人」「すべてを生かす人」「万人を尊敬する人」「徹して励ます人」「楽観主義で活路を開く人」という、池田先生が体現した〝人間像〟への共感を社会に拡大していく挑戦です。

――学会員さんを尊敬することを「形式」ではなく、会内の「文化」として育んでいくというのは大切なことですね。

青山 会合に参加している人のなかにも、さまざまな困難と格闘している渦中の人もいるでしょう。池田先生は常に、サーチライトで照らすように、励ますべき相手を見つけられていました。
 座談会の担当幹部は、来ている1人1人に心を配っていただきたいし、それこそ終了後は、1人1人に声をかけて丁重に見送るくらいであってほしいですね。

 かつて私が、会館に勤務している先輩幹部を訪ねて行ったときのことです。勤務時間中であり、親しい間柄だったこともあったのか、その先輩はサンダル履きで応接コーナーに出てきました。
 すると、通りがかりにそれを見た壮年の幹部が、厳しくその人に注意をされたのです。「仏子を仏の如く立って出迎えよ」というのが〝最上第一の相伝〟なのに、君はそれでいいのか? と。

――会員を尊敬することと、池田先生の思想と行動を学んでいくことと、池田先生を尊敬する社会を築いていくことは、すべて地続きのもののように思えてきました。

青山 もちろん、地域によって環境も課題も千差万別です。そのうえで、10年先、20年先、30年先、わが地域をどのように変えていくのか。池田先生を正しく評価し尊敬する社会を、どのようにわが地域に打ち立てていくのか。
 そうしたビジョンを明確にしていくことが、今こそ求められているように思います。
 このビジョンについては、さらに語り合っていきましょう。

連載「広布の未来図」を考える:
 第1回 AIの発達と信仰
 第2回 公権力と信仰の関係
 第3回 宗教を判断する尺度
 第4回 宗教者の政治参加
 第5回 「カルト化」の罠とは
 第6回 三代会長への共感
 第7回 宗教間対話の重要性

特集 世界はなぜ「池田大作」を評価するのか:
 第1回 逝去と創価学会の今後
 第2回 世界宗教の要件を整える
 第3回 民主主義に果たした役割
 第4回 「言葉の力」と開かれた精神
 第5回 ヨーロッパ社会からの信頼
 第6回 核廃絶へ世界世論の形成
 第7回 「創価一貫教育」の実現
 第8回 世界市民を育む美術館
 第9回 音楽芸術への比類なき貢献

「池田大作」を知るための書籍・20タイトル:
 20タイトル(上) まずは会長自身の著作から
 20タイトル(下) 対談集・評伝・そのほか

三代会長が開いた世界宗教への道(全5回):
 第1回 日蓮仏法の精神を受け継ぐ
 第2回 嵐のなかで世界への対話を開始
 第3回 第1次宗門事件の謀略
 第4回 法主が主導した第2次宗門事件
 第5回 世界宗教へと飛翔する創価学会

「政教分離」「政教一致批判」関連:
公明党と「政教分離」――〝憲法違反〟と考えている人へ
「政治と宗教」危うい言説――立憲主義とは何か
「政教分離」の正しい理解なくしては、人権社会の成熟もない(弁護士 竹内重年)
今こそ問われる 政教分離の本来のあり方(京都大学名誉教授 大石眞)
宗教への偏狭な制約は、憲法の趣旨に合致せず(政治評論家 森田実)

旧統一教会問題を考える(上)――ミスリードしてはならない
旧統一教会問題を考える(下)――党利党略に利用する人々

「フランスのセクト対策とは」:
フランスのセクト対策とは(上)――創価学会をめぐる「報告書」
フランスのセクト対策とは(中)――首相通達で廃止されたリスト
フランスのセクト対策とは(下)――ヨーロッパでの創価学会の評価

仏『ル・モンド』の月刊誌がフランスの創価学会のルポを掲載――その意義と背景


あおやま・しげと●著書に『宗教はだれのものか』(2002年/鳳書院)、『新装改訂版 宗教はだれのものか』(2006年/鳳書院)、『最新版 宗教はだれのものか 世界広布新時代への飛翔』(2015年/鳳書院)、『新版 宗教はだれのものか 三代会長が開いた世界宗教への道』(2022年/鳳書院)など。WEB第三文明にコラム執筆多数。