連載「広布の未来図」を考える――第7回 宗教間対話の重要性

ライター
青山樹人

諸宗教との対話は不可欠

――前回(第6回)は、広宣流布の運動を推進していく上で「私たちはどのような社会をめざしていくのか」という具体的なビジョンが必要ではないかという話でした。引き続き、このテーマを考えていきたいと思います。

青山樹人 前回、広宣流布といっても、他の宗教を淘汰して一色に染めていくようなものではないということを、池田先生の著作をもとに確認し合いました。
 この他宗教との関係について、もう少し考えていきたいと思います。あくまで頭の体操と思って、ひとつの思索の参考に聞いてください。

 この4月にローマ・カトリックの教皇フランシスコが逝去され、5月に新しく教皇レオ14世が選出されましたね。
 教皇は12億人とも13億人とも言われる信徒を擁するローマ・カトリック教会の最高位の司教であり、同時にバチカン市国の国家元首でもあります。

 じつは1967(昭和42)年からバチカンの関係者と池田先生とのあいだでは交流が始まっていました。『新・人間革命』には、

 彼は、世界の平和をめざすうえで、キリスト教との対話は、極めて重要であると考えていた。教義は異なっていても対話していくならば、人間を守り、平和を築くということにおいては、互いに理解し合い、協調し合えるというのが伸一の確信であった。
 また、キリスト教に限らず、イスラム教とも、ユダヤ教とも、ヒンズー教等とも対話を重ねていかなければ、世界平和の大潮流をつくることはできないと、彼は痛感していた。(『新・人間革命』第21巻「共鳴音」)

と綴られています。
 ここに、「世界平和をめざすうえで諸宗教との対話は不可欠」という、池田先生の信念が示されています。

 8年におよぶ交流を経るなかで、バチカン側から教皇との会見を勧められ、正式な招待を受けて、1975年の欧州訪問の際にローマで会見することが決まっていました。
 この年の1月にはSGI(創価学会インタナショナル)が結成されています。

――ところが、出発直前になって日蓮正宗の宗門が会見に難色を示したのでしたね。

青山 宗門の出家たちは、教養もなければ世界情勢にも関心がない。なによりも、世界広宣流布などまったく真剣に考えてもいなかった。他の宗教宗派はすべて〝邪宗教〟というのが日蓮正宗の考え方でした。

 1972年に総本山に正本堂が落慶した折も、まだ御本尊も安置していない10月1日の完工式に、在外公館の来賓としてバチカン市国の駐日大使が参列したことにさえ、宗門は難癖をつけていたくらいです。
 結局、宗門の反対で、この1975年の教皇との会見は断念せざるを得ませんでした。

 2023年の池田先生の逝去の際には、教皇フランシスコからイタリア創価学会を通じて弔意が寄せられました。
 そのなかで教皇は「池田氏がその長いご生涯において成し遂げられた善、とりわけ、平和、そして宗教間対話の促進に尽力されたことを、感謝とともに記憶にとどめております」と述べています。

 昨年(2024年)5月に原田会長がバチカンを訪問し、教皇フランシスコと30分にわたって単独会見しました。池田先生の遺志を体現した、〝50年越し〟の会見が実現したわけです。
 本年5月18日の新教皇レオ14世の就任式典には、各国の王室や首脳たちが招待され、イタリア創価学会のアプレア会長も招待されています。
 アプレア会長は翌19日には諸宗教代表の一員として教皇と謁見し、原田会長からの祝意を伝えています。

他の宗教的伝統や哲学を尊重する

――偏狭な宗門と離れて本当によかったと思います。その意味では、1990年代に入って宗門が学会から離れていったことで、世界も安心して創価学会と付き合えるようになったのではないでしょうか。

青山 1995年に制定された「SGI憲章」では、

SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく。(「SGI憲章」)

と明確に謳っています。2021年には、これを発展的に改訂した「創価学会社会憲章」が各国の合意で制定され、そこでも、

創価学会は、仏法の寛容の精神に基づき、他の宗教的伝統や哲学を尊重して、人類が直面する根本的な課題の解決について対話し、協力していく。(「創価学会社会憲章」

と定めています。

 事実、とくにこの1990年代以降、池田先生は世界のさまざまな異なる思想・宗教を代表するような知性たちと、友情を深め対話を重ねていかれます。
 対談集を編んだなかから代表的な人物を思いつくだけでも挙げてみますと、イスラム世界ではトルコ出身でハーバード大学の文化人類学者ヌール・ヤーマン博士、イラン出身の平和学者マジッド・テヘラニアン博士、インドネシアのアブドゥルラフマン・ワヒド元大統領。

 ヒンズーでは80年代から交流を重ねてきたカラン・シン博士をはじめ、世界法律家協会のベッド・P・ナンダ名誉会長、国立ガンジー記念館館長だったニーラカンタ・ラダクリシュナン博士。
 儒教文明を代表する知性であるハーバード大学燕京研究所長のドゥ・ウェイミン博士。

 キリスト教世界では、ハーバード大学の応用神学部長などを歴任したハービー・コックス博士、モアハウス大学キング国際チャペルのローレンス・E・カーター所長、チリ共和国のキリスト教民主党創設者の1人であったパトリシオ・エイルウィン元大統領、ノーベル平和賞を受賞した人権活動家A・ペレス・エスキベル博士。

 さらには無神論者として生きてきたモスクワ大学のアナトーリ・A・ログノフ前総長や、現総長で世界的な数学者であるヴィクトル・A・サドーヴニチィ博士、中国の「国学大師」と尊敬される季羨林氏(北京大学終身教授)などとも深い親交を重ね対談集を編んでいます。

――どの人物も現代世界の最高峰の知性であり、それぞれの思想・宗教文明を代表するような方々です。そういった方たちと、これだけ幅広く、仏法者である池田先生が対話を重ねられたこと自体に、あらためて驚きを禁じえません。

青山 こうした友情と対話の記録そのものが、「差異にとらわれない人」としての池田先生の開かれた精神を示すものです。
 先生はいずれの対談でも、まず相手の個人史に触れ、それを読者と共有しようとされます。肩書や地位ではなく、1人の人間としてのその人を知ることから始めるのです。

 両親の話、青少年時代の苦闘の話、相手によっては戦争体験など、その人の精神の基盤となっているものに光を当てる。
 相手も、先生の個人史に触れてくる。こうして、互いに〝同じ人間〟としての共通項や共鳴し合う部分を確認し合っていくのです。
 異なる思想・宗教であっても、〝同じ人間〟なんだということを、先生は読む人にも伝えようとされてきました。

相手を尊敬し〝対等〟に語り合う

――こうした姿勢というのは、私たちのふだんの公私にわたる他者との対話、あるいは部員さんとの対話でも大切なことかもしれませんね。

青山 もちろん、人によっては自分のプライベートなことに、初対面の相手から無遠慮に触れてほしくないという場合もあるでしょう。とくにパートナーの有無などをいきなり尋ねたりするのは、今の社会ではハラスメントになりかねません。
 一方で、自分のことにまったく関心を示さないような相手に、親近感や信頼感を抱けるかといえば、それも難しいと思います。

 そして、先生の対話は、社会や世界が直面している課題について、相手に意見を求め、相手の言葉に耳を傾けていきます。
 先生と対話したどの識者たちも口をそろえて称賛するのは、この池田先生の「相手から学ぼうとする姿勢」です。
 上から目線で、相手に教えてやろうとか、マウントをとりにいくような傲慢さが微塵もない。かと言って、何か下手(したて)に出るような卑屈さもない。

 日本社会では、ともすれば「年功序列」の古い意識にとらわれて、相手が年少だというだけで偉そうな物言いをしたり、立場や肩書で傲慢に振舞ったり卑屈になったりということがあります。
 立場や年齢を踏まえた文化的なプロトコル(約束事)として、相手への「敬意」の表現というものは必要ですが、基本的に人と人とは正しい意味で〝対等〟なのです。

 池田先生は、一国の指導者と接するときも、道端で出会った近所の老人と会話するときも、幼い子供と会うときも、ある意味で変わらない。
 もちろん、言葉遣いは変えたとしても、相手を尊敬する点でも、対等に語り合う点でも、先生は誰に対しても基本的に同じなのです。

――どの対談集を読んでいても気づいたことなのですが、先生は異なる信仰を持った相手と宗教について語り合う際でも、けっして「仏法のほうが正しいのだ」というような独善的な態度をとりませんね。

青山 まず大原則として、相手の信仰への「敬意」があります。むしろ、長い歴史を生き抜いて広がってきた宗教からは、学ぼうとされる。
 そのうえで、「仏法では、このように考えます」というふうに、仏法の生命観や人間観を語られる。あるときは「南無妙法蓮華経」の意味について語り、牧口先生、戸田先生の生き方を紹介しながら、創価学会の真実を伝えていく。

 それぞれの宗教は、各国の歴史のなかで重要な役割を果たしてきたという事実があります。文化の土壌となり、社会の規範を生み出し、家族や共同体を結びつけるものでもある。
 また、人々の内心においても大切なものであることに変わりはありません。
 創価学会社会憲章にある「仏法の寛容の精神に基づき、他の宗教的伝統や哲学を尊重して」は、まさに池田先生が示してこられた姿勢そのものなのです。

 とはいえ、議論を曖昧にするということではありません。見解の相違についても、先生は率直に語ります。
 トインビー博士との対話で、博士が日本の神道について「自然に対する融和性」があると評価をした際、先生は「私は異なる意見をもっています」と前置きして、次のように語っています。

 神道は、たしかに、自然のあらゆる存在に尊厳性を認める思考から生まれた宗教です。しかし、なにゆえに尊厳であるのかということになると、神道はそれを裏づける哲学的体系に欠けています。その根底にあるものは、祖先が慣れ親しんできた自然への愛着心です。これは祖先を媒体とした自然崇拝といえるでしょう。したがって、神道にはきわめてナショナリスティックな一面があるわけです。そして、この神道イデオロギーの端的なあらわれが、いわゆる神国思想なるものでした。(中略)その裏面に、他民族に対する閉鎖性や排他性をもっているわけです。(『二十一世紀への対話 下』聖教ワイド文庫)

 神道のナショナリズム、閉鎖性や排他性が、あの日本の侵略戦争を肯定し遂行する原動力になっていたからこそ、その点を厳しく指摘されたのでしょう。
 トインビー博士は先生の指摘で神道の抱えるネガティブな点について理解し、見解を修正されます。

宗教間対話は「宗教者の社会的使命」

――他宗教の伝統や哲学を尊重し、対話、友情を重んじていくということの大切さはよくわかります。一方で、それは他宗教との「妥協」になるのではないかという不安を抱えている人もいるように思います。

青山 これについては、池田先生が明確に示してくださっています。『新・人間革命』第5巻の「歓喜」の章には、1961年10月の先生のヨーロッパ訪問の折の模様がつづられています。
 折しも、先生一行がバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂を見学した直後の語らいの場面です。

 学会草創からの古参の牧口門下であった十条潔が、「海外にあっても、まず教えの正邪を明らかにし、仏法を受け入れない場合は、既に謗法ですから、厳しく糾弾していくわけにはいかないのでしょうか」と先生に質問します。
 先生はそれに対し、

十条さんのような考えでは自己満足に終わり、友情も壊れ、反目し合うことになる。それは勇ましいように聞こえるが、結局は、現実から逃げていることではないだろうか。
 複雑な現実の世界のなかで、人類の融合をめざしていくには、粘り強く対話を重ね、人間として、深い友情を育んでいく以外にない。宗教で人を裁断するという発想は改めなければならないと、私は思う。(『新・人間革命』第5巻「歓喜」)

と語ります。
 そして、山本伸一の胸中を次のように綴っています。

 戦時中、一国を狂わせ、初代会長牧口常三郎を死に至らしめ、民衆に塗炭の苦しみをなめさせた根本の原因は宗教にあった。だから学会は、戦後、そうした宗教の誤りを正すことを、第一義としてきた。それは、当然、大事な精神ではあるが、未来を展望する時、それのみが、仏法の在り方のすべてであるかのように思い、宗教者の社会的使命に眼を閉ざした幹部の思考に、彼は一抹の不安を感じた。(同)

 ここで、池田先生が強調されていることは、「現実世界への責任」であり「宗教者の社会的使命」です。
 世界にはさまざまな宗教が長い歴史を経て文化、社会、人々の暮らしに根付いています。その現実の世界のなかで、対話を通して「人類の融合」をめざしていくことが「仏法者の社会的使命」なのです。

 仏法を信じないことをただちに「謗法」と断じ、他者の信じる異なる宗教を糾弾していくことは、「結局は、現実から逃げていること」だと先生は指摘していますね。
 大事なことは、現実世界のなかで対立を対話へと転換し、「人類の融合」を実現していくことなのです。

 他の宗教は謗法であるからといって、対話もしないのは臆病だからです。
 宗教的な信条や信念は異なっていたとしても、まことの宗教者ならば、世界の平和を願い、人類の幸福の実現を、真摯に考えているものです。私は、その心が、既に仏法に通ずると思っている。その善なる心を引き出し、人間としての共通項に立って、平和のため、幸福のために、それぞれの立場で貢献していくことです(同)

偏狭な宗派主義であってはならない

――この『新・人間革命』第5巻の「歓喜」の章が新聞連載されたのは、1996年のことですね。ちょうど「SGI憲章」が制定された翌年です。
 ところで、キリスト教やイスラム教など海外の異なる宗教との対話については理解できました。では、日本国内での他宗派・他教団とのかかわりをどう考えるべきでしょうか。
 日蓮大聖人は、仏法を知らない国では、相手の考えを容認しながら正法に誘引する「摂受」を表にする一方で、日本のように仏法が広まっていながら正法が破壊されている邪智・謗法の国においては、あくまで「折伏」を前面にと言われていますが。

青山 このことについても、池田先生は「歓喜」の章のなかで記されています。
 まず先生は、

大聖人が、折伏を展開された背景には、当時の時代状況があったことを、忘れてはならない(同)

と語られています。
 日蓮大聖人が出現された当時の日本では、法然の専修念仏をはじめ、諸宗が隆盛していました。鎌倉幕府の権力者たちも、こぞって諸宗に帰依し、莫大な供養をして庇護していた。
 たとえば大聖人をもっとも迫害した忍性(良観)がいた当時の極楽寺は、現在の何十倍もの寺域を有し、奈良の諸大寺をコピーしたテーマパークのような威容を誇っていました。

 法然は浄土三部経以外の経典は捨てよと主張していたし、禅宗も「教外別伝・不立文字」として諸経典による仏法の法体系を否定していました。
 むしろ、こうした諸宗派の独善性や排他主義に対して、大聖人は真実の仏法が滅びてしまわないよう、言論によって何が仏法の真髄の教えであるのかを明らかにされようとしたのです。

 また、学会が急拡大した1950年代から60年代は、今よりもはるかに強い力で、人々が〝家の宗旨〟に縛られていました。
 江戸時代の檀家制度以来、どの家もいずれかの寺院に属することを強制されてきました。その家に生まれた人間、嫁いだ人間は、その家が宗旨とする宗派に帰属させられてきたのです。

 こうした〝家の宗旨〟の呪縛がまだ強かった昭和の時代には、自分が「家の宗旨」から改宗することに抵抗を覚える人が多かった。
 その呪縛から解放していくうえでも「四箇の格言」(念仏無限・禅天魔・律国賊・真言亡国)のような切り口で、宗教の〝正邪〟〝高低浅深〟を論じることが有効だったのだろうと思います。

 ただ、これはそもそも13世紀の日本の社会事情に即したものです。今や創価学会は日本社会で揺るぎない存在になり、世界宗教として発展しているわけです。
「謗法」とは「誹謗正法」のことです。日蓮仏法や創価学会を誹謗し、正法の実践を妨げてくるような存在のことです。

――公然と創価学会を中傷し、コソコソと学会員の家を狙ってくる日蓮正宗や顕正会のような存在こそが、まさに「謗法」ですね。そう考えると、他宗教・他宗派というだけで「謗法」と決めつけるような教条的な考え方は、もはや時代の実態に合わない気がします。

青山 学会に牙をむき、広宣流布の道を破壊しようとしてくるような勢力・言論に対しては、徹底して言論で責めていくべきでしょう。完膚なきまでに打ち破らないといけない。
 池田先生も、

相手が邪見に毒されて悪口している場合は、破折が表になるのは当然です。「破折」を忘れたら、大聖人の弟子ではない。悪への「破折」がなくなったら、創価学会の魂はありません。(『人間革命の実践 池田大作先生の指導選集[中]』)

と明言されています。「破邪顕正」も、まず「破邪」があってこそ「顕正」が可能になる。
 そのうえで、池田先生は「折伏」について、

折伏とは「真実を語る」ことです。法華経は真実を説いているので「折伏の経典」と呼ばれる。末法においては、法華経の真髄である「南無妙法蓮華経」のすばらしさを語り、広げていく行動は、全部「折伏」です。(『普及版法華経の智慧(上)』)

だれもが大切にすべき普遍的な価値・正義を確立し、実現していくための戦いです。ゆえに、偏狭な宗派主義などでは決してない。また、そうなってはならない。(『人間革命の実践 池田大作先生の指導選集[中]』)

と明確に語られています。心を軽く、信心の喜びと確信について、一文一句でも「真実を語る」ことが、すべて折伏になっていくのです。

「創価学会社会憲章」で謳われている「創価学会は、仏法の寛容の精神に基づき、他の宗教的伝統や哲学を尊重して、人類が直面する根本的な課題の解決について対話し、協力していく」との原則は、日本を含めて世界共通の指針です。
 その意味では、一部の「謗法」の教団はともかく(笑)、日本にあっても他の宗教宗派への捉え方はもはやアップデートすべきでしょう。

 実際、他宗教・他宗派のなかにも、地域のこと、社会のこと、人類的課題などについて、真剣に取り組んでいる教団や宗教者は少なくありません。
 犯罪者や非行少年の更生を支える民間ボランティアの保護司には、仏教やキリスト教の聖職者も数多くいます。
 国内外で、難民支援やSDGsの推進に取り組んでいる教団もあります。

 そうした教団や宗教者のなかには、創価学会や公明党に対しても、あるいは池田先生に対しても、共感や信頼、尊敬の念を寄せておられる方々もいるのです。
 各地の創価学会でも、地域の実情に合わせて、誠実な交流を始めているところがあります。
 その結果、学会の会館でおこなわれた文化講演会に来賓として出席したり、池田先生の写真展の開幕式で、前市長らとともにテープカットを務めてくださった著名な寺院のトップもいるのです。

法華経の会座が物語るもの

――創価学会の青年リーダーと交流を重ねている他教団の青年リーダーもいるとうかがいました。

青山 素晴らしいことだと思います。冒頭でご紹介した池田先生とバチカンの交流が始まった1967年といえば、先生はまだ39歳です。今の青年部のリーダーたちの年齢です。

 国家と個人のあいだの「中間団体」が衰退している日本社会にあって、宗教団体は「中間団体」としても重要な役割を担っています。
 総じて社会の世俗化が進んで人々の宗教離れが加速しているからこそ、真剣に宗教者としての社会的使命を模索している宗教者も多いのです。
 宗派を越えて他宗派と連携し、地域再生の課題に取り組んでいる若手の宗教者もいます。

 池田先生が範を示されたように、まずはこちらが余計な心の垣根を取り払い、相手に対する敬意をもって、謙虚かつ誠実に交流していくことではないでしょうか。
 あたりまえのことですが、相手の教団の歴史くらいは勉強しておくべきです。逆の立場で、相手が牧口先生や戸田先生のことさえも知らなかったら、かえって不信感を抱きますよね。

 そもそも、私たちが根本としている法華経には、本来は他宗教の神々だったものが数多く取り込まれています。
 諸天善神の代表格である梵天・帝釈も、バラモン教のブラフマンやヴェーダ神話の雷神インドラです。日天も月天もインドの古代神が仏教に取り入れられたものです。

 仏教がガンジス流域からインド全域に広がり、さらにペルシャやギリシャの文化圏を通って「世界宗教」化していく過程で、諸民族の信仰を柔軟に包摂し、法華経など大乗経典のなかに位置付けていったのだと考えられています。
 観世音菩薩も、海上交通の発達に伴って信仰が広まった、航海の安穏を守る神イーシュバラが仏教に取り入れられたものです。

 法華経に説かれる「虚空会の儀式」には、ありとあらゆる菩薩や神々から魑魅魍魎の類まで、十界のすべての存在が集まってきます。そのなかで「久遠の仏」が明かされ、その仏を成仏せしめた「久遠の法」が示唆されるのです。

――私たちが拝する御本尊は、その虚空会の姿を借りて図顕されたもので、その相貌にはやはり多様な諸尊が入っていますね。

青山 御本尊の相貌のなかで、それこそ〝オリジナル〟の仏教メンバーは最上段の釈迦・多宝と、地涌の菩薩の上首である四菩薩くらいでしょう。あとの過半数は、もともとは仏教以外の神々だった存在です。
 一次元から考察すれば、御本尊そのものが、多様な宗教が、その差異を越えて「南無妙法蓮華経 日蓮」に照らされ、十界個々の姿のままで調和し、衆生を守る働きになっている世界なのです。

 あらゆる宗教が「人間のための宗教」という理念に目覚め、平和のため、人道のために力を発揮していく時代。
 宗教宗派の差異を越えて、他宗の指導者たちが池田先生の思想と行動に共感を寄せ、先生を範として、「人類のために」創価学会と手を携えていこうとする社会。
 私は、御本尊を拝するたびに、そこに目指すべき広宣流布の一つの理想像を見る思いさえしているのです。

 人間にいかに希望を与えるか、人生にいかに意味を与えるか。――ここに、全ての宗教の本来の使命があるはずだ。人間の安心立命、民衆の幸福と平和こそ、本来、あらゆる宗教の目指すものである。その意味で、全ての宗教は「人間のための宗教」を根本的に目指しているはずだ。
 この共通点を深く自覚していくことこそ、グローバル化と言われる現代世界における宗教の要件であると、私は確信する。文明的な課題と言われる宗教間の対話を進めていく基盤もここにある。(『スペイン語版御書』「序文」/『人間革命の実践 池田大作先生の指導選集[中]』P219)

 池田先生のこの宣言は、既にこれ自体が人々の目を覚ましていく「折伏」です。

――宗教間対話は、むしろ海外の創価学会のほうが「一日の長」がありますね。

青山 日本においても、まず私たち自身が発想を改めて、「人間の安心立命」「民衆の幸福と平和」のために、あらゆるレベルで宗教間対話を進めていくべきではないでしょうか。
 広々とした心で、池田先生の弟子らしく、どこまでも謙虚に、誠実に、信義と友情を交わしていきたいと思うのです。

連載「広布の未来図」を考える:
 第1回 AIの発達と信仰
 第2回 公権力と信仰の関係
 第3回 宗教を判断する尺度
 第4回 宗教者の政治参加
 第5回 「カルト化」の罠とは
 第6回 三代会長への共感
 第7回 宗教間対話の重要性

特集 世界はなぜ「池田大作」を評価するのか:
 第1回 逝去と創価学会の今後
 第2回 世界宗教の要件を整える
 第3回 民主主義に果たした役割
 第4回 「言葉の力」と開かれた精神
 第5回 ヨーロッパ社会からの信頼
 第6回 核廃絶へ世界世論の形成
 第7回 「創価一貫教育」の実現
 第8回 世界市民を育む美術館
 第9回 音楽芸術への比類なき貢献

「池田大作」を知るための書籍・20タイトル:
 20タイトル(上) まずは会長自身の著作から
 20タイトル(下) 対談集・評伝・そのほか

三代会長が開いた世界宗教への道(全5回):
 第1回 日蓮仏法の精神を受け継ぐ
 第2回 嵐のなかで世界への対話を開始
 第3回 第1次宗門事件の謀略
 第4回 法主が主導した第2次宗門事件
 第5回 世界宗教へと飛翔する創価学会

「政教分離」「政教一致批判」関連:
公明党と「政教分離」――〝憲法違反〟と考えている人へ
「政治と宗教」危うい言説――立憲主義とは何か
「政教分離」の正しい理解なくしては、人権社会の成熟もない(弁護士 竹内重年)
今こそ問われる 政教分離の本来のあり方(京都大学名誉教授 大石眞)
宗教への偏狭な制約は、憲法の趣旨に合致せず(政治評論家 森田実)

旧統一教会問題を考える(上)――ミスリードしてはならない
旧統一教会問題を考える(下)――党利党略に利用する人々

「フランスのセクト対策とは」:
フランスのセクト対策とは(上)――創価学会をめぐる「報告書」
フランスのセクト対策とは(中)――首相通達で廃止されたリスト
フランスのセクト対策とは(下)――ヨーロッパでの創価学会の評価

仏『ル・モンド』の月刊誌がフランスの創価学会のルポを掲載――その意義と背景


あおやま・しげと●著書に『宗教はだれのものか』(2002年/鳳書院)、『新装改訂版 宗教はだれのものか』(2006年/鳳書院)、『最新版 宗教はだれのものか 世界広布新時代への飛翔』(2015年/鳳書院)、『新版 宗教はだれのものか 三代会長が開いた世界宗教への道』(2022年/鳳書院)など。WEB第三文明にコラム執筆多数。