『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第108回 正修止観章 68

[3]「2. 広く解す」 66

(10)煩悩境③

 (2)別釈③

 ④「止観を修するを明かす」(1)

 この段は、「正しく十乗を明かす」と「異名を会す」に分かれる。前者はさらに「観不思議境」と「後の九乗を明かす」、「挙喩結示」の三段に分かれる。後者はさらに「煩悩即涅槃の三十六句」、「諸法般若の三十六句」、「四身の三十六句」の三段に分かれる。順に紹介する。

 (1)「正しく十乗を明かす」

 この段では、煩悩境に対する十乗観法について説明している。すでに述べたように、これを第一の観不可思議境と他の九乗の観法に分けている。さらに第一の観不思議境について説明するにあたっては、第一の陰入界境に対するときと同じように、まず思議境について説明し、その後、不思議境について説明している。
 思議境とは、四分の煩悩から十界を生ずることである。『摩訶止観』では、貪欲から十界を生ずる様子が詳しく説かれ、他の瞋恚、愚癡、等分から十界が生じることについては説明が省略されている。
 たとえば、貪欲から地獄界を生ずることについては、次のように述べている。一念の欲覚(貪欲の心)が最初に生起することはとてもかすかであるけれども、すぐに遮り止めなければ、しだいに増大することになる。欲事(貪欲の事柄)のために貪欲に引かれて、非道なこと、ないし四重(殺生・偸盗・邪婬・妄語の四重罪)・五逆(母を殺す・父を殺す・阿羅漢を殺す・仏の身より血を出す・和合僧を破すこと)を犯すことまでを、煩悩が地獄界を生ずると名づける。また、欲は集(苦の原因である煩悩)であり、集はちょうど苦を招くと観察して、この苦・集を嫌悪して、出離しようとすることは、声聞界を生ずることとされる。さらに、菩薩界については、欲は六蔽であると観察して、慈悲を起こし、捨(執著を捨てること)を実践して、無常を恐れ、ないし欲は癡などであると観察する場合は、蔵教の菩薩界である。もし欲はもともと生起せず、今もまた留まらず、なおまた滅せず、欲は空であり、空は涅槃であると観察することは、通教の菩薩界である。さらにまた、欲心に無量の様相があり、集は一でない以上、執著もまた無量であると観察して、能力・欲望・性質はすべて欲心によって弁別して完備すると知ることは、別教の菩薩界であるとされる。
 次に、不思議境については、『諸法無行経』の「貪欲は道である。瞋恚・愚癡も同様である。このような三法のなかで、一切の仏法を備える」(※1)を引用して説明している。このような四分[の煩悩]は道であるけれども、もはやしたがうことはできず、もしこれにしたがえば、人を率いて悪道に向かわせることになる。もはや断ち切ることができず、もしこれを断ち切れば、増上慢となってしまう。癡・愛を断ち切らないで、諸の智慧・解脱を起こすことを、はじめて道と名づけると述べている。
 不調伏(衆生の機根をととのえ、悪行を抑制することをしないこと)に留まることは愚人の様相であり、調伏に留まることは声聞の法であるとされる。煩悩を断ち切らないで涅槃に入り、五欲を断ち切らないで六根を浄化する場合は、調伏にも留まらず、不調伏にも留まらないという菩薩の法であるとされる。
 以上のことを次のような興味深いたとえによって説明している。末代の愚人は、菴羅羅果(あんまらか。マンゴー)が甘く口に合うと聞いて、すぐにそのさね(仁を包んでいる堅い部分)を砕いてなめると、とても苦く、果実の種子の甘味はすべて失われる(※2)。智慧がないので、さねを刻むことがとても度を過ごしているのである。さらに、塩が料理を美味にすることを誤解して、塩を食らうことがとても度を過ごし、塩辛くて喉が渇き、病気となることにたとえている(※3)
 次に、智顗が北地の仏教者を厳しく批判する文章が述べられていて、興味深い。北方では不調伏に留まることと調伏に留まることという二つの過失を備えていると批判している。さらにまた、最初に中観を学んで、貪欲を断ち切る場合、利益を得ることができないが、心を放縦にして、調伏しない事柄を行ない、最初に一たび心を放縦にしたところ、わずかに小さな利益を得る。これに味をしめて、それ以後は常に放縦なこと行なって休まず、また利益がないけれども、放縦なことを行なって改めず、自己の以前の利益によって他者を教化して行なわせ、さらに放縦を肯定する経を引用して証拠とする。一方、教化を受ける人々は、ただ五欲の楽を貪って、わずかな道の利益もなく、大混乱となり酒色に耽り、とうとうそれが習俗となる。戒律を汚し辱め、三宝を侮り汚す事態になるのである。このことによって、北周王朝は仏法を滅亡させたと指摘している。
 次に、調伏と不調伏の立場を自在に活用することが示されているが、説明は省略する。また、喜根菩薩と勝意比丘のやり取りの逸話が紹介されている。『諸法無行経』巻下(大正15、759中4~761上23を参照。また『大智度論』巻第六にも引用されている[大正25、107中13~108上18八])に説かれる喜根菩薩と勝意菩薩の二菩薩のうちで、喜根菩薩は諸法実相を説き、勝意菩薩はそのような考えを誹謗して地獄に堕ちるというものである。
 この観不思議境の段の末尾には、闇と明るさの相即関係が示され、闇と明るさがたがいに妨げず、たがいに除かないこと、もし世智の灯火が消滅すれば、闇の惑はあらためて来ること、もし中道の智の光は常住であり動かなければ、神妙な珠が常に照らして、闇は来ないようなものであることが説かれ、煩悩の闇は大いなる智慧の明るさであると観察して、仏菩提をあらわせば、惑は来ないのであると述べている。
 次の段は「後の九乗を明かす」であり、煩悩境に対する第一の観不思議境以外の九乗の方法が示されているが、説明は省略する。
 次に、「挙喩結示」の段があり、一つの大車の高く広く、召使いがいてこれ(車)を護衛するものを得、この宝石で飾られた乗り物に乗って、まっすぐ覚りの場に至らせると述べている。(この項、つづく)

(注釈)
※1 『諸法無行経』巻下、「貪欲は是れ涅槃なり。恚・癡も亦た是の如し。此の如き三事の中に、無量の仏道有り。若し人有りて貪欲・瞋恚・癡を分別せば、是の人は仏を去ること遠し。譬えば天と地、菩提と貪欲は是れ一にして而も二に非ず、皆な一法門に入り、平等にして異なり有ること無きが如し」(大正15、759下13~19)を参照。
※2 これは、『南本涅槃経』巻第十、一切大衆所問品、「仏の言わく、善男子よ、汝は今、応に是の如き説を作すべからず。善男子よ、譬えば人有りて菴羅果を食し、核を吐いて地に置いて、復た念言すらく、是の果核の中に、応に甘味有るべし。即ち復還(ま)た取りて、破して之れを甞(な)む。其の味は極めて苦く、心に悔恨を生ず。果の種を失うを恐れて、即ち還た收拾す。之れを地に種え、勤加修治し、蘇油・乳を以て随時に溉灌す。意に於いて云何ん。寧(いずく)んぞ生ず可きや。不(いな)なり、世尊よ。仮使(たと)い天、無上の甘雨を降らすも、猶お亦た生ぜず」(大正12、667上21~28)に基づく。
※3 これは、『大智度論』巻第十八、「譬えば田舍の人の如きは、初め塩を識らず、貴人の塩を以て種種の肉菜の中に著(お)いて食するを見て、問いて言わく、何を以ての故に爾るや。語りて言わく、此の塩は能く諸物の味をして美ならしむるが故なり。此の人は便ち念ずらく、此の塩は能く諸物をして美ならしむれば、自味も必ず多からん、と。便ち空しく塩を抄(と)って、口に満たして之れを食するに、醎苦にして口を傷つく。而して問いて言わく、汝は何を以て塩は能く美を作すと言う。貴人の言わく、癡人よ、此れは当に多少を籌量して、之れに和して美ならしむ。云何んが純ら塩を食せんや」(大正25、194上18~24)、同、巻第五十九、「譬えば愚人は飲食の種具わるを識らず、塩は是れ衆味の主なりと聞いて、便ち純ら塩を食し、味を失い患を致すが如し」(同前、480下27~28)に基づく。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。2025年、第1回日本印度学仏教学会学術賞を受賞。