書評『読書と思索』――新装版となった半世紀前の名著

ライター
本房 歩

「人間が、すぐれて人間であること」

 田中美知太郎は、20世紀が始まった次の年、1902年(明治35年)の元旦に生まれ、昭和が60年の節目を迎えた1985年の暮れに没した。
 戦後日本におけるギリシア哲学の権威であり、とりわけソクラテスとプラトンの研究では、『ソクラテスの弁明』(1950年/岩波ギリシア・ラテン原典叢書)、『ソクラテス』(1957年/岩波書店)、『プラトン』全4巻(1979~1984年/岩波書店)など、記念碑的な著作を残している。
 著作の大半は西洋古典学・哲学に関するものであるが、社会批評や政治批評など領域は幅広く、没後に刊行された『田中美知太郎全集』(筑摩書房)は全26巻におよぶ。

 田中はまた、「人間が、すぐれて人間であること」という意味での「ヒューマニズム」を探求し続ける一方、保守派の論客としても知られ、福田恆存(ふくだ・つねあり)の呼びかけで1968年に設立された日本文化会議で終身理事長を務めた。
 本書『読書と思索』の底本は1972年に第三文明社から「レグルス文庫」の1冊として刊行されたもの。田中が雑誌等に執筆していた文章から、当時の編集者が「考えること」「読書」「教養」という3つのテーマに沿って選りすぐった。
 田中は1972年当時の「あとがき」に、

 この文集はこの文庫の編集者が選んでくれたものである。このように他人に選んでもらった文集というのは、これが最初ではない。これまでにも幾種類か出ている。わたしは何が選ばれるかということに、いつも少なからぬ興味をもつ。他人がわたしの書いた多くの文章のうちから、何を選び出すかということは、わたし自身をあらためて見直す機会にもなるからだ。編集者は若い人たちであり、若い読者のためにこの選択を行なうわけなのだろう。(本書「あとがき」)

と記している。
 そして「読書」「思索」「教養」が今では古い感じの言葉になってしまったのではないかと懐疑しつつ、〈しかし若い編集者が若い人たちのために、このような内容のものを集め、このような表題をつけてくれたのである〉と、率直な喜びを書いている。

 当時の第三文明社は、株式会社としては設立3年目の若い出版社であり(雑誌『第三文明』は1960年に創価学会学生部の有志により創刊)、1969年末に惹起したいわゆる「言論問題」で、まだ言論界の一部には創価学会への疑念や批判がくすぶっていた。

 そうした時期に、保守系の代表的な言論人でもあった田中が、あえて第三文明社から自著を刊行した。当時の状況を考えると、門を叩いた編集者もたいしたものだが、快く受けた田中もまた度量の大きな人であったと言わねばならない。
 それは〝若い編集者が若い人たちのために〟取り組もうとした姿に、何かしら深く心を動かされるものがあったからなのかもしれない。
 田中の「あとがき」には、そのような心持ちの一端が垣間見える気がするのである。

レグルス文庫の若き編集者たち

 没後40年を記念しての新装版である本書に「解説」を寄せたのは、東洋英和女学院大学元教授の三上章氏。ギリシア哲学、キリスト教学、西洋古典学を専門とする研究者であり、今は札幌にある日本バプテスト連盟・平岡ジョイフルチャペルの牧師でもある。

 三上氏の「解説」によれば、氏自身は田中と邂逅(かいこう)がないものの、氏の大学時代の恩師である加来彰俊氏は、田中のもとで大学時代から18年間学び続けた「直弟子」であったという。
 田中の大著『プラトン』全4巻は、緑内障を患っていた田中のために、加来氏が軽井沢にあった田中の別荘に泊まり込んで口述を筆記し、8年をかけて完成させた。また『田中美知太郎全集』全26巻の編集の筆頭も務めた。
 加来氏を通して常日頃から田中について教わっていた三上氏は、

 本書は、田中のヒューマニズム探求の結晶である。「考えること」「読書」「教養」という順序で、おおよそ配列されている。「考えること」が「読書」の前に置かれていることは、注目にあたいする。編集者によるこの選択は、「知恵への愛」(ピロソピア。哲学)に生きた田中にふさわしい。哲学の根幹は、考えることである。しかも、実用を離れて、自由に考えることである。それは田中にとってよろこびであった。(本書「解説」)

と綴っている。レグルス文庫の若き編集者たちは、田中美知太郎を正しく理解していたのである。

 実用を離れて、自由に考える――ある意味、これは「コスパ」「タイパ」が声高に語られる今日にあって、重要な指摘ではないか。
 本書の冒頭に収められた「考えることのよろこび」と題する文章で、田中はこう記している。

 実用から解放された知性が純粋な自己自身となって、自由に考えていく時に、かえって実在の純粋なすがたが見つけられるというのが、古来の純粋な学問に共通する確信であったということができるであろう。学問は一面において遊びの自由をもつと共に、他方ではいつも真実を明らかにする義務と責任とをもつものなのである。(1947年7月「考えることのよろこび」)

 田中が「考えること」において繰り返し強調するのは、「孤独な思いを大事にすること」と同時に、他者の介在、他者との対話、あるいは他者への配慮や想像力である。
 そして、「自分だけの孤独な思いを大切に」していくときに、その盲点を衝いてくるような他者の声が、強い違和感や不快感を伴ってあらわれてくることを語る。

 わたしたちは、自分だけの考えを大切にすると共に、また自分だけの思いにふけることをやめなければならない。そのためには、いつも疑問や抗議に対して、戸が開かれているような、話し合いの場をもたなければならない。それには、わたしたちだけでなく、もっと何か遠いところにいる者を、わたしたちの話し合いの聞き手に呼んでこなければならない。(1956年2月「自分の考えを大切にしよう」)

 今から70年近く前に綴られた田中のこの言葉は、否応なくSNSのエコーチェンバーの言論空間のなかに閉じ込められがちな今日のわれわれにも、十分な警句になっているように思われる。
 あるいは、根本的に異質な原理の宗教的理念やイデオロギーを持つ者同士、国同士が迫られるコミュニケーションにも、通じるものがあるのかもしれない。

「読書」に関する文章を中心に構成された第2章では、いくつかの〝名言〟ともいうべき田中の言葉が見出されて興味深い。ここに、その一部を抜粋しておく。

 書物は、少し無理をして買うくらいにしないと、なかなか買えないのではないか。(中略)お金ができてから買おうなどと思っていたら、まず買えないと思わなければならない。まず書物を買って、その後始末を何とかすればよいのである。(1953円5月「書物を買う」)

 本当の読書の楽しみというものは、自分自身がいっしょに考えたり、感動したりする、後味のよさにあると言ってもよいのではないか。しかし、そういう効果をもつ書物がいったいどれだけあるだろうか。よい書物にめぐりあうのは、ひとつの幸運であるとも言える。しかしそのような幸運をつかむためには、自らよく考えると共に、また多くの書物を読まねばなるまい。(「良書とのめぐりあい」)

教養とは「人間をつくるもの」

 第3章は「教養」をテーマに4編の文章から構成されている。
 私たちが生きていくうえにおいて、何が人間を完成させていくのか。そこには実生活における「世上の経験」や、国家社会から得られるものもあると田中は記す。
 あるいは、言葉を教え、社会生活に必要な各種の知識を授けてくれる教育も必要不可欠ではある。

 しかしわれわれは、これらの準備教育を、必要欠くべからざるものとして尊重するけれども、教養とは考えないのである。(1949年10月「教養について」)

 田中は〈教養は専門家をつくるものではなくて、一般的な意味における人間をつくるもの〉だと言う。そして、

 われわれはこれの核心を、過去の最高のレコードであるところの、古典のうちに求めなければならない。(同)

 そして今日においては、古典は更にギリシアにさかのぼって、ヨーロッパにおいて教養と呼ばれているものが、特に求められなければならないであろう。(同)

と記している。
 この文章が終戦後まもない時期に書かれたことは措くとしても、田中が言うのは人類の普遍的な叡智としての古典であって、彼にとってそれは古代ギリシアの古典であり、プラトンの著作であった。

「解説」のなかで三上章氏は、田中が言わんとした「教養」について、

 その内容はいわゆる自由学芸の教養である。その意味では、ギリシア語の「パイデイアー」(教養)に近い。それは、「すぐれた人をすぐれた人にするゆえんのもの」である。わが国はこの意味における教養をもっていないことを、記憶すべきだと田中は喚起した。(「解説」)

と書いている。
 本書の一番終わりに収録された「良識と常識」で、田中は次のように言う。

 良識というのは、この自由な心だとも考えられる。わたしたちは、私たちの心得を生かすためには、いつもいままでに教えられたものを、一歩ふみ出さなければならない。そういう前進は、狭小な目的意識に捉えられた人たちには、全く困難なことになる。しかし学問の進歩も、生活の向上も、このような前進なしには、不可能であると言わなければならない。そしてその前進には、自由な心を持たなければならない。(1956年8月「良識と常識」)

 田中の言う、この「一歩ふみ出す」力の源泉こそ、あるいは真に「教養」の名に値するものなのだろう。
 そして、日本の戦争指導者に欠けていたのも、このような自由な心を持たず別の道を考えられない狭量さであったとし、〈今日においても、同様の危険がある〉〈その危険は、いわゆる進歩派のうちにも、いろいろな形で現れている〉と警鐘を鳴らす。
 それはまるで、左右を問わず甘言を弄する扇動家が力を持ち、ワンイシューで社会を分断して求心力に変えようとしている今日にそのまま通じる警告である。

 活字離れが語られるようになって久しく、書店の経営が困難になって、書店のない自治体が全体の29%におよぶ(「書店に関する地域ごとの状況調査」出版文化産業振興財団/2023年11月)。
 通勤の電車内でも本を読んでいる人よりも、スマホでゲームや動画を見ている人のほうが多い。今では高齢世代もYouTubeに熱中しているし、仕事はもちろん日常の些細な判断までAIに求める人も珍しくない時代である。

 そうした今日にあって、はるか半世紀以上前に田中美知太郎によって紡がれた「考えること」「読書」「教養」をめぐる文章が少しも古びず、不思議な臨場感をもって迫ってくるように感じられるのは、じつに不思議なことだ。
 それは1970年の大阪万博に沸き、「昭和元禄」などと浮かれていた時代に、「若い人たちのために」という思いで田中美知太郎の『読書と思索』を出版しようとした「若い編集者たち」の「良識」の賜物なのかもしれない。

レグルス文庫の名著が新装版で復刊!
『読書と思索』
田中美知太郎 著

定価:1,870円(税込)
2025年12月11日発売
第三文明社
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