書評『ヒロシマへの旅』――核兵器と中学生の命をめぐる物語

ライター
本房 歩

作者が子どもたちに語ったこと

 本書に収められた2編の小説の作者は、創価学会第3代会長であり創価学会インタナショナル会長であった池田大作である。
 ただし最初に明確にしておきたいのは、この2編はもちろん、池田が子どもたちに書き綴り贈ってきた絵本や物語といった文芸作品からは、特定の宗教的ドグマや価値観がいっさい排除されていることだ。

 あらゆる宗教運動にとって、次世代への信仰の継承が重要な問題であることは言うまでもない。
 しかし、池田が若い命に対して指針としたのは、①健康でいこう ②本を読もう ③常識を忘れないでいこう ④決して焦らないでいこう ⑤友人をたくさんつくろう ⑥まず自らが福運をつけよう ⑦親孝行しよう(未来部7つの指針)といったことである。
 とりわけ、いずこの国においても池田が中高生の世代に繰り返し伝えてきたのは、「友情」「信念」「正義」「平和」といったことがらについて、世界の名著や偉人の生き方を通して思索し、これらを大切にする人間に育ってほしいという願いであった。

 本書の2編の小説のうち、『ヒロシマへの旅』は1986年8月から87年2月まで、『フィールドにそよぐ風』は1988年11月から89年3月まで、いずれも創価学会中等部の当時の機関紙『中学生文化新聞』に連載されたものである。
 いずれも1996年に『池田大作全集』第50巻に収録されたが、本書はこれを底本として著作権者の了解のもと一部修正し、このほど第三文明社から刊行された。
 ここでは『ヒロシマへの旅』について紹介したい。

作品が描かれた当時の世界情勢

『ヒロシマへの旅』は、中学生になった主人公の一城(かずしろ)が、夏休みの1週間を使って広島の叔母のもとへ1人旅をする物語である。父親の姉にあたる「八重子(やえこ)おばさん」は原爆を体験した被爆者だった。
 広島滞在中、一城は八重子おばさんの案内で広島市内の各所を歩き、1945年8月6日にそこでどのような光景が展開されたのかを見聞きしていく。
 読者もまた、作中の八重子おばさんの説明に導かれながら、あの日の凄惨な出来事を追体験していくのである。

 八重子おばさんは、1982年にニューヨークで開催された第2回国連軍縮特別総会にあわせて、国連本部で開催された「核の脅威」展の開催にかかわり、被爆者の代表の1人として諸行事に参加するため国連本部を訪れたことも一城に語る。
 もちろん作中では固有名詞などは明かされていないが、この第2回国連軍縮特別総会では実際に、創価学会が広島市や長崎市と共催し、国連広報局が協力して「現代世界の核の脅威展」が開催された。デクエヤル国連事務総長はじめ、特別総会に参加していた世界各国の外交官やジャーナリストらが見学している。
 1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻し、1981年に核軍拡路線を掲げたレーガン政権が米国に登場すると、デタントと呼ばれた1970年代の緊張緩和から一転し、世界は「新冷戦」と称される緊張の時代に入っていた。

 八重子おばさんをこの「核の脅威展」の当事者に設定したのは、核兵器ということがらを単に1945年の惨事とするのでなく、同時代の人類が直面している危機として読者に伝えたいという著者の思いからであろう。
 小説の連載が始まった1986年は、4月にチェルノブイリ原発事故が起きている。前述の「核の脅威展」は、北京、モスクワ、パリ、ベルリンなど24カ国39都市を巡回。87年5月のモスクワ展開幕には、創価学会インタナショナル会長として池田も出席している。
 このような時期に、池田は中学生に向けてこの小説を執筆したのである。

 なお、1985年にはジュネーブでレーガンとゴルバチョフによる初の米ソ首脳会談が実現する。緊張緩和への米ソ首脳会談の実現は、池田が繰り返し訴えていたことだった。
 この『ヒロシマへの旅』の連載が始まった1986年の10月にはレイキャビクでの首脳会談で中距離核戦力全廃への合意がなされ、連載が終わった1987年の12月に両首脳によって中距離核戦力全廃条約への調印がなされた。
 軍縮担当の国連事務次長だった明石康は後年、「核の脅威展」や池田の数々の提言について「核廃絶への世界世論を形成する、大きな役割を果たされたと思う」(『潮』2010年7月号)と証言している。

作品を貫くメッセージ

 ところで、この『ヒロシマへの旅』には一城のヒロシマ旅行と並行して、一城の親友の「中村君」をめぐるもう1つの物語が描かれている。
 父親の事業の失敗で生活が一変した中村君は、そのことで苦悩し、いじめにも遭い、近所のマンションから投身自殺を図って負傷し入院する。
 小説は、核兵器の恐ろしさを描き出す一方で、それと表裏一体で自殺未遂した中学生と、彼の蘇生を描いていくのである。

 10代だった八重子おばさんも、原爆の後遺症で父母を相次いで失い、出征した兄まで戦死し、絶望して死の誘惑に駆られていた。
 作中では、そんな時に偶然再会した国民学校時代の恩師の「あの原爆の恐るべき破壊力にも、けっして壊されない、けっしてくじけない人間の力を、見せつけてやるんだ」という言葉が記されている。
 言うまでもなく、これが作品を貫く作者のメッセージであろう。

 作中ではさらに、この恩師が若き八重子おばさんに贈った紙片に綴られたモンテーニュの箴言が記されている。

 運命は私たちに幸福も不幸も与えない。ただその材料を提供するだけだ。その材料を好きなように用いたり、変えたりするのは、私たち自身の心である。どんなことにも負けない強い心が、あるかないかで、人は自分を幸福にも、不幸にもできるのだ。

 かつて八重子おばさんを蘇生させたこの紙片が、一城から入院中の中村君へと手渡されていく。

 それにしても、作者はなぜ中学生がマンションから投身自殺を図るという、きわめてショッキングな設定をあえて描いたのだろうか。
 じつは、この作品が発表された1986年は、中学生・高校生の自殺者数が前年から一挙に44%も上昇した年だった。理由は一概に断定できないものの、この年の4月に人気アイドルが事務所のビルから投身自殺しセンセーショナルに報道されたことが、いくつもの研究で指摘されている。統計では、3月まで平年並みだった少年少女の自殺者数が、4月から年末まで高水準で推移している。
 こうした異常な空気のなか、作者は中学生たちに真剣なまなざしで向かい合う思いで、こうした筋書きを織り込んだのではないだろうか。

 折しも、2025年は原爆投下80年を迎える。ヨーロッパでは核保有国の首脳の口から核兵器の使用の可能性が語られ、そうした危うさへの警鐘を込めて日本被団協が昨年末にノーベル平和賞を受賞した。
 一方で、日本国内の小中高校生の自殺者数は近年増加傾向にある。1980年から平成の終わりまでの期間では前述の1986年が突出した最高値であったが、令和に入るとその数を上回って急上昇していくのである(【令和4年】自殺者数の年次推移、他「こども家庭庁提出資料」)。

 核廃絶と青少年の自殺予防は、奇しくも40年近い歳月を経て、ふたたび喫緊の課題となっているのだ。そのような時期に本書が装いも新たに再刊される意義は幾重にも大きい。1人でも多くの子どもたちに届くことを願う。

『ヒロシマへの旅』(同時収録『フィールドにそよぐ風』)
池田大作 著

定価:1,320円(税込)
2025年1月20日発売
第三文明社

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『アレクサンドロスの決断』(同時収録『革命の若き空』)
池田大作 著

定価:1,320円(税込)
2025年1月20日発売
第三文明社

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