書評『戦後日中関係と廖承志』――中国の知日派と対日政策

ライター
本房 歩

新中国最高峰の知日派

 1949年10月1日に毛沢東が天安門広場で中華人民共和国の建国を宣言してから、1972年9月29日に田中角栄と周恩来の両氏が日中共同声明に調印するまで、日本と中国の間では国交が結ばれていない状態が続いていた。
 日中国交正常化以降の日中関係史を知る人はいても、それ以前の約23年間の歴史を詳しく知る人はそれほど多くないだろう。
 本書では、特に日中の国交が断絶状態にあったこの期間において、新中国きっての知日派であった廖承志(りょうしょうし)と、彼を中心として結成された対日タスクフォース組織が行った対日業務について、8人の執筆者が多角的に分析している。
 本書で取り扱われるテーマを見ると、廖承志の携わった対日業務の範囲の広さに驚かされる。
 戦後の日本人引揚問題、LT貿易をめぐる交渉、日本の政界、財界、民間団体などとの人脈構築、日中国交正常化への道筋の整備など、実に多岐にわたる分野で廖承志は中心的な役割を果たしてきたのだった。
 加えて巻末には、当時廖承志の側近として働いた人たちへのインタビューも掲載されている。廖承志の軌跡を丹念に追うことで、本書自体が国交断絶下の空白の日中関係史を埋める格好の資料となっている。

周恩来との深い信頼関係

 廖承志は1908年に東京の大久保で生まれた。父は国民党の幹部だった廖仲愷(りょうちゅうがい)、母は後年に画家として名を馳せた何香凝(かこうぎょう)で、2人は結婚をした後の1902年にともに日本留学に来た。日本滞在中に2人は孫文と出会い、その革命思想に共感し、生涯を通して孫文の活動を支え続けた。
 廖承志は両親の革命活動の影響を受けながら幼少期を過ごした。11歳まで日本で育ち、その後は中国に帰国するものの、国内の政治状況の変化から、香港、広東、上海など各地を転々とする生活を余儀なくされた。
 廖承志が早稲田大学付属第一早稲田高等学院に留学をしたのも、息子の身を案じた母の思いを受けてのことだった。
 結果として、幼少期や留学生活を通して日本で長く暮らしたことで、廖承志は堪能な日本語を身に着け、日本社会にも深く精通した。それらの経験が、新中国建国後に廖承志が対日業務の最前線で仕事をすることへつながった。
 もう一つ、廖承志が対日業務の中心的人物として活躍することになった大きな理由がある。それが周恩来との深い信頼関係である。2人の信頼関係の原点には、父の廖仲愷の存在があった。
 1924年、若き周恩来を黄埔軍官学校の幹部に抜擢したのが、同校の国民党代表を務めていた廖仲愷だった。周恩来は廖仲愷の業務を多方面から補佐し、廖仲愷もまた周恩来の優れた手腕を高く評価した。周恩来自身が、「私は廖家と三代の友情がある」(本書)と語っているように、廖家と周家の間には家族ぐるみの深い関係があり、それが廖承志と周恩来との信頼関係の礎となっているのだった。

日中国交正常化への道のり

 新中国建国直後、首相とともに外交部長を兼任していた周恩来は、対日業務担当に廖承志を指名した。
 先述した通り、廖承志は多岐にわたる分野の対日業務に携わっていた。そこで得た情報は逐一、中央で強い影響力を誇る周恩来に報告していた。この周総理―廖承志間の強固なラインが、中国の対日政策に強い影響を与えたことは、本書の複数の執筆者が指摘している。

中共中央の決定は周恩来が廖承志へ直接に指示し、具体的な実施方法についても、廖承志の報告を受け、周恩来がその場で決定することが多かったのである。(「第1章 廖承志と廖班の対日業務担当者」)

周恩来にとって、廖はいつも重要な任務を委ねることができる欠かせない存在であった。阿吽の呼吸ともいうべき彼らの連携を通じて、中国の外交事業は大きく発展し、中日国交正常化の実現がもたらされたといえよう。(「第8章 周恩来と廖承志――中国革命から中日友好へ」)

 廖承志の手腕が大いに発揮された舞台の一つが日中国交正常化をめぐる一連の対日工作だ。
 国交正常化が成し遂げられた大きな要因に、「廖承志辨事処東京連絡事務処」の開設があった。度重なる交渉と調整の末、1962年に自民党の高碕達之助と廖承志との間で、「日中総合貿易に関する覚書」が調印され、LT貿易体制がスタートした。
 LT貿易体制が実施される中で、相手国への常駐事務所の設置が決まり、64年8月に廖承志辨事処東京連絡事務処が開設している。
 建国初期の中国にとって、対日業務の難点の一つは、国交が断絶していたために日本に常駐機関を置けなかったことだった。そのため、事務処の開設は画期的な出来事となった。
 廖承志は、建国後間もない時期から自ら手塩にかけて育成してきた孫平化を事務処の首席代表に指名した。
 また同時期には、日中記者交換協定のもとで常駐記者の派遣も決定し、光明日報の記者である劉徳有をはじめ、7人の記者が東京に派遣された。その内の数名の記者は廖承志が指名している。
 孫平化を中心とした事務処のメンバーと常駐記者たちは、事務処を拠点として日本の政界、財界、官僚組織などとの間に交流のネットワークを拡げていった。そこで得た情報はすべて廖承志も所属する国務院外事辨公室へ届けられ、党中央へと共有された。
「第5章 知日派の対日工作」にも詳述されているが、事務処は日本の政局をはじめ、日本社会の動向を極めて高い精度でつかんでおり、中国政府が対日外交を展開する上で重要な手がかりとなった。

1人でも多くの友人を作る

 そうした中、1966年から始まった文化大革命の嵐は、北京にいる廖承志をはじめ、事務処のメンバーをも次々と飲み込んでいった。知日派の領袖だった廖承志は批判対象とされ、対日外交の舞台から姿を消した。
 文革の嵐が吹き荒れる中でも、事務処は辛うじて存続した。日中間のチャネルでもあった事務処が完全に閉鎖されなかったことは、文革下で日中国交正常化が実現できた大きな要因となる。廖承志や孫平化といった対日業務を担っていたメンバーが表舞台から姿を消していた間にも、駐日常駐記者の王泰平は精力的に情報収集を行った。
 王泰平は、幅広い人脈を通じて、佐藤内閣の退陣と、その後に田中内閣が立ち上がることを事前につかみ、北京の周恩来に逐一報告していた。
 その後、田中内閣が正式に発足してから、周恩来は廖承志、孫平化を相次いで対日外交の舞台に復帰させた。廖承志を外交部顧問に任命し、孫平化を上海バレエ団団長に任命した。
 孫平化はバレエ団を率いて東京へ向かい、その滞在期間中に田中角栄と極秘裏に会談。周恩来からの中国への招待を伝え、田中角栄からの受諾を得た。これで日中国交正常化への道筋は整ったのであった。
 一連の過程を振り返ると、廖承志自身の働きと、彼が育成した対日専門家たちの活躍があって、国交正常化が成し遂げられたことがよく分かる。国際情勢だけでなく、国内政治の変化の影響を受けながらも、困難な仕事をやり遂げた廖承志。対日業務にあたる際、廖承志は次の指針を部下たちに示していた。

「日本人民の考えを理解し、1人でも多くの友人を作り、できるだけ敵を減らそう」(「第1章 廖承志と廖班の対日業務担当者」)

 相手国の人々への理解を深め、1人でも多くの友人を作る――。日中国交正常化から50年以上が経った現在、廖承志の示したこの方針は、ますます重みを増しているように思われる。

慶應義塾大学出版会『戦後日中関係と廖承志――中国の知日派と対日政策』

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