書評『シュリーマンと八王子』――トロイア遺跡発見者が世界に伝えた八王子

ライター
本房 歩

シュリーマンの2つの業績

 現在のJR八王子駅から北に延びる道路には、甲州街道から浅川大橋のたもとまで道沿いに桑の木が街路樹として続いている。今や10万人を超す学生が学ぶ日本有数の学園都市である八王子市だが、昭和の時代までは「桑都(そうと)」と称されていた。
 ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマン(1822-1890)は2つの業績で知られる。
 1つは、トロイア遺跡の発掘だ。古代ギリシャの詩人ホメロス(紀元前8世紀頃)の叙事詩に登場する「トロイア」の実在を信じた彼は、ビジネスでなした巨万の富をつぎ込んで発掘調査にあたった。
 その結果、古代ギリシャ文明より前に高度な文明が地中海沿岸に存在していたことが明らかとなった。
 もう1つは、彼が考案して実践した「シュリーマン・メソッド」と呼ばれる語学教育の学習法。貧困家庭に育ち正規の学校教育を受けられなかったシュリーマンは、独自のメソッドによって働きながら十数カ国語を身につけ、貿易商として成功しヨーロッパ有数の富豪となった。
 2022年1月6日がシュリーマン生誕200年にあたることから、創価大学文学部の教員有志が前年春から「桑都プロジェクト」という共同学習を企画した。「シュリーマン生誕二百周年~シュリーマンの見た〝桑都〟八王子の魅力を発掘~」は令和3年度大学コンソーシアム八王子「学生企画事業補助金」に採択され、さまざまなイベントを市内で開催した。本書は、このプロジェクトから生まれた。

「人生百年時代」の先駆的モデル

 本書の編者である伊藤貴雄・創価大学教授は、シュリーマンの新たな人物的価値にも光を当てている。それは、独学の人として語学を身につけ、40代になって実業界から考古学という未知の分野に転身したことだ。しかもシュリーマンはその「第2の人生」をメインにする新しい生き方を示した。このことは「人生百年時代」の先駆的なモデルになると伊藤氏は評している。
 もっとも、シュリーマンにはネガティブな評価もつきまとってきた。本書はそのことにも目を逸らさず触れている。それは、遺跡の発掘方法の不適切さ、公正さに疑問が残る利益至上主義のビジネス、自伝や発掘記録における脚色であるという。
 しかし、これらを踏まえてなおシュリーマンにはさらに評価すべき業績がある。それは彼が事業家としての暮らしに終止符を打った後、1864年から2年をかけて世界周遊旅行をおこない、4大陸9カ国の旅の記録を、500ページを超す日記として9カ国語で記録していたことだ。
 この記録をもとにシュリーマンは1867年にデビュー作『清国と日本』をフランスで出版している。明治維新は1868年であり、彼がトロイアの遺跡発掘に着手するのは1871年だ。この本の中で彼は八王子について記述している。同書はおそらく八王子を世界に伝えた最初の書籍であろう。

初めて邦訳された八王子滞在日記

 この世界旅行のなかで、インド、中国(当時は清国)を回ったのちに、シュリーマンは幕末の日本を訪れた。1865年(慶応元年)6月3日から7月4日の1カ月間の滞在であった。
 当時は日米和親条約によって横浜が開港(1859年/安政6年)した直後であり、尊王攘夷の風が吹き荒れていた。米国総領事館の通訳ヒュースケンが攘夷派に殺害されたのは1861年であり、英国人たちが薩摩藩に殺害された生麦事件は1862年に起きている。
 外国人にとっては非常に身辺の危うい時期で、滞在は横浜の居留地と、そこから十里(約40km)以内の範囲に制限されていた。
 シュリーマンはその中で、6月18日から2泊3日、許可範囲ギリギリに位置する八王子を訪問していた。往復の宿泊はいずれも原町田(現在の町田市)。悪天候もあり八王子の実質滞在時間は4時間ほどだった。
 だが、彼は鋭い観察眼で八王子の街や人々の様子を記録している。本書では、シュリーマンの日記のうちこれまで邦訳されていなかった「ダイアリーA6」の6月18日~20日の部分が、初めて日本語に訳されている。
 では、シュリーマンはなぜ身の危険を冒してまで、しかも雨の中を往復3日もかけて八王子まで出かけたのか。それは、当時の八王子が生糸と絹織物の生産・流通の一大拠点だったからだ。
 この頃、ヨーロッパでは蚕の伝染病によって絹産業が衰退していた。日本の絹製品はヨーロッパ市場で重要なものになりつつあったのだ。彼は自分の目で〝桑都〟を見に行ったのだった。

グローバルとローカルをつなぐ

 シュリーマンはかねてから日本を訪れたいと願っていたようだ。日記からは、彼が実際に日本人のシンプルな暮らし方に触れて、ヨーロッパの文明生活が華美であることを自省する様子がうかがえるという。
 あるいは、日本には町のいたるところに公衆浴場があり、貧しい者であっても入浴することができるなど、「日本人が世界でいちばん清潔な国民である」ことが綴られている。
 一方、女性も読み書きができるほど教育が普及しているにもかかわらず、その識字率の高さが日本人の精神の発達に役立っていないことを嘆いている。それは、封建体制の抑圧的なシステムによって「公然であろうと隠密裡であろうとを問わず忌まわしい諜報機関が存在」して、密告と役人による監視が幕府の権威を支えていたことによると見抜いていた。
 このようにシュリーマンはヨーロッパ中心主義でもなく、日本に過度に肩入れするのでもなく、自他の文明を公正に見つめて分析できる目を持っていた。

 優れた語学力によって国境を越えグローバルな活躍をしたシュリーマンは、同時に、ローカルな場所に生きる人々の生活を何よりも愛しみ重視した人でもありました。(伊藤貴雄氏)

 今や箱根駅伝の活躍ですっかり有名になった創価大学は、文科省のスーパーグローバル大学創成支援に採択され、最高評価のS評価を受けている。また世界大学ランキングでは日本の278大学中、「国際性分野」で第5位にランクインしている大学だ。
 一方で、2010年には大学内に「八王子学」という講義科目を立ち上げた。大学がある八王子について学びを深め、在学中はもとより卒業後も自分の暮らす地元地域を理解し貢献することをめざすという。
 コロナ禍にあって創価大学が「桑都プロジェクト」を立ち上げたこと。それが本書のような優れた〝副産物〟を生んで広く社会に共有されることは、こうしたグローバルとローカルをつなぐ学びのひとつの理想的な姿であろう。
 なお、本書の冒頭には読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏が「偉大なロマンティスト大全――「八王子のシュリーマン」を見事〝発掘〟」と題して4ページにおよぶ推薦文を寄せている。

『シュリーマンと八王子──「シルクのまち」に魅せられて』(伊藤貴雄 編/第三文明社/2022年12月20日)

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