長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第11回 空手の琉球処分(上)

ジャーナリスト
柳原滋雄

2年前から始まった前史

 1979年4月、八木明徳(1912-2003)は「全沖縄空手道連盟」の第7代会長に就任した。
 沖縄空手の〝本流〟の組織として1956年に知花朝信(1885-1969)を中心に設立された「沖縄空手道連盟」はその後1967年に改組され、「全沖縄空手道連盟」と名称変更していた。その後の会長職(任期2年)は、ほぼ四天王(長嶺将真、比嘉祐直、上地完英、八木明徳)が持ち回りで担ってきたが、八木にとってはこのときが2度目の会長就任だった。
 それから2年後の1981年8月、沖縄空手界は長嶺将真(1907-1997)を中心に新設された「沖縄県空手道連盟」と、八木の残る「全沖縄」に真っ二つに分裂する。

1980年5月沖縄空手界の四天王全員が上京し全空連幹部と協議。いったんは加盟方針でまとまった(写真は1977年の別のもの。左から比嘉祐直、長嶺将真、上地完英、会長の八木明徳)

 87年秋に開催決定されていた沖縄初の国民体育大会(沖縄海邦国体)の空手競技に参加するかどうかをめぐり、笹川良一を会長とする競技空手の団体「全日本空手道連盟」(全空連)に加盟するかどうかが分裂の要因となった。この国体に沖縄が参加するには、全空連に県組織として加盟する必要があったからだ。それまで全国の都道府県で唯一〝未参加〟のままとなっていた沖縄の空手組織にとって、賛成と反対が拮抗する事態へとつながった。
 沖縄の空手組織が日本本土(ヤマト)の空手組織に半ば強制的に〝吸収〟されたこの態様を指して、「空手の琉球処分」と形容されることがある。この言葉を公式な形で最初に使ったのは、当時の八木明徳会長だったと思われる(沖縄タイムス1981年8月14日付)。その象徴となったのが、沖縄空手界を二分する〝大分裂劇〟だった。
 1981年夏の分裂までには、2年ほどの「前史」がある。
 笹川良一率いる全日本空手道連盟からの呼びかけは、すでに八木の会長就任の直後から始まっていた。就任の翌月(1979年5月)には、早くも八木会長と上原恒理事長(1929-2018)が全空連関係者と話し合いをもったほか、7月にも八木は沖縄空手界の重鎮、長嶺将真とともに上京し、全空連と協議の席をもっている。だが話し合いは不調で終わった。
 このころ長嶺は72歳。8年間の会長生活から退いて10年がすぎていた時期。自身の空手人生の総仕上げをしようという年代に入っていた。

48回にわたった長嶺の連載の初回記事(1979年11月27日・沖縄タイムス)

 その証拠に、この年の11月には『沖縄タイムス』に「沖縄の空手武人伝」の連載を始め、全48回に及んだ連載は翌年の2月まで続いた。この連載をもとに書籍化するのは7年後のことだが、長嶺はそれまでライフワークとして調査研究を続けてきた過去の著名空手家に関するエピソードや歴史などをまとめ、人物ごとに執筆した。
 人物名を挙げれば、真壁朝顕、松村宗昆(1809-1899)、松茂良興作(1829-98)、糸洲安恒(1831-1915)、東恩納寛量(1853-1915)、船越義珍(1868-1957)、喜屋武朝徳(1870-1945)、本部朝基(1870-1944)、新垣安吉(1899-1929)などの10人で、沖縄空手を切り開いたそうそうたる武人たちといえる。うち3人は、長嶺が直接空手の手ほどきを受けた師匠でもあった。
 当時、沖縄空手家の中でこのような歴史探訪をライフワークとする者は珍しく、長嶺が戦後沖縄空手界の「理論家」の一人と位置づけられるのはそのためだ。ただし長嶺が描いた史実の内容については、その後修正されていった点も多くあった。それでもパイオニアとしての価値は残る。
『沖縄タイムス』で長嶺の連載がつづいていた1980年1月、日本体育協会は87年に沖縄国体を開催することを正式決定した。国民体育大会は50年に一度しか回ってこない都道府県における最重要行事の一つにほかならない。沖縄県が1972年に27年ぶりに本土復帰してから、初の本格開催となる国民体育大会。国体が通常の競技大会と大きく異なる点は、天皇陛下が臨席するところにある。国をあげての大会であり、県の総力を挙げて取り組む大会だった。

難航した全空連との協議

加盟の方向を伝える沖縄タイムス(1980年5月18日付)

 沖縄県と県体協、さらに全空連が総力をあげて沖縄空手界の本格説得に乗り出したのは、沖縄国体の開催が正式発表された1980年になってからといえる。この年、沖縄空手界は水面下で大きく揺れ動いた。
 長嶺は73歳。糸洲安恒が平安の型を創案したのと同じ年齢に達し、4月には松林流の記念演武大会が開催された。名目は、前年11月に長嶺が県の体育功労賞を受けたことと、古希のお祝いを兼ねた大会だった。本土では70歳が古希のお祝い年となるが、沖縄では年齢が微妙にずれる。
 5月、沖縄空手界の四天王全員と上原理事長が、沖縄県体協の大里喜誠会長とともに上京、全空連との大がかりな話し合いの場が持たれた。
 5月18日には『沖縄タイムス』が、全沖縄空手道連盟が全空連に加盟する旨の観測記事を初めて報じた。だが、このときの話し合いも結局は〝決裂〟で終わっている。
 その様子は、8月に開かれた全沖縄の演武大会における大里喜誠・沖縄県体育協会会長、八木会長のあいさつの内容からもうかがえる。全沖縄空手道連盟が主催する第12回空手道・古武道演武大会は8月2日午後6時から、那覇市民会館大ホールで開催された。このとき大里会長は、祝辞の中で次のように述べている。長くなるがそのまま引用する。

 7年後の沖縄国体に備えて県体育協会参加の貴連盟が、空手の競技としての振興について、流派を超えた広い視野に立ち対策を確立していただくよう期待してやみません。来年の滋賀国体からは空手は採点競技種目となることが決定しております。またすでに、高校、大学の空手大会で沖縄の若人が活躍しております。国体参加のための条件作りとして全日本空手道連盟の加入も早急に実現していただきたいものであります。武道において各流派の先人が遺された心と技を尊重して修行に努めなければならないことは勿論ですが、武道を競技として振興することは時代の要求であり、われわれの責務でもあります。そのためにいろいろと難しい問題を抱えていることも聞いておりますが、空手発祥の地、沖縄において開催される国体は、沖縄の空手選手がその努力を遺憾なく発揮して若人の意気を天下に示すとともに、沖縄空手の真髄を披歴する好機であると信じます。そのことは若人の夢であり、また百万県民の期待と願望であります。(『沖縄剛泊会空手道』渡嘉敷唯賢著/1986年)

 さらに八木明徳会長は、会長あいさつの中で全空連との話し合いの状況について次のように説明した。

 来年の国体からは空手も他のスポーツと同様、型と組手の試合が点数制によって覇を競うようになりました。したがって昭和62年に沖縄において開催される国体にも当然空手道が試合の対象となるわけでございます。そこで問題になりますのは、空手の試合に出場するには、全日本空手道連盟に加入しなければ出場できないという立場におかれているということであります。われわれ全沖空連(※全沖縄)におきましても全空連加盟について再三再四にわたって交渉してまいりましたが、その加盟の条件があまりにも一方的で、本場沖縄の空手を傷つける結果になりかねないのでいちおう加盟すべく準備は進めてきたものの、流派長会理事会などでもし全空連側の提案どおり加盟するならば、脱会もやむを得ないという道場もあり、“空手維新”とでも申しましょうか。まったく一進一退の立場に置かれている状態であります。全沖空連の幹部の方々は異口同音にわれわれ祖先の遺産であり、君子の武術といわれた空手道を冒涜し、傷つけ、千載に悔いを残すことがないようにと加盟の問題を否定し続けている現状であります。(同上)

 これが1980年時点における状況だった。沖縄空手界はまだ〝まとまり〟を保っていた。だが翌年になって、深刻な〝内部分裂〟を引き起こす。その背景には、さまざまな要因も横たわっていた。(連載つづく)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。著書に、 『沖縄空手への旅~琉球発祥の伝統武術』(第三文明社、2020年9月)など。