書評『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か』

ライター
本房 歩

「感染の不安/不安の感染」

 本書は2020年4月末に書きはじめられ、概ね6月初旬に書き終え、6月末まで加筆修正をおこなったのち、奥付7月30日で上梓された。

 新型コロナの発生から国内での認知と対処、緊急事態宣言の発出から解除、2度の補正予算成立を中心とする広義の政治、社会的な事象と過程について、それぞれ公開資料と報道資料を中心に検討、分析した。(本書より、以下同)

 社会学者である著者の西田亮介氏は、とくにメディアと公共政策に関する分野の専門家として知られる。
 今般のコロナ禍では、まずウイルスそのものが人の移動を介して急速に世界中に広がった。同時に、潜伏期間があり無症状の感染者も多く特効薬がないという未知の疫病に対する「不安」が、マスメディアの報道とSNS上のコミュニケーションを通じて拡大し、それは今も続いている。
 著者はそれを「感染の不安/不安の感染」と表現する。
 私たちの社会が直面している「コロナ危機」は、感染症の拡大による(医療崩壊の可能性を含む)直接的な健康リスクにとどまらない。
 社会経済活動の大幅な制限や変容を強いられたことによる、個々の経済危機や新たな負担。医療従事者や感染者への差別や偏見。対面接触が制限されたことなどによる高齢者や障害者、独居者のリスクなど多岐にわたる。
 同時に著者が検証を通して浮かび上がらせるのは、「感染の不安/不安の感染」が政治不信を招き、そのことが効果的な対策にも悪影響を及ぼしてきた構図である。
 では、なぜそのように「感染の不安/不安の感染」が増大していったのか。

迅速だった日本の初動対応

 経過を追っていくと、まずひとつの事実が明らかになる。

 日本政府(厚労省)は20年1月という相当早い時点で、武漢を起点とする国際的な感染症の発生と拡散を認知し、国際的に見れば早期に対処を開始していたことだ。この点、一般的な認識とは大きく異なるのではないか。

 詳しくは本書に譲るとして、事実を検証していくと、むしろ初動において日本政府は迅速な対応を見せていたことがわかる。
 最大の理由は2009年の新型インフルエンザ流行を経験してつくられた「新型インフルエンザ等特措法」(12年成立・13年施行)があったからだ。
 日本政府は初動において、

 対応の迅速さは世界を見渡しても指折りのものであった。

 2月13日に取りまとめられた最初の緊急経済対策も、実際には日本政策金融公庫の貸付支援で5000億円規模からスタートさせている。だが、あくまで政府系金融機関の支援だったことで、その額は支援の外側に「参考」として記され、前年度予算予備費などから調達した「緊急対応策」の額面153億円だけがメディアで報じられた。
 するとSNS上には、諸外国と比べて小規模すぎるといった野党政治家や著名人などの非難の声が溢れた。
 あるいはダイアモンド・プリンセス号への対応でも、外務省は関係国大使館と協議して同意を得ていたことを本書は指摘している。しかし、感染対策の是非をめぐってセンセーショナルな動画がSNSに投稿されると、人々のあいだに疑心暗鬼が広がった。情報番組などは競うように、日本政府を非難する諸外国の報道を拾い集めて火に油を注いだ。
 全国一斉休校も、じつは2009年の新型インフルエンザ流行の際、兵庫県で実施されて一定の効果があったことに依拠していたと思われる。だが、休校が実施されると野党はこれを批判し、メディアは人々の困惑や混乱ばかりを連日報じた。

メディアとSNSの共犯関係

 なぜ、こういう不毛な論争や混乱が連続していったのか。
 著者が指摘するのは、まず2009年の新型インフルエンザでの経験や成果を、国民がすっかり忘却していたことだ。
 また、政府は過去の経験に基づいて迅速かつ概ね妥当な対策を講じながら、そのことを国民が理解し納得できるように丁寧に説明しなかった。
 そしてメディアは本来、人々が忘却したものを思い出させる「リマインダー」の役割を果たさなければならなかったと著者は言う。
 ところが実際にはワイドショーを中心に、むしろSNSの声を増幅させる〝共犯関係〟へと進み、政府の対策に対する「不信」「不安」「不満」を煽り立てるものが目立った。
 一斉休校を批判したかと思えば、手のひらを返したように緊急事態宣言の発令が遅いと批判する。緊急事態宣言下で諸外国のような強権措置ではなく自粛を求めると、今度は「自粛と補償はセット」だと批判する。世界的に見ても死者数が少なく推移しているにもかかわらず、PCR検査の態勢が不十分だと非難し不安を煽る。
 SNSとメディアが〝共犯〟となって、政府が何をやっても批判が連呼される。もちろん、「アベノマスク」や例の星野源と勝手にコラボして大ブーイングを招いた首相動画のように、政府側にも失態があった。また、度重なったスキャンダルによって支持率が降下していた。
 その結果、「耳を傾けすぎる政府」へと追い込まれたというのが、本書における著者の見立てである。

 ここでいう「耳を傾けすぎる政府」とは政治が効果や合理性よりも、可視化された「わかりやすい民意」をなにより尊重しようとする政治の在り方のことだ。

求められる「良識的な中庸」

 なお、本書ではとくに言及されていないが、このSNSとメディアの〝共犯〟に大きく便乗して「感染の不安/不安の感染」の拡大を図っていた野党の政治的思惑とその責任を、本稿では指摘しておきたい。
 7月に実施された東京都知事選挙や今秋に予定されている大阪都構想の住民投票。来年9月の自民党総裁任期満了と10月の衆議院任期満了。
 じつは今般の「コロナ禍」では、こうした〝政治闘争〟が同時並走している。野党にとっても何人かの有力首長にとっても、「政府が後手に回っている」「政府の対応では不十分である」という世論をつくることが、そのまま自分の利になるのである。

 現代において、環境が促す脊髄反射的反応を避け、批判と提案を行う良識的な中庸はいかにすれば可能か。結局、新型コロナが我々に突きつけたのは、古くて新しい問いではないか。

 安定的に専門知識を解説し、対策の根拠を指摘し、過去の経緯を想起させるリマインダーとしての役割をもった「機能のジャーナリズム」を、いかに社会に実装できるかは、かねてからの我々の社会の課題でもある。

 国内はもとより世界全体の感染終息を見るまでには相当の時間が要されるだろう。感染拡大を防ぎながら、経済社会活動を持続可能な形にするという難題に立ち向かう主体者は、ほかでもなく私たち一人一人である。
 そのためにも「感染の不安/不安の感染」に翻弄された半年間の経緯を冷静に検証し、脊髄反射的反応ではない批判と提案ができる社会へと向かうために、せめてこの困難な時期を生かすことができればと願う。

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