書評『これからの大学』――文化人類学者が語る「学問」

ライター
本房 歩

「あたりまえ」の外側へ

 政府の緊急事態宣言の対象が全国に拡大された翌日の4月17日、西日本新聞紙上で「人類学者のレンズ」と題する月1回の連載がはじまった。現在はネット上でも公開されている。
 執筆者は岡山大学文学部で准教授を務める松村圭一郎氏。専門は文化人類学である。
 氏は、郷里の熊本県で過ごしていた中学時代に、初めて福岡県の博多まで鉄道の一人旅をした時に、熊本と博多の雰囲気の違いを感じたことを振り返って、こう綴る。

ずっと熊本で暮らしてきた私は熊本のことをあまりわかっていなかった。文字どおり、あたりまえすぎたのだ。福岡に出てはじめて熊本の人の特徴がうっすらと見えた。人は「あたりまえ」の内側にいるだけでは、自分たちがどんなふうに生きているのか、知ることはできない。(「西日本新聞WEB版」

 特効薬のない新型コロナウイルスのパンデミックという事態のなかで、私たちはそれぞれに、これまでの「あたりまえ」を過ごせない日々に直面した。
 この春、大学を卒業した学生のほとんどは従来の卒業式を経験できなかったし、入社式やその後の研修もリモートで体験した人が多かっただろう。内定を取り消された学生も少なくなかった。
 あるいは、今年大学の門をくぐった学生たちは、大学生活のスタートをリモート授業という異例の形で切ることになった。
 予定どおりであれば東京オリンピック開幕直前の興奮に包まれ、日本中がインバウンドの消費で舞い上がっていたはずの今、日本社会はようやく経済活動再開の栓をそろそろと開きつつあるところだ。
 しかし、このあと「第二波」「第三派」が襲来すれば、また何がどうなるか予測がつかない。

「贈り物」としての教育

 これまでの「あたりまえ」の外に出ていく道具としての文化人類学について、2019年4月に刊行された『文化人類学の思考法』(松村圭一郎・中川理・石井美保 編/世界思想社)が、緊急事態宣言発令下の本年5月に重版されたことも、人々の意識の変化を物語っているのではないか。
 そして、そんな「あたりまえ」が掻き消された日々のなかで、「学生に勧めたい本」としてしばしば書名を耳にするようになったのが、松村氏によって2019年12月に上梓されたばかりの本書だった。
 冒頭は、世界最古の大学イタリアのボローニャ大学の話からはじまる。
 そもそも大学とは何なのか。何のためにつくられたのか。大学は「学問」をする場所であって、それは中学や高校の学びの延長とは本質的に意味が違う。
 しかしそのことを、どれだけの大学生が理解し自覚しているだろうかと著者は問う。
 しかも、大学3年の秋になると学生たちは「就活」モードに入り、内定さえ取ってしまえば卒業までは単なる自由時間のように消費されてしまう。

大学という場に高校までとは異なる教育の意義があるとしたら、学生ひとりひとりに自分自身や社会のあり方を根底から問うための時間ときっかけを与えられることだと思います。(本書)

 オンラインの授業を経験して、おそらく学生以上に教員の多くが戸惑ったのではないだろうか。
 むしろ学生たちからは「従来の授業より集中できた」というような声も聞かれる一方で、教員たちはモニター越しの学生たちを前に「教える/学ぶ」とは何かということを、あらためて突きつけられたかもしれない。
 著者は本書のなかで、教育というものの本質が「贈り物」に似ているのではないだろうかと語る。
 贈り物は、相手にとって有用であるか否かより、贈った側がどのように相手のことを思って選んだかにより意味があり、それを目にするたびに相手を想起させるものだ。
 そうだとしたら、教育とは単に料金を支払って対価のサービスを受けるという営みではなくなる。

贈り物をとおして、贈る側と受けとる側が感情的な関係で結ばれるように、教育の場をとおして、教員と学生がともに、ある種の学びの関係を結ぶことに意味があります。(本書)

 そこでは、教えている側の教員もまた学び、教わっている学生もじつは教えている「双方向の関係」が生じていると語る。
 だからこそ、大学での「学び」は受動的なものであってはならず、学生の側の「学びたい」という思いが不可欠になる。

「これまで」を通して「これから」を考える

 それにしても、本書が出版された2019年の年末には、このようなパンデミックで社会の「あたりまえ」が覆る事態は、誰も想像していなかった。

システムから自由に逸脱できること、既存の枠組みをさらりと超えて考えられること、それがこれからの学びにとっても重要なはずです。(本書)

 新型コロナウイルスは、あらためて大学教育というものの本来の意味を私たちに問うてきている。
 グローバル化が叫ばれるなかで、大学教育の場もさまざまな変革を、政府や経済界から求められているように見える。大学側も短期的な数値目標を掲げて、競い合っている。
 本書は、その名のとおり〝これからの大学〟のあるべき姿を読者と一緒に考えるものだが、それはなにも近未来の大学像を論じるものではない。
 著者が繰り返し語るのは、〝これまでの大学〟にはどのような学びがあり、何が重要であったか。大学とは何か、という原点についてである。

大学という場は、人材の製造工場でも、不確かなコンセプトを学生を使って実験する場でも、できもしない目標を掲げて人を惑わす場でもありません。そこに生きている学生たちの営みがあり、卒業してからもずっと続く数々の人生があります。(本書)

 著者は、この本そのものが、これまで20年間、自分の目の前を通り過ぎていった学生たちから課された宿題に向き合ったものだと綴っている。
 現役の大学生はもちろん、これから進路を決めようとしている高校生にも、そしてすべての「学ぶ」人にも、今このときにこそ受け取ってもらいたい〝贈り物〟である。

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