連載対談 哲学は中学からはじまる――古今東西を旅する世界の名著ガイド

第4回 各教科と哲学のつながり――①科学(理科)と哲学(下)

(対談者)
福谷 茂(京都大学名誉教授、創価大学名誉教授)
伊藤貴雄(創価大学文学部教授)

 

中学生時代の自分にお勧めしたい哲学書(続き)
~伊藤「デカルトの『方法序説』」

編集部 伊藤先生は、中学時代の自分にお勧めするとしたらどんな哲学書でしょうか。

伊藤 やはり、デカルト(※)『方法序説』(山田弘明訳、ちくま学芸文庫)ですね。
 最近はとても読みやすい翻訳も出ています。しかも、内容は自伝的です。映画にもできそうなくらいです。
 さきほど福谷先生が三浦梅園を紹介した流れで、日本の思想家と対応する近世ヨーロッパの人物を考えていたのですが、文系と理系の両面を合わせ持つ「文理融合モデル」の人物として、デカルトが浮かんだのです。

 『方法序説』は大きく6つから成り立っています。
 第1部で、「学校での勉強は役に立たなかった。だから私は〈世界という書物〉を読むために旅に出た」と述べています。学校教育への反逆から始まるのが面白いですよね。

 第2部は、デカルトはすべての学問に共通する4つの規則を考えます。簡単にまとめると、

①いっさいの偏見を捨てること。
②問題をできる限り細かく分割すること。
③分割したものがきちんとつながるかどうか確かめること。
④自分の仮説で説明できていない事例がないか、必ず反省すること。

 

というものです。
 今で言えばアカデミックスキル(学問的技能・技能)の基礎のようなものです。
 「思い込みを捨てよ。対象は細かく限定せよ。ただし、分解したものを総合的に捉え直せ」と。これはどの教科にも当てはまります。
 しかもデカルト本人は数学者であり、幾何学者であり、物理学者であり、さらには解剖学の論文まで書いている。
 あまりに多岐にわたるので出版社から「共通する序文を書いてください」と言われてまとめたのが『方法序説』です。しかし長すぎたために「6つに分けてください」と頼まれた、という経緯もあります(笑)。

 第3部では、テーマが一気に変わる。「生きるとは何か」――。
 学問の世界では偏見を捨てる。しかし生活においてすべての思い込みを捨ててしまったら、生きることができない(笑)。だからデカルトは生活のために3つの〈暫定道徳〉(※)を立てます。

 暫定道徳で、特に印象に残っているのは、「一度決めたことは、迷わず進め。どんな疑わしい意見であっても」(趣意)という主張です。
 これに対して、ある友人から「最初に間違っていたら、ずっと間違うじゃないか」と言われた時、デカルトはこう答えています。
 「常に方向転換できる余裕さえあればよい。大事なのは決断し、貫くことだ」と。
 つまり、学問では徹底的に迷ってよい。しかし、生きる時には決断が必要なのだと。

 第4部で、ようやくあの有名な言葉が出てきます。

我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)

 
 第5部では、神の存在の証明から心臓や血液循環の話まで展開し、キリスト教神学との関係を論じます。

 そして第6部では、新しい学問を公に出版することの意味が語られます。

 デカルトの学問の方法ですが、どの教科にも通用するほど普遍的です。しかし、人生は学問だけでは測れない。自分が生きやすい方法――安心や安全、心理的な安定を確保することも大切だと述べている。
 デカルトというと「頭でっかちな哲学者」というイメージがありますが、実際には世の中を渡り歩く知恵も持っていた人なのだと感じました。
 学問と生活を分離しながら、しかし必要なところでは融合している。近世哲学の典型ですよね。

福谷 まさにそれこそ、デカルト哲学の核心部分だと思います。
 以前、伊藤先生と一緒に行った授業で、『デカルト=エリザベト往復書簡』(山田弘明訳、講談社学術文庫)を取り上げましたが、その時に同じことを感じました。
 科学者としてのデカルトと、生活者としてのデカルト――。この両立を矛盾ではなく肯定している。それこそがデカルトの哲学です。

※ルネ・デカルト(1596ー1650)…フランスの哲学者・数学者。近代哲学の父とされる。著書『方法序説』で「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」と述べ、確実な知識を得るためにはまず徹底的に疑う「方法的懐疑」を提唱した。心と体を別の実体とする「心身二元論」を唱え、近代科学の発展にも大きな影響を与えた。数学では「デカルト座標系」を考案し、解析幾何学の基礎を築いた。

※「暫定(ざんてい)道徳」…デカルトが『方法序説』で示した、確実な真理に到達するまでの仮の生活指針。①法と慣習に従う②決断したら迷わず実行する③自己を克服する④職業を選び知を探求する、という四原則から成り、理性の探究と日常生活を両立させるための暫定的な倫理である。

『デカルト=エリザベト往復書簡』(山田弘明訳、講談社学術文庫)

伊藤 面白いことに、この書簡集でデカルトは、人生に思い悩む弟子のエリザベトに向けて、「ときには学問的な思索からも自分を解放して、森の緑や、花の色や、鳥の飛翔などを眺めなさい」(趣意)と書いているんです。
 デカルトによれば、時間をよく用いるということは、たんに哲学的な思索をすることだけではなく、なんといっても健康に生きること、運動して心身のバランスを保つこと、体を鍛えることをも意味していました。
 デカルトは少年時代、低血圧で朝早くに起きられず、授業にはほとんど出席しなかったのに、試験はよくできたという逸話もあります。
 おそらくそういうこともあって、デカルト自身が非常に健康を気遣って、生理的な安定、血液の循環にも関心があり、それが血液循環の研究にもつながっていたのでしょう。
 つまり、デカルトの学問は、生活者としての自分がベースにあるのです。

福谷 医学との関係を、これほど重視する哲学者は近世では珍しい。後の哲学者は、医学にそこまでクローズアップすることはありません。

伊藤 そうですね。書簡の半分は、科学や数学の証明についての議論ですが、もう半分は「そんなことばかり考えていると不健康になりますよ。もっと健康に気を遣いなさい」と、弟子の生活を気遣う内容なんです。

福谷 普通、大学教授になってからは、そういう生活の問題を語るのを恥ずかしいと思いがちです(笑)。しかし伊藤先生が言われたように、デカルトはまったく矛盾と考えていない。
 「科学者としての自分」と「生活者としての自分」が両立できてこそ哲学である――そう思っていた。
 デカルトはよく「物心二元論」と言われますが、その具体的な姿がここにある。
 学問する自分と、生活する自分という2つがはっきり分かれていながら、しかし同じ人間として統合されている。そこがデカルトの哲学の重要なポイントです。

伊藤 学校の教科書では「デカルト的二元論」とだけ強調されますが、本人はむしろ共存を大切にしています。
 自分の生きている実感を言語化していくと、学問としての方法論と、生活のアドバイスがつながっていく。デカルトにとっては、どちらも「学問の序文」になるほど重要だったのです。
 学問を追求するだけではなく、素朴にそして誠実に、人生を大事にしようとする姿があります。

福谷 それは近世の哲学で、もっともおろそかにされがちな部分です。
 「哲学している自分こそが本当の自分で、生活は仕方なくやっている」と考えられがちですが、デカルトは違った。難しい問題を最初に片付けてしまった偉大さがあると、伊藤先生と一緒に学んでいて感じます。

伊藤 福谷先生と共に勉強しながら感じたのは、デカルトが非常に柔軟で、弟子たちから何でも吸収しようとする姿勢です。しかも、優秀な弟子たちがみな女性だったことも特徴的です。
 往復書簡の中で、エリザベトから鋭い質問が投げかけられます。
 「理性を重視しすぎではありませんか。感情や情念はどう考えるのですか」と。
 晩年のデカルトはその問いに本気で答えるために、『情念論』(感情論)を執筆する。
 理性だけでなく、表情と心拍数の関係、怒りのときの目つきなど、感情が身体に現れる具体的な観察を書き残した。
 それを読んだフランスの画家たちが『情念論』を読んで、人物画に応用し、フランス美術史に影響を与えた。
 ちなみに、デカルトのデビュー作は実は音楽論なんですね。数学や比例の理論を用いて音程を論じ、ハーモニーを追究する。
 音楽や絵画もデカルトが大きく飛躍させ、幾何学も代数学の発展にもデカルトは大きな役割を果たした。

福谷 一人でそれほどの領域の学問を兼ねることができた。17世紀というのは、まだそういう時代だったということなのでしょう。

哲学の先生に読んでもらいたい本
~伊藤「カッシーラーの『人間』」

伊藤 もう一人、「総合的な知」を体現した人物を挙げてみたいと思います。
 寺田寅彦と同時代に、「文理融合」を実践した、その代表とも言えるのがエルンスト・カッシーラー(※)です。
 ここからは、中高生向けというより、すでに哲学を学んでいる人たち向けの話になるかもしれません。
 カッシーラーは、医学、科学、天文学から、そして文学、芸術から宗教にまで及びます。まさに幅広い領域を扱った人です。
 ただしカッシーラーは、寺田寅彦のような随筆集という形で文章は残っていません。

福谷 カッシーラーの場合は、随筆を書く暇がなかったということかもしれません。

伊藤 そうですね。
 最も随筆に近いものといえば、カッシーラーの『人間 シンボルを操るもの』(宮城音弥訳、岩波文庫)かもしれません。

福谷 「エッセイ・オン・マン」(『人間』)は、確かにそうです。

『人間 シンボルを操るもの』(宮城音弥訳、岩波文庫)

伊藤 中学生や高校生の哲学のテキストとして使うには、少し難しいかもしれません。

福谷 指導する先生にとっては大変ですね。

※エルンスト・カッシーラー(1874ー1945)…ドイツの哲学者。新カント派に属し、文化哲学を展開した。代表作『象徴形式の哲学』では、人間を「動物的理性」ではなく「象徴をつくる存在(アニマル・シンボリクム)」として捉え、言語・神話・芸術・科学などを象徴形式として分析した。ナチス政権下で亡命し、スウェーデンやアメリカで研究を続けた。文化を通じて人間の精神を理解しようとした点で、20世紀哲学に大きな影響を与えた。

伊藤 カッシーラーは、人類史におけるさまざまな自然科学の歴史も扱っていて、最終的にはアインシュタインにまで到達します。カッシーラーは、自分の相対性理論の理解が正しいかどうかをアインシュタイン本人に確認して、「OK」と言われたといいます。
 当時ヨーロッパでは、人類学が発展し、キリスト教世界以外のさまざまな諸文明、諸文化、諸民族の宗教的なシステムが次々と明らかになってきていた。
 そうした蓄積を踏まえてカッシーラーは、いわゆる原始宗教も、人間が他人と現実を共有していく時に、その現実を記号化してコミュニケーションをしている――そうした共通の構造を持っていることに気づいた。
 結局、数学も科学も宗教も芸術も、すべて記号であり、人が現実を共有するためのコミュニケーションの力なのだ、と。

 彼はドイツ系ユダヤ人の哲学者で、ヒトラーのユダヤ人政策のために亡命し、世界中を転々としながら「記憶だけの図書館」で執筆した。つまり、実際に本を参照せず、自分の頭の中にある膨大な記憶の資料から引用して書いた。
 そのカッシーラーが英語で書いた論文集が『人間』です。
 問いは一つで、「人間とは何か――」です。
 人間が生きるということを、コミュニケーションの視点から考えた「文理融合」的な20世紀的な試みです。

福谷 おっしゃる通りだと思います。
 日本語の訳書では『人間』となっていますが、元のタイトルは『An Essay on Man』(エッセイ・オン・マン)です。これの出典は、アレグサンダー・ポープ(※)という詩人の詩のタイトルなんです。夏目漱石も東大の講義で取り上げています。
 つまりこのタイトルそのものが、「文理融合」している。
 ポープの時代に「人間とは何か」を論じたが、それをカッシーラーは20世紀にもう一度、違うスコープ(視野)で試みようとした。

※アレグサンダー・ポープ(1688-1744)…イギリスの詩人。18世紀の「新古典主義」を代表し、機知に富んだ風刺詩や格言的表現で知られる。代表作『人間論(An Essay on Man)』では、人間の理性と神の秩序を調和させようとした。『髪盗人(The Rape of the Lock)』は社交界を風刺した英雄詩風の作品で、当時の文学界に大きな影響を与えた。身体が病弱であったが、翻訳や批評活動にも力を注ぎ、英文学史上重要な位置を占める。

伊藤 カッシーラーは、「人間とは何か」という視点で、神話、宗教、言語、芸術、歴史、科学など万般を扱っていて、しかも引用されている文献は、21世紀の今でも宗教学、美学、言語学などでも必ず参照されるものばかりです。当時、100年後の21世紀でも残るであろう文献を選び抜いた、その眼力に驚きます。

福谷 ほんとうに、その通りだと思います。

伊藤 普通の学者が「100年後に大学の教科書に残る人物を挙げよ」と言われても、こんなに広い分野から選ぶことなどできないです。

福谷 有名な、いわゆる「ダヴォス討論」があります。ハイデガー(※)とカッシーラーがフェイス・トゥ・フェイスで行った論争ですね。1929年に行われ、その後のハイデガー研究でも依然としてよく取り上げられています。
 日本語訳もありますので読めばよく分かりますが、カッシーラーは完全に「エスタブリッシュメント(既成の秩序)」側の立場です。一方のハイデガーは「チャレンジャー(挑戦者)」です。
 学識的にはカッシーラーの方が安定しているんだけど、ハイデガーは、「エスタブリッシュメント」を、常に「ひっくり返す」「裏返す」「転覆させる」というようなことを、自身の哲学的な作業と考えているところがあります。

※マルティン・ハイデガー(1889-1976)…ドイツの哲学者。現象学を基盤に「存在論」を刷新した。代表作『存在と時間』では、人間を「現存在(ダーザイン)」と呼び、時間性を通じて存在の意味を問うた。彼の思想は実存主義や解釈学に強い影響を与え、現代哲学の基盤となった。ナチス政権との関わりが議論を呼んだが、哲学的業績は大きく、言語・芸術・技術論にも広がりを持つ。

伊藤 カッシーラーには、ゲーテからアインシュタインまで全部を論じようとする懐の深さがあります。
 中学生に紹介するには、やや難しいかもしれないですが、福谷先生がおっしゃる通り、中学生や高校生の哲学を指導する立場の先生方には、一度は触れてほしい本ですね。
 カッシーラーを通して改めて思うことは、やはり哲学は、文系・理系といった垣根を超えたもので、教科・科目というより、世界のいろいろな事象に対して、みずみずしい感覚を保つための知的なトレーニングということです。

福谷 『人間』の訳者である宮城音弥も、心理学者であって、狭義の哲学者ではありません。
 カッシーラーの『シンボル形式の哲学』を最初に翻訳したのも矢田部達郎という心理学者です。
 つまり、もともと哲学者だけを対象として書かれた本ではありません。しかし、心理学の文献が多く引用されているので、心理学者は興味を持つのですが、全てが心理学だけで捉えられる内容でもない。やはり根本には、哲学のスコープ(視野)がある。しかも、「記号」については、伊藤先生がおっしゃったように「コミュニケーションのツール」という側面があります。
 僕が開発している「ヘノロジー」というタイプの哲学では、「一(いつ)」と「多(た)」を問うことこそが、哲学の根本問題と見做します。
 つまり、主観・統合原理の「一」がどうやって、世界の諸現象・多様性・外的構造の「多」と関わるのか。逆に、「多」がどうして「一」にまとまるのか――これを考えるのが哲学です。
 せっかくですから、ヘノロジーについて少し詳しく解説したいと思います。
 ヘノロジーは「一者論」と訳すことができ、プロティノス(※)の「新プラトン主義」(※)を指す術語として一部の研究者によって使われている言葉です。
 これまで新プラトン主義をも一つの類型として含む広義のへノロジーの提唱と研究を続けてきました。
 狙いは、形而上学(※)を「存在の学」から、「『一』と『多』の多様な関係性を脱領域的に捉える学」へと解放することです。
 この観点から言うと、カントは認識の問題に関してヘノロジーを凝縮した哲学者だと位置付られます。
 相対性理論も数学も、それから神話も、すべては「どうやって人間が世界を捉えるか」ということでつながっています。
 世界の「多」というものを、人間の中に宿っている「一」というものが、どうやって自分のもとにまとめるのか――。
 この課題に答えた歴史として、神話的な思考から数学のような厳密な思考まで、狭義の「記号」を使うようなところにまで、カッシーラーの仕事は一本につながっている。

※プロティノス(204-270)…新プラトン主義の創始者で、著作『エネアデス』を通じて「一者」「知性」「魂」という三層構造を説いた。彼にとって世界は一者から流出する階層的秩序であり、哲学の目的は魂を浄化し、一者へ回帰することであった。プラトン思想を神秘的に深化させ、中世キリスト教思想やイスラーム哲学、中世スコラ学にも大きな影響を与えた。

※新プラトン主義…3世紀のプロティノスに始まる哲学潮流で、プラトン思想を神秘的に体系化したもの。

※形而上学…存在や本質、因果、時間、空間など経験を超えた根源的な問いを扱う哲学分野。アリストテレスが体系化し、後に西洋哲学の基盤となった。現象の背後にある普遍的原理を探究し、世界や人間の在り方を根本から考察する営みを指す。

伊藤 古代の神話や昔話の世界も、アインシュタインの相対性理論の世界も、すべては人間が世界を言語化し記号化する営みです。それは別々のものではなく、同じ人間が持つ複数のチャンネルでもある。

福谷 ええ、そうです。

伊藤 言い換えると、世界をまとめ上げる人間の「記号化」の営みがなければ、多様なものは現れてこない。同時に、現れた多様なものによって、人間の記号化する作用も引き出される。
 まさに哲学もそういうものです。英語、国語、数学、理科、社会、美術、図工、体育など、どの教科でも必ず知的な驚きや好奇心、哲学的な気づきがあって、それぞれの教科は活性化します。そこに、「哲学」が関わっている。
 ただし、個別の教科がなければ、ただ「知を愛する」と言うだけで、具体的な展開がない。哲学だけがあっても、何も生まれない。

福谷 おっしゃる通りです。

「哲学のルネッサンス」は「学問のルネッサンス」となる

伊藤 この対談の出発点であり、ある意味で結論でもあるのは、「哲学」とは独立した教科ではなく、どの教科とも接続する知恵であるということ。そしてどの教科も哲学的な発想に触れ、それを取り入れていくことで、それぞれに活性化し楽しくなるということです。

福谷 そうですね。レベンディッヒ(ドイツ語 lebendig、「生き生きする」の意)になる、そうした効能を期待できると思います。

伊藤 哲学はあらゆる教科と関われるからこそ、すべての教科を輝かせられます。

福谷 ええ。そのように、哲学に新しい性格付けを与えることができればいいなと思っています。
 僕は長野県の中学校の先生方の哲学の勉強会に25年間関わってきました。
 そこは大変長い伝統があり、非常に真面目に取り組んでいて、だからこそ続いているのですが、それだけに哲学の勉強が一種の「修行」になっているところがあります。
 たとえば、哲学書を最後まで読み切ることを原則にしていて、かつてはカントの『純粋理性批判』を読んだ世代もあったそうです。
 しかしこれから先、哲学が生き延びていくためには、あるいは学校教育の中に哲学を残していくためにも、「哲学」というものにもう少し緩やかな定義を与えてもいいんじゃないだろうかと思います。
 哲学書を最初から最後まで読むことは、もちろん大事なことだけれど、それによって他のタイプの哲学を排除することになってしまうなら、むしろ哲学の視野としては狭いんじゃないかとも思うんです。
 つまり、中学校の先生たちが日々の授業に、「哲学」を溶かし込むという方法があります。ざっくり言えば、どれだけ自分の頭を柔らかくできるかです。
 そもそも哲学の歴史には、実にさまざまなアイディアや切り口、思考を柔らかくするためのトレーニングが詰まっています。
 哲学という水源地から水道を引くように、各家庭に水を配っていく――そのような形で、先生方の勉強会を位置づけたらどうか、と提案をしたいと思っています。

 そして、これは伊藤先生や、さらに若い世代の人たちにも関わる話です。
 日本哲学会は2日制の学会ですが、その前日に前夜祭がある場合があり、そこで行っているのが「哲学カフェ」です。名前は哲学ですが、大学のアカデミックな哲学とはまた別の形での哲学のあり方を必死になって探っている。
 そんなに構えなくても、もっと自然に哲学をやる方法があるのではないかとも思っていますが、伊藤先生は、いかがですか。

伊藤 僕も「哲学書とはこういうものだ」というイメージを持っているし、それを大切にしたい気持ちはあります。
 しかし同時に、「これでなければ哲学者ではない」という思い込みは変えていかなければいけないですよね。

 この哲学対談は、中学校時代の読書の思い出から始まりました。
 そして「もし自分が中学生だったら、どんな本を勧めたいか」という視点で、福谷先生は三浦梅園、寺田寅彦を挙げられました。そこで僕も少しあやかって、デカルトやカッシーラーを出しました。
 デカルトを除けば、哲学の教科書にはあまり登場しない人物ですが、実はみな「哲学者」でもあります。
 もっと言えば、「哲学者とはこういう人」という固定観念は必要ないわけです。哲学とは私たち一人ひとりの知的な営みのことですから、本来、誰もが哲学者です。
 そして、私たちを思い込みの世界から、新鮮な驚きの世界へと連れていってくれるような本、ものの見方をリフレッシュしてくれる本は、すべて哲学的な本と言えます。
 その気持ちで向き合えば、どんな教科の、どんなトピックとも哲学は結びついているし、むしろそれこそが哲学ではないだろうか。
 この考えに立てたら、哲学のルネサンスもできるし、他教科の学びのルネサンスにもつながると思います。
 今日は、それぞれの立ち位置を確認し合う中で、福谷先生と同じ問題意識を共有しているとわかって、うれしい気持ちです。

福谷 それこそが現場の中学校が求めていることなんです。
 学校では教科ごとに教えるので、教科と教科をつなぐ関係づけが、あまりできていない。それをつなぐのが、まさに哲学の役割です。
 数学と国語、あるいは理科と社会がこうつながっている、と話してみると、大学生でも「知らなかった」というような反応が返ってきます。
 今は、各教科をそれぞれに教えています。けれども、それぞれの教科が思いがけないところで通じていた、ということもあります。
 それを大学生くらいになって初めて気づく人が多いのです。

伊藤 担当する教科に誇りやプライドを持つことは大事です。
 しかし同時に、他の教科やトピックへのリスペクトを持てるかどうかも重要です。
 「どんな学問も、自分の専門のトピックとつながっている」という発想を体現してきたのが偉大な哲学者たちですよね。彼らは、そういう生き方をしてきた巨人たちです。
 だからこそ哲学は、「この教科のこの単元はこういうものだ」という思い込みから、僕たちを解放してくれるものだと思うんです。

福谷 まさにカッシーラーがそういうことを言っています。
 彼の言葉の中に、哲学者たちが最も好きなことは、とても密接に関わっていることが全く別のことであったり、あるいは実は全く別のことが実は一つのことであることを明らかにすることである、と。

伊藤 そういう意味では、哲学は文脈をつなぐ言語作業だけではなく、諸学のネットワークを可視化していく営みですね。
 異分野や他分野を排除するのではなく、何でも楽しんでやっていこうという心構えを、哲学は励ましてくれる。

『学の形成と自然的世界』(三宅剛一著/みすず書房)の表表紙(上)と裏表紙(下)

福谷 西田幾多郎(※)の弟子に、三宅剛一(※)という有名な哲学者がいます。
 三宅剛一は、「哲学者は万学のアマチュアである」と述べていたそうです。三宅剛一の弟子だった先生から聞いたものです。

伊藤 (三宅剛一の『学の形成と自然的世界』を取り出して)この三宅剛一ですね(笑)。

福谷 そうです(笑)。
 いかにも碩学という、少し怖い顔の写真が本に載っています。
 しかし、伊藤先生の研究室はどんな本でも出てくる(笑)。

伊藤 「万学のアマチュア」っていいですね。すべての学問について自分はアマチュアである、というのは。

福谷 何にでも関心を持たなければならない。

伊藤 ある意味で、哲学者はアマチュアリズムを失わないというプロフェッショナルである。

福谷 最高のまとめです(笑)。
 「万学のアマチュア」ということを、恥ずかしく思ってはいけないんです。

伊藤 多くの本が目の前にあると、こういうふうに話が広がります(笑)。

福谷 僕と伊藤先生は、同じような本を読んできたようです(笑)。

編集部 そろそろ時間となりました。
 偉大な哲学者たちがとても身近に感じられるような素晴らしいお話をありがとうございました。
(第5回に続く)

※西田幾多郎(1870-1945)…大正・昭和期の哲学者。京都帝国大学教授。日本を代表する独創的な哲学者で、「純粋経験」や「場所の論理」を提唱し、西洋哲学と東洋思想を融合させた。主著『善の研究』は、日本近代哲学の出発点とされる。西田の思想は「西田哲学」と呼ばれ、京都学派の中心人物として多くの弟子を育て、日本哲学の基盤を築いた。

※三宅剛一(1895-1982)…昭和期の哲学者。京都大学教授。西田幾多郎らに学び、ドイツ留学でフッサールやハイデガーの現象学を習得。戦後は独自の「人間存在論」を展開し、科学・芸術・道徳など幅広い分野を哲学的に考察した。著書に『学の形成と自然的世界』『ハイデッガーの哲学』『人間存在論』『道徳の哲学』などがある。日本哲学会会長、日本学士院会員を務め、日本近代哲学の発展に大きく寄与した。

連載対談 哲学は中学からはじまる――古今東西を旅する世界の名著ガイド
 第1回 哲学を学ぶということ①~対談のはじめに
 第2回 哲学を学ぶということ②~本との出会いを語る
 第3回 各教科と哲学のつながり――①科学(理科)と哲学(上)
 第4回 各教科と哲学のつながり――①科学(理科)と哲学(下)
 第5回 (近日公開)