『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第104回 正修止観章 64

[3]「2. 広く解す」 62

(9)十乗観法を明かす 51

 ⑬大車の譬え

 この段の冒頭に、

 是の十種の法を、大乗の観と名づく。是の乗を学ぶ者を、摩訶衍と名づく。云何んが大乗なる。『法華』に云うが如し、「各おの諸子に等一の大車を賜う。其の車は高広にして、衆宝もて荘校す。周匝(しゅうそう)して欄楯あり、四面に鈴を懸く。又た其の上に於いて幰蓋(けんがい)を張り設け、亦た珍奇の雑宝を以て之れを厳飾し、宝縄交絡して、諸の華瓔(けよう)を垂れ、重ねて綩莚(おんえん)を敷き、丹枕(たんしん)を安置せり。駕するに白牛を以てし、肥荘にして力多く、膚色(ふしき)は充潔に、形体(ぎょうたい)は姝好(しゅこう)にして、大筋力(だいこんりき)有り。行歩(ぎょうぶ)は平正(びょうしょう)にして、其の疾(はや)きこと風の如し。又た、僕従(ぼくじゅう)多くして、之れを侍衛(じえ)せり」と。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。大正46、100上4~10)

とある。十乗観法を、大乗の観と名づけること、この乗(教え)を学ぶ者を、摩訶衍(大乗)と名づけることを示し、さらにどのようなものが大乗であるのかについて、『法華経』譬喩品の三車火宅の比喩の一部、すなわち父親が子どもたちに平等に、いわゆる大白牛車を与える部分を引用している(※1)。そして、この比喩の文を用いて、十乗観法を説明するのである。
 具体的に紹介する。一瞬一瞬の心を観察すると、法性実相でないことはないことを「等一の大車」と名づけ、一々の心について即空・即仮・即中であることを、「各おの大車を賜う」と名づけ、三諦の根源を貫き通すことを「高」と名づけ、十法界を収めることを「広」と名づけ、数限りない道品(三十七道品)を「衆宝もて荘校す」と名づけ、四正勤(四正断、四意断ともいう。四種の正しい努力のこと。律儀断[まだ生じない悪を生じさせないように努力すること]・断断[すでに生じた悪を断じようと努力すること]・随護断[まだ生じていない善を生じさせようと努力すること]・修断[すでに生じた善を増大させるように努力すること])によって悪を遮り善を保持し、さらに誓願がやって来て修行を保持し、釘(くぎ)や鑷(くさび)で強固にすることを「周匝して欄楯あり」と名づける。
 さらに、法無礙辯・義無礙辯・辞無礙辯によって、教えを明らかに述べ悟らせることを「四面に鈴を懸く」と名づけ、慈悲がくまなく覆って、慈悲が及ばないものや慈悲の限界がないことを「幰蓋を張り設く」と名づけ、三十七道品(四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道)に包摂されているもの、十力、四無畏、十八不共仏法が他と共通でないことを「珍奇の厳飾」と名づけ、四弘誓願(衆生無辺誓願度・煩悩無数誓願断・法門無尽誓願学・仏道無上誓願成)によって心を引き締めて退かないことを「宝縄交絡す」と名づけ、四摂法(布施・愛語・利行・同事)によって衆生を包摂して衆生が喜ばないことがないことを「諸の華纓を垂る」と名づけ、さまざまな禅三昧や六神通を起こすことを「重ねて綩莚を敷く」と名づけ、四門(有門・空門・亦有亦空門・非有非空門)によって根本に帰着し、さまざまな行を休ませることを「丹枕を安置す」と名づけ、四念処の智慧が八倒の黒いものを破り除くことを「駕するに白牛を以てす」と名づけ、四正勤の随護断・修断が二善を増大させることを「肥荘にして力多く」と名づけ、四正勤の律儀断・断断によって二悪を遮断し、二悪はいずれも清浄となることを「膚色は充潔に」と名づける。
 さらに、四如意足(欲・勤・心・観の四神足)・四無礙辯(法無礙辯・義無礙辯・辞無礙辯・楽説無礙辯)が自在であることを「形体は姝好」と名づけ、五根(信根・精進根・念根・定根・慧根)が強固であり、動かすことができないことを「筋」と名づけ、五力(信力・精進力・念力・定力・慧力)が増大して、さまざまな悪法を遮ることを「力」と名づけ、七覚支(択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・捨覚支・定覚支・念覚支)によって選択することを「行歩」と名づけ、八正道が安らかで穏やかであることを「平正」と名づけ、対治助道によって、広く諸法を包摂することを「又た僕従多くして之れを侍衛す」と名づけ、法愛・無明を破り、薩婆若(一切智)の海に入り、真無漏慧を生ずることが速やかであることを「其の疾きこと風の如し」と名づけると説明している。
 そして、結びとして、今、明らかにしたこの大乗の観、法門の具度(牛車の備えている装飾品や付属品)は、『法華経』と合致するので、大乗の観と名づけるのであると述べている。
 次に、一切法はすべて一乗であるので、心ある者は、一乗を備えないことはないとして、一乗と六即の関係について次のように述べている。要点を示す。心ある者が備える一乗を妙法と同一視して、この妙法を理乗と名づけること、如来が説かなければ、知ることができないが、教えを聞くことによって歓喜して受け入れることは名字乗であること、名を聞くことによるので、教によって修行して五品弟子の位(随喜品・説法品・読誦品・兼行六度品・正行六度品)に入ることを観行乗と名づけること、六根清浄を得ることを相似乗と名づけることが示される。さらに、三界から脱出して薩婆若(一切智)に到達して留まったり、留まらなかったりするが、もし初住、ないし十住に入るならば、これは真実乗を得ることになり、東方に遊び、十行は南方に遊び、十向は西方に遊び、十地は北方に遊ぶとされる。本文には名称が出ていないが、これは分真乗(※2)と名づけられるはずである。車輪が無限に回転するが、空を得て止まり、中央に止まることは、妙覚であるとされる。これも名称は出ていないが、究竟乗(※3)といわれるはずである。

(注釈)
※1 『法華経』の原文は、『摩訶止観』に引用されたものとほぼ同じであるので、改めて引用しない。大正9、12下18~24を参照。
※2 『法華玄義』巻第五下、「四十一位、分真乗」(大正33、745中5)を参照。
※3 『法華玄義』巻第五下、「妙覚、究竟乗」(同前)を参照。

(連載)『摩訶止観』入門:
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