『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第99回 正修止観章 59

[3]「2. 広く解す」 57

(9)十乗観法を明かす㊻

 ⑨助道対治(対治助開)(6)

 通教と別教については、説明を省略する。円教については、

 復た次に、若し『殃掘摩羅経(おうくつまらきょう)』に、「所謂(いわゆ)る彼の眼根は、諸の如来に於いて常なり。具足して減無く修し、了了分明に見る」と云うが如くならば、彼は是れ九法界の眼根なり。「如来に於いて常なり」とは、九界は自ら各各真に非ずと謂うも、如来は之れを観ずるに、即ち仏法界にして、二無く別無し。「減無く修す」とは、諸根を観ずるに、即ち仏眼なり。一心三諦、円因は具足して、缺減有ること無し。「了了分明に見る」とは、実を照らすを「了了」と為し、権を照らすを「分明」と為す。三智は一心の中にあり、五眼は具足し、円かに照らすを、名づけて了了に仏性を見ると為すなり。「見る」は、円証を論じ、「修す」は因円を論ず。又た、「具足して修す」とは、眼根を観じて、二辺の漏を捨つるを、名づけて檀と為す。眼根は二辺の傷つくる所と為らざるを、名づけて尸と為す。眼根は寂滅して、二辺の動ずる所と為らざるを、名づけて羼提(せんだい)と為す。眼根、及び識は自然に薩婆若海(さばにゃかい)に流入するを、名づけて精進と為す。眼の実性を観ずるを、名づけて上定と為す。一切種智を以て、眼の中道を照らすを、名づけて智慧と為す。是れ眼根の「具足して減無く修す」と為す。減無く修するが故に、了了分明に眼の法界を見る。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、95中9-23)

と述べている。ここでは、『央掘魔羅経』の文を引用して(※1)、その意味を解釈している。つまり、「彼の眼根」とは、九法界の眼根である。「諸の如来に於いて常なり」とは、九界は九界の衆生にとっては真実ではないと思われるけれども、如来から観察すると、とりもなおさず九界は仏法界である。「減無く修す」とは、肉眼・天眼・慧眼・法眼を観察すると、すべて仏眼であり、一心三諦、円かな因が完備して、欠けることがないとされる。「了了分明に見る」とは、「了了」が実を照らすことで、「分明」が権(方便)を照らすこととされる。合わせて権実を照らすことになるが、照らす対象は、仏性とも言い換えられていると思われる。というのは、一切智・道種智・一切種智の三智が一心のなかにあり、五眼が完備して、円かに照らすことを、「はっきりと仏性を見る」と名づけると述べられているからである。
 次に、六度との関係について説明している。つまり、眼根を観察して、二辺(二つの極端)の漏(煩悩)を捨てることが檀(布施)であり、眼根が二辺に損なわれないことが尸(śīlaの音写語、尸羅の略。戒のこと)であり、眼根が静まりかえって、二辺に動揺させられないことが羼提(kṣāntiの音写語で、忍辱のこと)であり、眼根や識が自然に薩婆若(一切智)海に流入することが精進であり、眼の実性(真実の本性)を観察することが上定であり、一切種智によって眼の中道を照らすことが智慧であると規定されている。
 眼根と同様に、他の五根も如来たちにとって常住であり、完備し、減少することがなく修行し、はっきりと明瞭に知るといわれる。六根の一々の根にとって即空・即仮・即中であり、三観を一心において行なうことを、「減少することがなく修行する」と名づけ、慧眼・法眼・仏眼を証得し、一心のなかに得ることを、「はっきりと見る」と名づけるとされる。根と同様なことは、根の対象である塵(六境)についてもいえ、一切の諸法も同様であるとされる。以上が円教によって六根を調伏し、六度を満たすことであるとされる。これは究極的に調伏し、究極的に満たすことであり、このような助道が究極的な覚り(道)を助けるものとされる。
 次に、六度はくまなくすべての根を調伏することができることを知るべきであるとして、『大品般若経』の「施者・受者・財物は、不可得なるが故に、檀波羅蜜を具足す」(※2)を引用して、施者(布施する者)・受者(布施を受ける者)・財物は、実体として捉えることができないので、檀(布施)波羅蜜を完備すると述べている。施者・受者・財物の三事が空であって、これに執著することがなくて(これを三輪清浄という)はじめて布施波羅蜜(布施の完成)というのである。事はその物惜しみするもの(身体・生命・財産)を破って財を捨てることができることであり、理はその物惜しみする心を破ってもの(身体・生命・財産)を捨てることができることである。物惜しみするものと心の二つとも破り、捨て、体(理施)と用(事施)が完備することを、檀(布施)波羅蜜と名づけると示される。
 次に、六度が仏の威儀(礼儀にかなった振る舞い)を包摂することについて、仏は十力、四無畏、十八不共仏法などを威儀とし、一心のなかで四種(蔵教・通教・別教・円教の四教)の道品を修行することを、仏の威儀を身につけることと名づけると述べ、仏眼・仏智を証得することを、仏の威儀を得ることと名づけるとしている。そして、十七道品に焦点をあわせて、十力を包摂することを明らかにするとして、蔵教・通教・別教・円教の四種の道品は、蔵教・通教・別教・円教の四種の四諦の智と同じとし、四諦を用いて、十力について説明している。『摩訶止観』のこの段では、十力とは、是処非処力(道理とそうでないことを区別する智力のこと)・業報智力・知禅定力・根力・欲力・性力・知至処道力(衆生がさまざまな場所に生まれ変わることを知る力)・知宿命力(過去世の家柄の良し悪しや寿命の長短を照らす智力)・天眼力(未来の生まれる場所の良し悪しを照らす智力)・漏尽力を指す。
 次に、十力は仏の威儀であるので、どうして菩薩の初心に学ぶことができ、獲得することができるのかという問題を提起して、さまざまに議論を展開している。この趣旨についていえば、助道は初心に位置づけられるが、十力は果の位に位置づけられるので、どうして初心に果の十力を包摂することができるのかというものである。『大智度論』、『華厳経』、『菩薩地持経』を引用して、初心に十力を学ぶことを認めているが、説明は省略する。
 結論的に、道品、六度、十力の関係について、『摩訶止観』には「道品・六度、及び仏の十力は、宛転(おんでん)して相い摂すること、皆な上に説くが如し。若し道品・六度を修せば、即ち是れ仏の十力を修す。若し諸根を調伏し、六度を満足するは、即ち是れ十力を満足し、仏の威儀に住して、異なること無きなり」(同前、96中b10~-13)と述べている。道品、六度、仏の十力がたがいに包摂し、もし道品、六度を修行すれば、仏の十力を修行することになり、もし六根を調伏し、六度を満たせば、十力を満たし、仏の威儀に留まって、仏と相違がないことを指摘している。
 次に、道品に四無所畏を包摂することについて説明している。四無所畏は、ここでは、一切智無畏(最高の正しい覚りを得たと断言することに畏れを持たないこと)・障道無畏(煩悩について弟子たちに説くことに畏れを持たないこと)・尽苦道無畏(苦を滅する出離の道について弟子たちに説くことに畏れを持たないこと)・無漏無畏(煩悩を永久に消滅させたと断言することに畏れを持たないこと)をいう。
 次に、道品が、十八不共法(※3)、四無礙智、六神通、三明(天眼明・宿命明・漏尽明)、陀羅尼、三十二相を包摂することについて述べているが、説明は省略する。
 これで、助道対治(対治助開)の段を終わる。

(注釈)
※1 原文は、『央掘魔羅経』巻第三、「所謂る彼の眼根は、諸如来に於いて常にして、決定して分別して見、具足して減損無し」(大正2、531下24~26)を参照。なお、『央掘魔羅経』のこの文に対する関心は、慧思『法華経安楽行義』の思想(大正46、699下を参照)を引き継ぐものであろう。
※2 『大品般若経』巻第四、辯才品、「菩薩摩訶薩は檀那波羅蜜を行ずる時、薩婆若に応ずる心もて布施し、声聞・辟支仏地に向かわず。舎利弗よ、是れ菩薩摩訶薩、檀那波羅蜜を行ずる時の尸羅波羅蜜の大誓荘厳と名づく」(大正8、245上19~22)を参照。
※3 一般的には、十力・四無所畏・三念住・大悲を指すが、『摩訶止観』のこの段では、『大品般若経』の所説を指す。『大品般若経』巻第五、広乗品、「復た次に須菩提よ、菩薩摩訶薩の摩訶衍は、所謂る十八不共法なり。何等か十八なる。一に諸仏の身に失無く、二に口に失無く、三に念に失無く、四に異相無く、五に不定の心無く、六不知已捨の心無く、七に欲に減ずること無く、八に精進に減ずること無く、九に念に減ずること無く、十に慧に減ずること無く、十一に解脱に減ずること無く、十二に解脱知見に減ずること無く、十三に一切の身業は智慧に随いて行じ、十四に一切の口業は智慧に随いて行じ、十五に一切の意業は智慧に随いて行じ、十六に智慧もて過去世を知見するに閡(げ)無く障無く、十七に智慧もて未来世を知見するに閡無く障無く、十八に智慧もて現在世を知見するに閡無く障無し。須菩提よ、是れ菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。不可得なるを以ての故なり」(大正8、255下24~256上6)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。2025年、第1回日本印度学仏教学会学術賞を受賞。