百年分の記憶が入り乱れるマジックリアリズム小説
石井遊佳(いしい・ゆうか)著/第158回芥川賞受賞作(2017年下半期)
エネルギッシュなインドの混沌
「百年泥」で芥川賞を受賞した石井遊佳は、初候補での受賞。当時54歳。
舞台は、インド南部の街チェンナイ。百年に一度の大洪水で街中が水浸しとなった。主人公の「私」は、勤務先である日本語教室に歩いていくため、川にかかる大きな橋を渡ろうとしたのだが、そこは行き交う人と車で大混乱。しかも、橋の両端には山のように積み上げられた泥と廃棄物で溢れていた。その泥は、川底に長年蓄積されてきた、まさに百年分の汚泥であり、その百年分の記憶が白日の下に晒されたのだ。
作品は、現実世界をリアルに描写しながら非現実的で幻想的な要素を織り交ぜていくマジックリアリズム小説である。現実である日本語教室での授業の様子をベースに置きながら、大洪水で混乱する橋の様子の中にさまざまな幻想を入れ込んでいく。
具体的に言えば、橋の端に積み上げられた泥の中から、行き交う人々が過去につながるさまざまな物を発見し拾い上げていくのである。幼少期に行方不明になった息子を泥の中に発見し引っ張り出す母親。長い間、泥の中で眠り続けた親友を見つけて引っ張り出した男等々――。
「私」自身もそこで大事なものを拾い出す。離婚した夫との関係を思い出すウイスキーボトル、極端に無口な母親との記憶を引き出した人魚のミイラ等々だ。そこからは、主人公を含め、川の周辺で暮らすインド人たちの過去の時間が鮮やかに、そして生々しく匂い立ってくる。
読み終わって頭が混乱したのは、あまりにも多くの物語が無造作にバラ撒かれているように感じたことだ。主人公を中心とした登場人物が、時系列に沿って目指すべき方向性を保ちながら進んでいくのではなく、時間と空間が入り乱れ、現実と幻想が交錯し、喧騒と静寂の両極端が無秩序に現れてくる。まるでコラージュである。
吉田修一の選評。
百年泥という発想の独創性は言うまでもなく、自分でも整理できなくなったイメージが次々に投げつけられるようで疾走感もある。(中略)感覚と体験の混濁
宮本輝。
「百年泥」は、それでなくとも混沌としているインドの、洪水のあとのチェンナイという街の、どうにもならない混乱の泥のなかから幻想や妄想が掘り出されていく。(中略)おそらくそういう手法でなければ描きようのないインドと、そこに暮らす人々の精神性を活写して見事である
堀江敏幸。
泥からあがった記憶と奇想の車輪が徐々に制御不能に陥っていく勢いのなかに、この書き手の目にしか映らない言葉の破片が散っている
つまり、混沌としたこの構成こそが、エネルギッシュなインドの混沌を描くのにふさわしかったわけである。
喧騒と静けさ
こうしたなかでひときわ質感を異にするのが、「私」の母親の記憶である。極端に言葉が少なかった母親は、病的なほど話さなかった。しかし、そこに漂っている静寂を「私」は愛していて、その沈黙の中から多くの意味を受け取っていたのである。
幼い日、母と一緒によもぎ摘みに出かけた川の堤防。その堤防の土に母の足あとがつく。母は、その足あとを振り返り子どもっぽい顔をする――。母との回顧のなかの作者の次の一文は心に沁みる。「私にとってはるかにだいじなのは
小川洋子の選評に深く納得した。
チェンナイの騒々しさの中、堤防に残された母の足あとが、百年分の泥に埋もれても消えない、〝私〟にとっての定点となっている。(中略)すべてを飲み込むのは泥ではなく、母の無言なのだ、と気づいたとき、圧倒される思いにとらわれた
混沌として喧騒に溢れるインドの人々の百年の記憶を包み込んだ汚泥から、「私」自身もさまざまな自らの記憶を引っ張り出すのだが、何も語らなかった母の無言こそが「私」にとってもっとも確かで大切な記憶なのである。喧騒と静けさ、饒舌と無言、その対比のなかに「私」の生の手触りがはっきりと感じられる。
「芥川賞を読む」:
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