『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第94回 正修止観章 54

[3]「2. 広く解す」 52

(9)十乗観法を明かす㊶

 ⑨助道対治(対治助開)(1)

 今回は、十乗観法の第七、「助道対治」(対治助開)の段について説明する。十乗観法については、前の観法が成功しない場合に、次の観法に移るという流れとなっているので、ここでも、第六の「道品調適(どうほんじょうじゃく)」が成功しない場合に、「助道対治」が必要となるということである。
 この段の冒頭には、

 第七に助道対治とは、『釈論』に云わく、「三三昧は一切の三昧の為めに本と作(な)る」と。若し三三昧に入らば、能く四種三昧を成ず。根は利にして遮無くば、清涼池に入り易し。対治を須(もち)いず。根は利にして遮有らば、但だ三脱門を専らにするに、遮も障(さ)うること能わず。亦た助道を須いず。根は鈍にして遮無くば、但だ道品を用(もっ)て調適(じょうじゃく)するに、即ち能く鈍を転じて利と為す。亦た助道を須いず。根は鈍にして遮重くば、根は鈍なるを以ての故に、即ち三解脱門を開くこと能わず、遮の重きを以ての故に、牽(ひ)いて観心を破す。是の義の為めの故に、応に治道を須いて遮障を対破すべし。則ち安隠に三解脱門に入ることを得。『大論』に「諸の対治は是れ門を開くを助くる法なり」と称するは、即ち此の意なり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、91上5~14)

と述べられている。ここでは、まず『大智度論』を引用して、空・無相・無作の三三昧がすべての三昧の根本であることを示したうえで、三三昧に入れば、四種三昧を成就することができると述べている。そして、根(能力)の利鈍と遮(遮障、さえぎるもの)の有無を組み合わせて、次のように四句分別をしている。第一に根が鋭く遮るものがない場合、第二に根が鋭く遮るものがある場合、第三に根が鈍く遮るものがない場合、第四に根が鈍く遮るものがある場合(引用文では、「重い」場合)である。このなかで、前の三つの場合は、対治の道が必要ないとされる。ただ第四の場合は、根が鈍いので三解脱門を開くことができず、遮るものが重いので観心を破るとされるので、対治の道が必要となり、これによって遮るものを破るべきであると述べている。そして、遮るものを破ることによって、安穏に三解脱門に入ることができるとされる。
 「助道対治」の段は、この第四の者に対する助道について説明するものである。『摩訶止観』には、「助道は無量なり。前の通塞の意の中に、六蔽に約して遮を明かす。宜しく六度を用て治を為し、助道を論ずべし」(同前、91上19~20)とあり、助道は無量であるけれども、六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜)によって、六弊(慳心・破戒心・瞋恚心・懈怠心・乱心・癡心)を対治することを中心的に説明するという方針を示している。
 ここでは、「慳心」(慳貪ともいわれる)についての説明を紹介する。『摩訶止観』には、「若し人は四の三昧を修し、道品調適せば、解脱は開けずして、慳貪(けんどん)は忽ちに起こり、観心を激動し、身・命・財に於いて、守護し保著せん。又た、貪覚縁想して、須らく欲念は生ずべし。作意して遮止すと雖も、慳貪は転(うた)た生ぜば、是の時、当に檀捨を用て治を為すべし」(同前、91上20~24)とある。
 もし人が四種三昧を修行し、三十七道品が調えられても、解脱の門は開かれず、物惜しみして欲深いことがたちまち起こり、観心を激しく動揺させ、身体・生命・財産について守り執著することになる。さらに貪欲の思いが生じて、願望の思いが生じるにちがいない。これらの貪欲の思いなどを努力して遮り止めようとしても、逆に物惜しみして欲深いことがいっそう生じるならば、このときは布施によって対治するべきであると指摘している。
 同じように、破戒の心が起こる場合は、尸羅(戒)によって対治し、怒りが乱れ荒れ狂う場合は、忍耐によって対治し、節度なく怠ける場合は、精進によって対治し、心が散乱して落ち着かない場合は、禅定によって対治し、愚かで迷い、断見・常見に執著し、人我(アートマン)・衆生・寿命があると思い込む場合は、智慧によって対治するべきであると述べている。
 次に、助道である六度が一切法を包摂することを説明している。とくに六度のそれぞれが三十七道品とどのような包摂関係にあるのかを示し、また蔵教・通教・別教・円教それぞれの六度の相違を説明している。ここでは、布施波羅蜜について少し詳しく説明する。
 最初に、布施波羅蜜が七覚分(択法・精進・喜・軽安・捨・定・念)の一つである捨覚分を包摂することについて詳しく示している。
 第一に三蔵教の捨覚分に関しては、理に入らないけれども、また身体・生命・財産を捨てることができ、六度を完備し、広範に衆生に利益を与えることができるとされる。さらに捨は油のようなものであり、布施波羅蜜以外の五度の光明を増すことができるとされる。第二に通教の捨覚分に関しては、身体・生命・財産を捨てることは幻のようであり作り出したもののようなものであり、すべて空であるとされる。第三に別教の捨覚分に関しては、身体・生命・財産のなかの無知惑(塵沙惑)を捨てるとされる。
 第四に円教の捨覚分に関しては、詳しい説明が示されているが、要点のみを記す。円教の捨覚分は、十法界の身体・生命・財産を捨てることができる。このような身体・生命・財産はすべて有の辺と空の辺の二辺(二つの極端)に入らないと述べられている。理観(理についての観察)の円教の捨覚分は、三十七道品に合致し、布施波羅蜜に包摂されることを述べている。ただし、理観は深遠微妙であるが、具体的な布施行を保ち続けることはないと指摘されている。
 これに対して、三蔵教のなかでは、事施(具体的な布施)は盛んである。しかし、理観はまったくない。このように、理観はあるが事施がないことと、事施はあるが理観がないことには、どちらも過失がある。事施と理観は、連動しており、おたがい離れることができないと述べている。(この項、つづく)

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。