『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第93回 正修止観章 53

[3]「2. 広く解す」 51

(9)十乗観法を明かす㊵

 ⑧道品を修す(3)

 (4)無作の道諦の三十七道品

 次に、無作(円教)の道諦の三十七道品を明らかにして、一心三観の意義を完成することについて説明する。はじめに、『大品般若経』、『華厳経』、『法華経』を以下のように引用している。

 『大品』に云わく、「一切種を以て四念処を修せんと欲せば、念処は是れ法界にして、一切の法を摂す。一切の法は念処を趣(しゅ)とし、この趣をば過ぎず」と。『華厳』に云わく、「譬えば大地は一なるも、能く種種の芽を生ずるが如し」と。地は是れ諸芽の種なり。『法華』に云わく、「一切の種・相・体・性は、皆な是れ一の種・相・体・性なり」と。何をか「一の種」と謂うや。即ち仏の種・相・体・性なり。常途(じょうず)に云わく、「『法華』は仏性を明かさず」と。『経』に「一の種」を明かす。是れ何の一種なるや。卉木(きもく)叢林(そうりん)の「種種」は、七方便を喩う。大地の一種は、即ち「一実事」にして、「仏種」と名づく。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、88中14~21)

と。『大品般若経』の引用文は、一切の種によって四念処を修行しようとすれば、四念処は法界であり、一切の法を包摂し、一切の法は、四念処を拠り所とし、この拠り所を超えないという内容である(※1)。『華厳経』の引用文は、大地は一つであるが、種々の芽を生ずることができるようなものであるという内容である(※2)。そして、大地は多くの芽の種という意味である。『法華経』の引用文は、「一切の種(種類)・相(特徴)・体(本体)・性(性質)」は、すべて「一つの種・相・体・性である」という内容である(※3)。「一つの種」とは、仏の種・相・体・性であると説いている。したがって、一般には、『法華経』には仏性を明らかにしないという意見があるが、『法華経』には「一種」を明らかにしているのであり、この一種は、「一実事」(※4)であり、「仏種」(※5)のことであるので、『法華経』には仏性を説いていると示している。

 ①四念処

 はじめに四念処の身念処について、次ように説いている。

 今、一念の心起こるに、不可思議なるは、即ち一切種なり。十界の陰・入は、相い妨礙せず。若し法性は因縁より生ずるが故に、一種は一切種なりと観ぜば、則ち一色は一切色なり。若し法性は空なるが故に、一切色は一色ならば、則ち一空は一切空なり。法性は仮なるが故に、一色は一切色ならば、一仮は一切仮なり。法性は中なるが故に、一に非ず一切に非ず、双べて一・一切を照らす。亦た空に非ず仮に非ず、双べて空・仮を照らすと名づけば、則ち一切は空に非ず仮に非ず、双べて空・仮を照らすなり。九法界の色は即空・即仮・即中なることも、亦復た是の如し。是れ身念処と名づく。(同前、88b21~28)

 ここでは、法性が因縁から生じる立場、法性が空である立場、法性が仮である立場、法性が中である立場を順に取りあげている。法性が因縁から生じる場合は一色=一切色となり、空である場合は一切色=一色となり、一空は一切空となり、仮である場合は一色=一切色となり、一仮=一切仮となる。中である場合は、一色でもなく一切色でもなく、一色と一切色をどちらも照らすこととなり、また一色は空でもなく仮でもなく、空と仮をどちらも照らすので、一切色は空でもなく仮でもなく、空と仮をどちらも照らすことになるのである。『中論』の三諦偈の因縁生(あらゆるものが因縁から生じること)・即空・即仮・即中の四句によって、議論を進めていることがわかる。引用文の冒頭にある「一切種」は十界であり、「一種」は仏界を指すと思われる。したがって、以上の説明は仏界の色についてのものであるので、他の九界について、末尾に「九法界の色は即空・即仮・即中なることも、亦復た是の如し」といわれているのである。色は身を指すので、以上が身念処についての説明となる。
 身念処の説明の仕方は、受念処、心念処、法念処にも適用されている。心は五陰の識陰に当たるので、法は具体的には想陰・行陰と言い換えられて説明されている。
 そして、四念処を結ぶに当たって、

 是の如く念処の力用は広博にして、義は大小を兼ね、俱に八倒を破し、双べて栄・枯を顕わし、双べて栄・枯を非(ひ)す。即ち中間に於いて般涅槃に入る。亦た坐道場と名づけ、亦た摩訶衍と名づけ、亦た法界と名づく。(同前、88下16~19)

と述べて、念処の力用は広大であり、意義は大乗・小乗を兼ね備え、ともに八倒を破り、栄・枯をどちらもあらわし、栄・枯をどちらも否定すること、つまり、栄える樹と枯れる樹の中間で般涅槃に入ること、道場に座るとも名づけ、摩訶衍(大乗)とも名づけ、法界とも名づけることを明らかにしている。
 八倒については、無常・苦・無我・不浄である世間の法を常・楽・我・浄であるとする誤った四種の見解と、常・楽・我・浄である涅槃の法を無常・苦・無我・不浄であるとする誤った四種の見解を合わせて八倒という。栄える樹と枯れる樹の中間で般涅槃に入ることについては、釈尊が涅槃に入るとき、東西南北の四方に娑羅の双樹があり、それぞれの方角の双樹のうち、一本が枯れ、一本が栄えたので、四枯四栄という。二乗が凡夫の四倒を破って、世間の法について苦・空・無常・無我を正しく観じることを四枯といい、菩薩が二乗の四倒を破して、涅槃の法について常・楽・我・浄を正しく観じることを四栄という。
 次に、法性の色・受・心・法について、顚倒の実態について詳しく述べているが、説明は省略する。また、四念処によって、涅槃に入らなければ、三十七道品の他の六科について順に修行するべきことを明らかにしているが、説明は省略する。
 次に、「復た次に、三十七道品を行じ、将に無漏城に到らんとするに、城に三門有り。若し此の門に入らば、即ち真を発することを得、空・無相・無作の門を謂う。亦た三解脱門と名づけ、亦た三三昧と名づく」(同前、90上27~下1)と述べ、三十七道品を修行して、無漏の城に入るのに、三門があると指摘し、その三門とは空・無相・無作の三解脱門であることを明らかにしている。三解脱門に関して、蔵教・通教・別教・円教の四教における三解脱門の説明をしている。ここでは、円教についてのみ、取りあげよう。

 別して円に約せば、名は前に同じと雖も、意義は大いに異なる。『大論』に云わく。「声聞は空を縁じて、三解脱を修し、菩薩は諸法実相を縁じて、三解脱を修す」と。智者は、空、及与(およ)び不空を見る。此の空・不空は、亦た中道と名づく。若し此の空を見ば、即ち仏性を見る。(同前、90中27~下2)

と述べている。『大智度論』の原文は、「声聞は空を対象として三解脱を修行し、菩薩は諸法実相を対象として三解脱を修行する」という内容であるが、その原文は、『大智度論』巻第二十の「阿毘曇の義の中は、是れ空解脱門にして、苦諦を縁じ五衆を摂す。無相解脱門は、一法を縁ず。所謂る数縁尽なり。無作解脱門は、三諦を縁じ五衆を摂す。摩訶衍の義の中は、是れ三解脱門にして、諸法実相を縁ず。是の三解脱門を以て、世間は即ち是れ涅槃なりと観ず。何を以ての故に。涅槃は空・無相・無作にして、世間も亦た是の如し」(大正25、207下15~20)である。ここには、三解脱門という同じ名称を使っていても、阿毘曇と大乗では意味が相違していることを説明している。なお、引用文の「三諦」は、四諦から苦諦を除いた、集諦・滅諦・道諦を指し、「五衆」は色・受・想・行・識の五陰を指す。
 さらに、智者は空と不空を見ること、この空・不空は中道とも名づけられること、もしこの空を見れば、すぐに仏性を見ることが示されているが、これは、『南本涅槃経』巻第二十五、師子吼菩薩品、「智者は、空、及与(およ)び不空、常と無常、苦と楽、我と無我を見る。空とは、一切生死なり。不空とは、大涅槃を謂う。乃至無我とは、即ち是れ生死なり。我とは、大涅槃を謂う。一切空を見て、不空を見ざるを、中道と名づけず。乃至、一切無我を見て、我を見ざるは、中道と名づけず。中道とは、名づけて仏性と為す」(大正12、767下20~25)に基づく文章である。
 以上で、道品調適の説明を終える。

(注釈)
※1 『大品般若経』巻第十五、知識品、「一切法は四念処、乃至八聖道分に趣き、是の趣をば過ぎず。何を以ての故に。四念処、乃至八聖道分は、畢竟不可得なるが故なり。云何んが当に趣・不趣有るべけん」(大正8、333下9~12)を参照。「趣」はガティ(gati)の訳で、依りどころの意である。
※2 『六十巻華厳経』巻第五、菩薩明難品、「猶お大地の一、能く種種の芽を生ずるに、地に性として別異無きが如し。諸仏の法も是の如し」(大正9、428上16~17)を参照。
※3 『法華経』薬草喩品、「唯だ如来のみ有って、此の衆生の種相体性、何なる事を念じ、何なる事を思い、何なる事を修し、云何に念じ、云何に思い、云何に修し、何なる法を以て念じ、何なる法を以て思い、何なる法を以て修し、何なる法を以て何なる法を得ということを知ればなり。衆生の種種の地に住せるを、唯だ如来のみ有って、実の如く之れを見て、明了無礙なり。彼の卉木・叢林・諸の薬草等の、而も自ら上中下の性を知らざるが如し。如来は是れ一相一味の法なりと知れり」(同前、19中26~下3)を参照。
※4 『法華経』薬草喩品、「今、汝等が為めに、最実事を説く」(同前、20中22)を参照。
※5 『法華経』方便品、「仏種は縁従り起こる。是の故に一乗を説く」(同前、9中9)を参照。『法華玄義』巻第十上には、「『仏種は縁従り起こる』は、即ち縁因仏性なり」(大正33、803上10)、『法華文句』巻第四下には、「『仏種は縁従り起こる』とは、即ち是れ縁・了なり」(大正34、58上7)とあるように、「仏種」を縁因仏性、あるいは了因仏性を指すと解釈している。

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