芥川賞を読む 第58回 『火花』又吉直樹

文筆家
水上修一

お笑い芸人を題材とした青春小説

又吉直樹(またよし・なおき)著/第153回芥川賞受賞作(2015年上半期)

芸人という人種の切なさ

 お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹の小説「火花」が芥川賞を受賞したのは、社会的事件と言えるものだった。2015年上半期の芥川賞の選考会は同年7月に行われたが、3月発売の文芸誌『文學界』に同作品が掲載された時点で大反響を呼び、文芸誌には珍しい大増刷の結果60万部もの売り上げに繋がったのだ。しかも、純文学の文芸誌なのに、購読者のほとんどが10代という異例の大ブームとなった。
 こうした加熱するマスコミ報道があったためか、選考委員の中にはそうした風潮に身構えた者もいただろう。実際、選考委員の宮本輝は、

マスコミによって作られたような登場の仕方で、眉に唾のような先入観さえ抱いていた。しかし読み始めると、生硬な「文学的」な表現のなかに純でひたむきなものを感じ始めた

と述べているように、選考委員の多くは、純粋に文学作品として評価に値すると感じたからこそ芥川賞受賞に至ったのだろう。
 筆者も、本作を読み物としておもしろく読めた。感動という種類のものは、芥川賞の必須要件ではない気がするが、本作ではそれを素直に味わうことができたし、登場人物の人生の余韻が読後胸中に静かに残ったのも久しぶりだった。難解な文章やエキセントリックな技法を駆使することなくストレートに物語を展開している点も安心できた。
 物語の題材は、漫才師。世間受けするお笑いよりも自分自身がおもしろいと思うお笑いを追求する先輩芸人・神谷と、彼をお笑いの師匠と決めた「僕」の相棒物語である。ネタバレになるので粗筋は省略するが、現実のお笑い芸人の世界に普通に存在するであろう夢と挫折の青春を鮮やかに描き切っている。そうした世界は、小説など読まなくても想像はできるけれども、リアルなその人間群像を目の当たりにした時に、寝ても覚めても笑いを求める芸人という人種の切なさが胸に迫ってきた。さらに、「僕」と神谷の間に流れる憧れ、尊敬、承認欲求、苛立ち、幻滅、怒りなどのさまざまな生な感情のぶつかり合いが、読み手にくっきりと迫ってきて、「僕」と神谷に感情移入していく。
 川上弘美は高評価。

「火花」の「僕」を、そして「先輩」を、私はとても好きになりました。こんな人たちと同僚だったり血縁だったり親密な仲になったりしたら大変だよ、と内心でどきどきしながら、それでも好きになったのです

 問題点を指摘しながらも、ある程度評価したのが村上龍。

これだけ哀感に充ち、リアリティを感じさせる青春小説を書くのは簡単ではない

 島田雅彦も高評価。

寝ても覚めても笑いを取るネタを考えている芸人の日常の記録を丹念に書くことで、図らずも優れたエンターテインメント論に仕上がった

 宮本輝もこう述べる。

自分がいま書こうとしている小説に、ひたむきに向き合いつづけた結果として、「火花」のなかにその心があぶりだされたのであろう

「書き込み」の過不足のバランス

 もちろん傷がないわけではない。特に後半、神谷の豊胸手術のくだりは、唐突すぎるし、純粋に言葉による芸を頑なに貫いてきた神谷にしては違和感がある。芸人としての堕落を描こうとしているのは想像できるが、急にリアリティが失せてしまうのだ。
 髙樹のぶ子はこう指摘する。

私が最後まで×を付けたのは、破天荒で世界をひっくり返す言葉で支えられた神谷の魅力が、後半、言葉とは無縁の豊胸手術に堕し、それと共に本作の魅力も萎んだせいだ。火花は途中で消えた。作者は終わり方が判らなかったのではないか

 村上龍は、評価しつつも積極的に推せなかった理由として、こう述べている。

「長すぎる」と思ったからだ。(中略)皮肉にも、ていねいに過不足なく書かれたことによって、作者が伝えたかったことが途中でわかってしまう。作者自身にも把握できていない、無意識の領域からの、未分化の、奔流のような表現がない。だから、新人作家だけが持つ「手がつけられない怖さ」、「不思議な魅力を持つ過剰や欠落」がない

 書き込み不足では伝えたいものが伝わらず、小説として成り立たない。けれども書き過ぎると手の内を見せることとなり、読み手の想像の余地を奪ってしまう。難しいバランスを取れることが書き手のセンスとなる。

「芥川賞を読む」:
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みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。