『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第88回 正修止観章㊽

[3]「2. 広く解す」㊻

(9)十乗観法を明かす㉟

 ⑦通塞を識る(1)

 今回は、十乗観法の第五、「通塞を識る」(道が通じているか塞がっているかを識別すること)の段について説明する。十乗観法については、前の観法が成功しない場合に、次の観法に移るという流れとなっている。ここでは、第四の破法遍が成功しない場合に、識通塞が必要となるということである。

 (1)「通塞を識る」の位置づけ

 「通塞を識る」の趣旨について、この段の冒頭には、

 第五に通塞を識るとは、亦た得失を知るとも名づけ、亦た字・非字を知るとも名づく。上の破法遍の如きは、応に通じて無生に入るべし。若し入らずば、当に得失を尋ぬべし。必ず是非に滞る。一向に解を作すことを得ざれ。何となれば、若し外道に同じく、空を観ずる智慧に愛著せば、宜しく四句を以て遍く破すべし。能破は所破の如くし、衆(もろもろ)の塞をして通ずることを得しむ。若し空を観ずる智慧に執せずば、則ち能破は所破の如くせず、但だ塞を破し通を存するのみ。膜を除きて珠を養い、賊を破して将を護るが如し。若し爾らば、即ち大導師は善く通塞を知り、衆人(もろびと)を将導して、能く五百由旬を過ぐ。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、86上17~24)

と述べられている。ここには、「通塞を識る」の別の言い方として、「得失を知る」、「字・非字を知る」を挙げている。後者は、『南本涅槃経』巻第二、哀歎品に、「虫、木を食するに、字を成ずる者有るも、此の虫は是れ字なるや字に非ざるやを知らざるが如し。智人は之れを見て、終に唱えて、『是の虫は字を解す』と言わず、亦た驚怪せず」(大正12、618中2~4)と出るのを承けたものである。たまたま虫食いの跡が文字に見えても、虫が文字を知っているのではないことを踏まえた表現である。
 次に、破法遍によって無生に入ることができれば、それで良いのであるが、入ることができない場合は、得失を探求するべきであるとされる。つまり、通塞を識別するべきであると述べている。無生に入らない場合は、きっと是非に滞っているはずであるので、一方向に偏って理解してはならないと戒めている。末尾には、偉大な指導者は巧みに通塞を知り、多くの人を率い導き五百由旬を通過することができるとあるが、これは、『法華経』化城喩品のいわゆる化城宝処の譬喩に出る、「譬えば五百由旬の険難悪道の、曠(はる)かに絶えて人無き、怖畏の処あるが如し。若し多くの衆有って、此の道を過ぎて、珍宝の処に至らんと欲せんに、一(ひと)りの導師有って、聡慧明達(そうえみょうだつ)にして、善く険道の通塞の相を知れり。衆人を将導して、此の難を過ぎんと欲す」(大正9、25下26~29)を取意引用したものである。「通塞を識る」という表現は、「善く険道の通塞の相を知れり」から取ったものであることが明らかである。
 化城宝処の譬喩について、簡単に説明しておく。大変険しく、人もいない恐ろしい道を踏破して五百由旬の遠きにある宝処(宝のある場所)を目指す一団が、疲労と恐怖で、もう前進する気力も失せて、引き返そうとした。そのとき、一人の聡明な指導者(道案内人。仏をたとえる)が「かわいそうな者たちだ。いま、引き返してしまえば、宝を手に入れることはできない」と考え、方便の力によって、途中の三百由旬のところに幻影の城市(化城。城市は城壁に囲まれた都市の意)を作り出して、「みな、恐れるな。引き返すな。いま、この大きな城市で思う存分休むことができる。もしこの城市に入れば、速やかに安らかになることができる。もし前進して宝処(ここでは城市の中にあると示唆されている)に到着すれば、また去ることもできる」と呼びかける。人々は喜んで城市に入り、すでに五百由旬を踏破したと思い、安らかな気持ちになった。そのとき、指導者は人々が十分に休息して疲れが取れたのを知って、この城市を消滅させ、人々に「みな、さあ、宝処は近くにある。前の大きな城市は私が神通力によって作り出したもので、休憩するためのものであった」と打ち明けたのである。五百由旬の宝処は仏の大涅槃、究極の仏果を意味し、三百由旬の化城は声聞の涅槃と縁覚の涅槃を意味するといわれる。
 以上が譬喩の大意である。この三百由旬の化城と五百由旬の宝処をめぐって、六師の解釈が紹介、批評される。順に要点を紹介する。

 (2)化城・宝処に関する六師の説

 第一師の説は、六地に見思惑が尽きることを三百由旬とし、七地・八地を四百由旬とし、九地・十地を五百由旬とするというものである。この解釈に対して、『大智度論』の解釈と背反するというコメントが付いている。内容的には、『大智度論』は、二乗を四百由旬とするとしている(※1)が、第一師の説では、二乗の道は六地とされ、三百由旬に相当するとされるからである。
 第二の師の説は、摂論師のものであり、三界を三百由旬とし、方便の生死と因縁の生死の二つの生死を、三百由旬に付け足して五百由旬とするというものである。方便の生死と因縁の生死は、摂論師の立てる七種の生死(分段生死・流来生死・反出生死・方便生死・因縁生死・有後生死・無後生死)のなかのものである。そうであるならば、「方便生死」・「因縁生死」の後に出る「有後生死」と「無後生死」は、どの由旬に該当するのかと批判している。
 第三の地論師の説は、十信・十住・十行・十廻向・十地を五百由旬とするというものである。この説では、二百由旬に化城を作る(※2)ことになるので、『法華経』が三百由旬を過ぎて化城を作ることと背反すると指摘している。
 第四師の説は、三界を三百由旬とし、二乗を付け足して五百由旬とするというものである。この説に対しては、三つの過失を指摘している。第一の過失については、この説では、三界の外に出て化城を立てることになり、二乗は三界外部に出て化城に入らず、あらためて四百由旬・五百由旬を行くことになるが、四百由旬・五百由旬の外に、化城はけっしてないので、二乗が入るべき場所はないというものである。第二の過失については、化城を滅して、はじめて進むことができるのに、化城をまだ滅しないで、たやすく四百由旬・五百由旬を進むのはありえないというものである。第三の過失については、二乗はともに化城に入るのに、どうして声聞を四百由旬とし、辟支仏を五百由旬とするのかというものである。
 第五師の説は、見一処住地煩悩・欲愛住地煩悩・色愛住地煩悩・有愛住地煩悩・無明住地煩悩の五住煩悩を五百由旬とするというものである。そうであれば、二乗はもう四住煩悩を断ち切っているので、四百由旬の外に化城を立てることになるという不都合(『法華経』には、三百由旬の場所に化城を立てることが明言されている)が生じると指摘している。
 第六師の説は、三界の思惑を断ち切ることを三百由旬とし、塵沙惑を四百由旬とし、無明惑を五百由旬とするというものである。この説に対しては、多い見惑(八十八種を基本として、多数の煩悩を成立させる)を無視して、少ない思惑(八十一種)を三百由旬とするという欠点を指摘している。

(注釈)
※1 『大智度論』巻第六十六、「此の中、舍利弗は自ら譬喩を説く。人、険道を過ぎんと欲するが若し。険道とは、即ち是れ世間なり。百由旬とは是れ欲界、二百由旬とは是れ色界、三百由旬とは是れ無色界、四百由旬とは是れ声聞・辟支仏道なり。復た次に四百由旬は是れ欲界、三百由旬は是れ色界、二百由旬は是れ無色界、百由旬は是れ声聞・辟支仏なり」(大正25、526中4~10)を参照。
※2 慧澄癡空『講義』には、「十住入空は、二乗に当たるが故なり」と説明している。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。