『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第90回 正修止観章㊿

[3]「2. 広く解す」㊽

(9)十乗観法を明かす㊲

 ⑦通塞を識る(3)

 (3)天台家の解釈②

 ②「縦(竪)横」の段の「横別」について

 ここに出る「横」は、共通性の意味で、『摩訶止観』の本文に出る三種の菩薩が、いずれも「初発心」という共通の立場から高い修行を行ない、高い位に到達することを意味する。「別」は、三種の菩薩が異なるという個別性を意味する。三種の菩薩とは、第一に空と相応する菩薩=通教の菩薩であり、三百由旬を通過し、第二に別教の出仮の菩薩で、四百由旬を通過し、第三に中道の意味を持つ円教の菩薩で、五百由旬を通過するといわれる。
 次に、『大智度論』の三つの比喩を引用している(※1)。第一に陸と水を歩き渡ること、第二に馬に乗ること、第三に神通である。陸と水を歩き渡ることと、馬で行くことの二つは、通塞を知る必要があるが、神通には妨げがないとされる。空観は歩行にたとえ、仮観は馬にたとえ、中観は神通による飛行にたとえられる。これは、別教の次第の三観に相当し、今の用いるもの(一心三観)ではないとされる。

 ③「一心」について

 ここでは、最初に次第三観について次のように説明している。もし縦に空観・仮観・中観の三観を論じれば、空観・仮観の二観は自らの立場を通とするが、中観に比較すると塞となること、また中観に関しては、空観・仮観より優れていることを通とし、小乗を隔てることを塞とすること、横に三観を論じれば、自らの分斉を通とし、たがいに収めないことを塞とするとされる。このように、法相の浅深に、ほしいままに通塞があるとされる。
 これに対して、一心三観の法相に関しては、縦のなかの通塞を破り、三観一心は横のなかの通塞を破ること、空は三観であり三百由旬の通塞を破り、仮は三観であり四百由旬の通塞を破り、中は三観であり五百由旬の通塞を破るとされる(※2)
 さらに、一心は即空・即仮・即中であるので、一切の山河、石壁、多くの魔、多くの外道は、すべて虚空のようなものであって妨げとはならないのであるとされる。さらに、一心三観は低いものを去って高いものの上に出、山を避けて谷に従わず、至るところのさまざまな塞は、すべて通じて妨げがないことによって、五百由旬を過ぎて宝所に到達することができると説かれる。
 これが通と名づけられるのである。ただし、そもそも通はもともと塞に対するものであり、至るところが虚空のようであれば、もはや塞がないはずである。塞がなければ、通もない。もし塞がなく通がないことについて、苦・集、無明、六蔽を起こせば、ただ神通を失うだけでなく、さらに馬に乗ること・歩行も失う。もし一々の心法、一々の主体、一々の対象について、すべて即空・即仮・即中であり、四諦・六度・十二因縁を備えれば、通がなく塞がなく、通塞をどちらも照らすことと名づけると説明される。
 このように、無生の門について明らかに通塞を知れば、他の法門(生門・亦生亦無生門・非生非無生門)についても同様である。以上が初発心において五百由旬を踏破することであるが、他方、理即の五百由旬から究竟の五百由旬までの六即の意義について明らかにするべきであると注意している。

 ④問答

 最後に二つの問答が示されている。ここでは、第一の問答だけを紹介する。
 第一の問は、通と塞、得と失、字と非字は同一であるか、相違するかというものである。これは、すでに引用した「通塞を識る」の冒頭の「第五に通塞を識るとは、亦た得失を知るとも名づけ、亦た字・非字を知るとも名づく」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、86上17~18) を承けたものである。
 これに対する答えは、三趣の表現は一つの意味であるが、種々の仕方で説いただけであるというものである。ただし、相違点もあるとし、通塞は理解に焦点をあわせ、得失は修行に焦点をあわせ、字・非字は教に焦点をあわせたものであると述べている。そして、『金光明経』の「正しく聞き、正しく聴き、正しく分別し、正しく縁を解し、正しく能く覚了す」(※3)を引用し、字・非字を知ることは、正しく聞き、正しく聴くことに相当し、得失を知ることは、正しく分別し、正しく縁を理解することに相当し、通塞を知ることは、正しく覚了する(悟る)ことに相当すると説明している。
 以上で、「識通塞」の段の紹介を終える。

(注釈)
※1 『大智度論』の原典については、『大智度論』巻第三十八、「所以は何ん。先に無量の福徳を集め、利根の心は堅く、仏従り法を聞くが故なり。譬えば遠行の如く、或いは羊に乗りて去ること有り、或いは馬に乗りて去ること有り、或いは神通もて去る者有り。羊に乗るとは久久して乃ち到り、馬に乗るとは差(や)や速やかにして、神通に乗る者は発意の頃便ち到る。是の如く、発意の間、云何んが到ることを得んと言うことを得ず。神通の相は爾り、応に疑いを生ずべからず」(大正25、342下2~7)を参照。『摩訶止観』の本文に出る歩行することが、『大智度論』の原文では羊に乗ることになっている点が相違するが、ゆっくり歩くという意味は同じである。
※2 『摩訶止観』の本文には、「五百由旬の通塞を破る」とはなく、「中は即ち三観にして、神通の通塞を破す」(大正46、87中11~12)とあるが、文脈からそのように解釈した。
※3 『金光明経』の原文については、巻第三、散脂鬼神品、「我れは諸法に於いて、正しく解し、正しく観じ、正分別を得、正しく縁を解し、正しく能く覚了す。世尊よ、是の義を以ての故に、散脂大将と名づく」(大正16、346下4~6)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。