『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第84回 正修止観章㊹

[3]「2. 広く解す」㊷

(9)十乗観法を明かす㉛

 ⑥破法遍(12)

 (4)従空入仮の破法遍④

 ④入仮の位

 従空入仮観の破法遍の第四段である入仮の位について説明する。この段は、さらに教に歴て位を判ず、利益を明かす、破法遍を結ぶの三段に分かれている。

 (a)教に歴て位を判ず

 第一の教に歴て位を判ずの段では、蔵教・通教・別教・円教それぞれの上根・中根・下根の位について説明している。今は、円教についての説明を引用しよう。

 円教の十信は、六根浄の時に、即ち遍く十法界の事を見聞す。若是(も)し空に入らば、尚お一物も無し。既に六根は互いに用うと言えば、即ち是れ入仮の位なり。又た、五品の弟子は正しく六度を行じて、広く能く法を説く。即ち是れ入仮の位なり。何ぞ必ずしも六根浄を待たんや。又た、初心の人は、能く如来秘密の蔵を知って、円かに三諦を観ず。尚お能く即ち中なり。豈に即仮ならざらんや。『大品』に云わく、「初め道場に坐して、尚お便ち正覚を成じ、法輪を転じて、衆生を度す」と。又た、六即もて料簡するに、便ち出仮の義有り。何ぞ須(すべか)らく五品に至ることを待つべけんや。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、79下2~9)

と述べられている。円教の十信=六根清浄位は下根に相当し、すぐにくまなく十法界の事柄を見聞きする。もし空に入れば、やはり一物もなく、六根それぞれがたがいに他の五根の作用を持つという以上、とりもなおさず仮に入る位であるといわれる。
 六根清浄位より一段低い位である、随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品の五品のなかの第五品(正行六度品)の弟子は、中根に相当し、正面から六度を行じて、広く法を説くことができるとされる。これは仮に入る位であり、六根清浄を待つ必要はないとされる。
 上根の人は、五品の初心(随喜品)の位において如来の秘密の蔵を知って、完全に三諦を観察することができるとされる。そのまま中道であることができるので、当然のことながらそのまま仮であり、第五品(正行六度品)に至ることを待つ必要はないとされる。
 次に、『輔行』によれば、五つの問答が展開される(五つに分けることに妥当性があるかどうかやや疑問が残る)が、説明は省略する。

 (b)入仮の利益

 次に第二の利益を明かす段では、冒頭に、

 二に入仮の利益を明かすとは、菩薩は本と空を貴(たっと)びて空を修するにあらず、本と衆生の為めの故に空を修す。空を貴ばざるが故に住せず、衆生を益(やく)せんが為めの故に、須(すべか)らく出ずべし。故に真従り応を起こし、法眼は機に称(かな)うこと有り。当に仏身を以て得度すべきには、即ち仏身を作して法を説き、薬を授く。応に菩薩・二乗・天龍八部等の形を以て得度すべきには、而も為めに之れを現ず。衆生を成就し、仏国土を浄むるを、乃ち利益と名づく。(同前、79下24~29)

と述べている。ここには、菩薩はもともと空を尊んで空を修めるのではなく、もともと衆生のために空を修めることを説いている。空を尊ばないことに関しては、そのために空に留まらないと結論し、衆生のために空を修めることに関しては、衆生に利益を与えるために仮に出る必要があると結論している。そのためには、真身から応身を起こし、法を見る眼によって衆生の機に合致するようにする。衆生の機の相違を踏まえれば、具体的には、仏身によって救済されるべきものには、仏身となって法を説いて薬を授け、菩薩・二乗・天龍八部などの身体によって救済されるべきものには、菩薩・二乗・天龍八部などの身体を現わすとされる。衆生を救済し、仏国土を浄化することこそが利益と名づけると指摘している。
 この後、蔵教・通教・別教・円教の菩薩の利益を取りあげているが、説明は省略する。最後に、神通変化には真偽があり、たとえば魔が有漏の心によって無漏の姿となり、仏の姿に変化することができることを取りあげている。このように教化の言葉は多くの種類があり、眼がない人は誤って信受を生ずるのであるから、深く観察して、むやみに同調してはならないと注意している。そして結論的に、法身地から応身を十界に垂れて、衆生を救済することが、仮に入ることであり、真実の利益の位であると述べている。

 (c)破法遍を結す

 これまで従仮入空観の破法遍と従空入仮観の破法遍の説明が終わったので、次に中道正観(中道第一義観)の破法遍に移るにあたって、二観の破法遍の内容を要約している。説明は省略する。

 (5)中道正観の破法遍①

 「広く破法遍を明かす」の「竪の破法遍」は、従仮入空観の破法遍、従空入仮観の破法遍、中道正観の破法遍の三段に分かれるが、この段は第三段に相当する。さらに、この段は、中観を修する意、中観を修する因縁、正しく中観を修す、中観を修する位の四段に分かれている。

 ①中観を修する意

 中観を修行する意味を、蔵教・通教・別教・円教に分けて、それぞれ説明している。
 まず、蔵教の菩薩は、世俗的智慧によって俗諦だけを照らし、蔵教の二乗は仮を分析すること(析仮)によって真諦だけに入るとされる。たとい有を離れ無を離れる説を立てても、ただ有無の二見を離れるだけで、ほんとうに観察するべき別教の理、つまり中道はないので、第三観である中観を必要としないとされる。
 通教の二乗は、法を体得すること(体法)によって真諦だけに入り、菩薩は慈悲によって仮(俗諦)に入るとされる。真諦と相違する別教の理(中道)はない。ただし、中道の名が存在したり、中道の意義が存在したりすることができるのは、通教に別接(別教に接続されること)の意義が存在することがあるからである。これを別接通という。鈍根である者は、通教にしか通じないが、利根である者は、別教に接続されれば、あらためて中道を用いることができる。別教に接続されなければ、第三観(中観)を必要としないとされる。
 別教の場合は、もし二諦・三諦を設けるならば、いずれももともと中道を知っているとされる。三諦を設ける場合は、中道を理解できるとされ、二諦を設ける場合は、中道を真諦とし、有無を俗諦とし、この二諦を照らして、ゆったりとして正当であることを中道と名づけるとされる。別教の菩薩は、通常の道理のために、まず取相(見思惑)を破り、慧眼によって空を見、次に無知(塵沙惑)を破り、法眼によって仮を見、進んで中道を修め、一分の無明を破り、一分の仏眼を開き、一分の中道を見るとされる。従仮入空観と従空入仮観の二観は方便である以上、中道を必要とするけれども、前の二観も必要となるといわれる。
 円教は、最初から中道を知る立場である。また別教と円教では、前に見思惑と塵沙惑の二惑を破るのに、時間的遅速に相違があるとされる。その理由は、別教は二惑を除き、十住・十行・十廻向の三十心を経歴して、ともすれば長い劫を経て、そうして後にはじめて無明惑を破ることになるからである。それに対して円教はそうではない。ただこの身において見思惑と塵沙惑の二惑を破り、すぐに中道に入り、一生において成し遂げることができるとされる。
 この別教と円教の相違について、賊と鉄の比喩を用いて説明している。いずれの比喩も別教が段階的で修行に時間がかかるのに対して、円教はそうではないことを説明するものである。
 たとえば、賊に三種があるとしとよう。武器が悪く、体力が弱く、巧みな計略が少ない人の場合は、まず二種の賊(見思惑・塵沙惑)を破り、あらためて人と物を整えて、はじめて第三種の賊(無明惑)を破ることになる。それ故、時間がかかる。これに対して、身体が元気で、武器がすぐれ、権謀が多い人の場合は、一日のうちに三種の賊(見思惑・塵沙惑・無明惑)すべてを破って、時節を待たないようなものである。
 次に鉄の比喩である。二種類の鉄があるとしよう。第一の鉄は、何度も焼いて精錬して、はじめて鋭い作用があるものである。第二の鉄は、古い珠(たま)でできた鉄であり、一度焼くとすぐに鋭くなるようなものである。前者が別教に相当し、後者が円教に相当することは容易に分かるであろう。
 したがって、円教は初心から従仮入空観・従空入仮観・中道第一義諦観の三観を修行し、従仮入空観と従空入仮観の二観が成就することを待つ必要はなく、第三観(中観)を明らかにする必要があると結論されるのである。(この項、つづく)

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。