土着的世界の中で描かれた血と性の濃密な物語
田中慎弥(たなか・しんや)著/第146回芥川賞受賞作(2011年下半期)
確かな生の手触り
第146回の芥川賞は、W受賞であった。前回紹介した円城塔の「道化師の蝶」と、今回取り上げる田中慎弥の「共喰い」である。「道化師の蝶」があまりにも難解で小説を味わう以前のところで頭を抱えたことに対して、「共喰い」は安心してその作品世界を堪能できた。前者が、選考委員の判断が分かれた実験的作品だとすれば、後者は、ほとんどの選考委員が高い評価を与えた古風な肌触りのする純文学である。
舞台は下関の田舎町。主人公の遠馬(とおま)は17歳の男子高校生。異臭が漂う薄汚れた川が舞台の中心に流れている。川べりで魚屋を一人で営む実母は、捌いた魚の内臓をそのままその川に廃棄する。それを餌として集まるうなぎを釣るのが遠馬の楽しみ。遠馬が暮らすのは、その実母の家ではなく、近くにある父と義母の暮らす家。父と実母が別れた原因は、父の異常な性癖だった。頂点に達する時に、相手女性を激しく殴るのだ。その性癖は、義母に対しても同様で、遠馬は家の片隅からその行為を覗く。遠馬が恐れるのは、父のそうした血が自分の中にも流れていることを、自分の彼女との行為の中から薄々感じ始めていたことだった。
川を流れる汚物、釣り糸に絡みつく頭の潰れたうなぎ、吠え続ける赤犬、いつもアパートの前に座っている透き通った目の高齢売春婦、町を見下ろす高台にある古びた神社等々、物語全体を通して湿度の高いねっとりとした暗い映像が続く。そこで血と性の濃密な物語が展開される。
きらびやかな都会を舞台とした空虚な生活ではなく、仮想空間で妄想を膨らませる自意識過剰な世界でもなく、古い昭和の時代には全国のどこにでもあったような町を舞台にした土着性が、この物語を成立させ読み手を引き込む。熱のないつるんとした手触りではなく、冷たくも熱くもある、そして不気味さもあるその手触りこそが、人間の底に潜むどうしようもない情動や叫びや、確かな生の手触りを感じさせるのだ。
選考委員の黒井千次はこう評価。
冒頭の海に近い澱んだ川の描写には暗い力がひそみ、それが全篇を貫いている。(中略)川辺の暮らしの絵の中に幸せそうな人は登場しないのだが、そのかわりに生命の地熱のようなものが確実に伝わってくる
髙木のぶ子もこう評価。
都会の青春小説が輝きも確執も懊悩も失い、浮遊するプアヤングしか描かれなくなると、このように一地方に囲い込まれた土着熱が、新鮮かつ未来的に見え、説得力を持ってくる
暗い中に光る詩的な美しさ
この作品のもう一つの魅力は、登場人物だ。特に、性に伴う暴力の被害者である実母や義母など、女性が夫の暴力に向き合うその姿勢が、どこかしたたかであり強靭なのだ。苦悩する女性を描くことはできたとしても、これほど複雑で奥深く恐ろしい情念を描くのは、簡単ではない。
不思議なのは、これほど陰鬱な映像と悲惨な物語の連続であるにもかかわらず、全体から漂ってくる印象のなかには、美しい詩的なものが密やかに感じられることだ。作者の筆力としか言いようがない。
唯一、評価しなかったのは、石原慎太郎と宮本輝だった。宮本輝はこう述べている。
何物かへの鬱屈した怒りのマグマの依って来たる根をもっと具体的にしなければ、肝心なところから腰が引けていることになるのではないか
田中慎弥が大きくマスコミから注目されたのは、彼の「断ったりして気の弱い委員の方が倒れたりしたら、都政が混乱するので。都知事閣下と東京都民各位のために、もらっといてやる」という発言だった。自らの作品に対して辛辣な評価をする石原慎太郎への皮肉ともとらえられるが、田中は、日常的に考えていたことを発言しただけだと言っている。また、受賞に際して田中が発表した正式コメントは「全選考委員に心から感謝します、本当に」だったので、あの騒がれようは迷惑だったのかもしれない。
「芥川賞を読む」:
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