「宗教」の果たす本質的な役割
――東日本大震災から15年の節目を迎えました。復興が進んだ地域も多い一方、今もなお2万6千人余りの方々が避難生活を送られています。
青山樹人 「千年に一度」とさえ言われたあの巨大災害は、あらためて中間団体としての宗教団体の意義や役割にも光を当てました。
交通や通信インフラが麻痺し、行政すら被災して大きく機能が損なわれた発災直後の被災地にあって、多くの神社や寺院、教会、もちろん創価学会の会館も、緊急的な一時避難所として機能し、人々の命を守りました。
それは単に「場所」を提供したことにとどまりません。むしろ、日常から人々がつながってきたそれぞれの宗教的なコミュニティが機能して、初動では被災者自身が被災者に救援の手を差し伸べた。全国的なネットワークを持つ教団では、各地からそこに支援が加わった。
その「命を守る」拠点として寺社や会館などが機能したのです。
当時の創価学会の動きと果たした役割については、『東日本大震災――創価学会はどう動いたか』(潮出版社)に、被災した各県ごとのルポルタージュが掲載されています。
また、学術的な書籍としては、大正大学宗教社会学研究室が中心となって福島県「浜通り」をフィールド調査した『東日本大震災後の宗教とコミュニティ』(星野英紀・弓山達也編/ハーベスト社)などがあります。
――世界各国でも「中間団体」としての宗教団体が社会に果たす役割については、さまざま肯定的な評価がなされています。
一方で、欧米なども含めた世界的な傾向として、20世紀に入って「世俗化」が進み、人々の宗教離れが進んでいるようです。
青山 私自身は、こうした現象を必ずしもネガティブに受け止めていません。むしろ、洋の東西を問わず、かつての社会では、宗教が過度に人々の人生や暮らしに介入し干渉していた面も強かったわけです。
一例を挙げれば、日本でも明治維新のあともなお、江戸時代の宗教政策である「檀家制度」が維持され、人々は自分で信仰を選ぶことが難しかったのです。
布教を禁じたのも江戸幕府の政策ですが、それが今も人々を縛っているから、創価学会のように「布教する宗教」への警戒心や忌避感が生まれるのでしょう。
反面、たとえば中国の近年の映画などを見ると、近代化と経済的な繁栄が進むほど、人々は精神的なものへの関心を深め、「生と死」について考えざるを得なくなっているように感じます。
誰人も「生老病死」を免れることはできません。いかなる政治体制であろうと、どんなに地位や財、美貌を手に入れても、それが人生の満足や幸福を約束するわけではないし、永遠に続くわけでもない。
人間には本然的に〝幸福になりたい〟〝悔いなく生きたい〟という願望があると思います。
どうすれば自分の納得と満足のいく「幸福」が実現できるのか、悔いなく一生を生きられるのか、誰もが心の奥底で探しているはずです。
――なるほど。そこに「宗教」の果たす本質的な役割があるわけですね。
3分の2に減った日本の「若者人口」
青山 宗教の持つ本質的な使命が変わらない以上、大事なことは、宗教の側が、社会での役割やありかたを、時代に合わせてアップデートさせていくことだと思うのです。
創価学会を見ても、この30年余りで置かれている状況は大きく変わりました。
まず、江戸時代の「檀家制度」「葬式仏教」を引きずったまま、奇怪な「法主絶対論」の宗派へと変質した日蓮正宗と決別した。
池田先生のリーダーシップによって、今では192カ国・地域に広がる世界最大の在家仏教運動に発展しました。このことで世界からの信頼が格段に増したと思います。
たとえば池田先生の逝去に際し、イタリアでは2024年1月にフィレンツェ市とイタリア創価学会の共催で、当時のフィレンツェ市長が出席して追悼式が挙行されました。
会場はフィレンツェ市庁舎でもあるヴェッキオ宮殿の「五百人広間」です。わずか30年前には想像もつかなかったことです。
インド創価学会では、学会創立100周年の2030年に「100万人の地涌の陣列」を築くことを目標に前進しています。
他方で、日本は2008年を人口のピークとして、そこから「人口減少社会」へと転じました。「少子高齢化」は先進各国の共通課題ですが、日本は世界的にもその先頭集団にいます。
――とくに高齢者の増加と若者人口の減少が、さまざまなところで課題となっていますね。
青山 日本全体の18歳から40歳の「若者人口」を見ると、1990年には約4115万人もいました。これは「団塊の世代」が親になった第2次ベビーブームで生まれた世代(1971年~74年生まれ)が、若者人口の中心にいたからです。
それが、2024年には推計で約2750万人と、3分の2に減っています。ちなみに2050年には約2000万人になると予測されています。
逆に65歳以上の「高齢者人口」は、1990年には約1490万人だったのが、2024年には約3624万人と2.4倍以上に増加しています。
「2025問題」と言われていたように、約800万人とされる「団塊の世代」(1947年~49年に生まれた「第一次ベビーブーム」世代)が、2025年で全員75歳以上の後期高齢者となりました。
今や日本は、国民の約30%が65歳以上という超高齢化社会に突入したわけです。
創価学会は日本社会の縮図ですから、当然、同じように青年世代が縮小し、高齢世代が大きく増えていて不思議ではありません。
日本社会のあらゆる自治体や組織でこうした激変が起きています。むしろこれは全体の数字ですから、地域によっては、もっと大きな変化に直面しているでしょう。
しかも、若者が3分の2に減少しているということは、一面では若者が多忙になっているわけです。
これまで3人の若者世代が担っていた役割を2人で担うことになるので、単純計算すれば1.5倍忙しくなっている。
また今の若い世代にとっては、男性が家事や育児を担うこともあたりまえです。
創価班や牙城会といった人材グループが、本年7月末をもって任務終了となるのも、ある意味では必然の流れでしょう。
創価学会がというよりも、日本社会全体の構造として、若者人口が3分の2になり、1.5倍忙しくなっているわけですから。
――企業や自治体などでも、社会の構造変化に対応して、さまざまな新しい取り組みや機構改革に挑戦していますね。
青山 就職活動でも、今は完全に学生側の「売り手市場」です。若者にとって働き甲斐や魅力を見出せない企業や組織は、見放されてしまう。
また、4年制大学と短大を合わせると、近年それらの卒業者の男女比はほぼ同じで、就職率も男女で差がほとんどありません。
――女性にとっても働き甲斐があり、働き続けやすい環境でないと、すぐれた人材を確保できない時代になっているのですね。
「戦争の文化」としての昭和
青山 「若者を大切にしない」「女性を大切にしない」組織に、もはや未来はないということです。
本年(2026年)は「昭和100年」にあたります。昭和の時代の前半は〝戦争の時代〟であり、後半は〝高度経済成長の時代〟でした。
ただ、それはひとつながりの時代でもあったのです。戦後の復興と高度成長を担ってきたのは、戦前・戦中に「軍国主義」教育を受けて育った人々であり、政財界のリーダーのなかにも兵士として戦地に赴いていた経験を持つ人が少なくありませんでした。
誤解を恐れずに言えば、戦後は「戦争の文化」を転用することで、規律を重んじ、組織のために滅私奉公することを美徳として、高度成長への道をひた走った面もあったのです。
企業や組織が男ばかりの集団になり、年功序列があたりまえで、女性の社会進出に多くの制約があったのも、ある意味では本質が「戦争の文化」だったからでしょう。
戦後、戸田先生が学会を再建されていった時期も、たとえば学会歌には軍歌の歌詞を変えたものが多くありました。組織や役職の名称も軍隊式でした。これも「戦争の文化」の転用ですね。
なにしろ社会を構成している大人たちが戦争体験者ばかりなのですから、そのほうが馴染みはある。自然なことでもあっただろうと思います。
終戦後に小学校に上がった世代、つまり戦前や戦時下の学校教育と無縁だった人が成人したのは、池田先生が第3代会長に就任された1960年よりあとのことなのです。
――そして今や、冷戦崩壊後に生まれた世代が30代に入り、21世紀になって生まれた人も既に20代半ばになりました。iPhoneが登場した2007年に生まれた人が、この3月には高校を卒業します。
日本のグローバル企業にも女性のトップが就く時代になりましたし、憲政史上初の女性の総理大臣も誕生しました。
39カ国・地域で同性婚が合法化され、G7で合法化されていないのは日本だけです。
青山 社会の構造が大きく変化し、社会の価値観も大きく変わってきたなかにあって、創価学会もまた、さまざまな面で新しく変わっていかなくてはならないでしょう。
むろん、先輩たちが歩んできた歴史や伝統に敬意を払うことは当然です。「多様性を尊重する」ということは、新しい価値観だけでなく保守的な価値観もないがしろにしないということだからです。
とはいえ、無意識のうちに昭和的な「戦争の文化」が、組織のなかに漫然と温存されていて、そのことが「若者」や「女性」にとって希望を感じられない状況を作っていないか。もう一度、細部から見直していく必要があるようにも感じています。
〈わたし〉という視点の重要性
最近、『〈わたし〉からはじめる地方論――縮小しても豊かな「自律対話型社会」へ向けて』という本を読みました。秋田県にある国際教養大学で、国際教養学部グローバル・スタディズ領域・准教授をされている工藤尚悟さんの著書です。
工藤さんの専門は「人口減少時代の持続可能なまちづくり」です。現在も秋田県五城目町をフィールドに地域社会のサステイナビリティ(持続可能性)を研究されています。
この本は「自立対話型社会」や「風土のサスティナビリティ」といったことを視野に「地方創生」を論じたものです。
一方、なんとなく創価学会の今後のありかたのヒントになる視点もいくつかあるような気がしたのです。
たとえば工藤さんが強調するのは「〈わたし〉という視点」です。「地方創生」とか「消滅可能性都市」といったような大きな言葉があたりまえのように飛び交っているけれども、それらの議論に、地方に暮らす住民1人1人の〈わたし〉という視点がどこまで意識されているのかと問いかけています。
創価学会でも、男子部の機構改革などはもとより、それぞれの地域の第一線である支部や地区、ブロックなどで、さまざまな改革の必要性を多くの人が感じていると思います。
世代別の人口構成が変わり、若者も高齢者も単身世帯が増え、仕事を持つ女性が増え、子供のいる世帯が減っている。日本社会の変化が、そのまま学会の現場でも起きていることでしょう。
工藤さんは「人口減少」を〝課題〟としてではなく〝現象〟としてとらえるべきだと指摘されています。これは、あらゆるものは現象として変化していくことを洞察した仏法にも通じる視点です。
創価学会にあっても、さまざまな社会構造の変化を何かネガティブな〝課題〟として見るのではなく、変化していく〝現象〟と受け止めた上で、それにふさわしい新しいデザインをポジティブに考えていくべきだと感じました。
そこで大事になってくるのが〈わたし〉という視点なのです。
――どういうことでしょうか?
青山 池田先生は『青春対話』のなかで次のように語られ、これは『池田大作先生の指導選集』下巻にも収録されています。
組織が最初にあって、その中に人間がいるのではない。人間と人間の絆が最初にあって、それを広げていって自然発生的にできたのが学会の組織です。だから、どこまでも、どこまでも「人間のために組織がある」。「組織のために人間がある」のではない。この一点を諸君は永久に忘れてはならない。
学会活動をしているとよくわかると思いますが、組織にはさまざまな状況の方がいらっしゃいます。
ただ、会合では当然ながら「会合に参加してきた人」しか見えません。仕事や育児、体調、そのほか、いろんな事情があって会合には出てこないけれども、学会員としての自覚をもって信仰をされている方はいます。
さらに言うと、「信仰」といっても、朝晩欠かさず勤行・唱題をするのも信仰なら、三唱だけはする、何かあった時だけ唱題するというのも信仰でしょう。信じているから題目を唱えられるのです。
ずっと離れていて、何十年ぶりかで御本尊の前に座ったという人も、学会のなかにはいらっしゃいます。でもそれは、座らなかった何十年間も心のどこかで「信仰」が埋火のようにあったからではないでしょうか。
もちろん「和合僧」という意味では、学会組織のなかで多様な他者と触れ合って、励まし合っていくことは大切ですし理想です。
しかし、先生が言われたように「組織のために人間がいる」のではなく、「人間のために組織がある」のです。
大事なことは、その1人の人が幸福になっていくことなのです。
なかなか会合に参加できない人がいたとして、その人にはその人の理由や事情があります。単純に仕事や家庭の事情で時間が合わないこともあるでしょう。なんとなく組織活動は苦手だと感じている人も、意義が見出せないという人もいるでしょう。
学会2世どころか、今では3世代目、4世代目も珍しくありません。自分の意志で選択した入会でない人にとって、あらためて自分の意志で信仰を実践していこうと決心する機会というのは、思いのほか得難いものです。
創価学会の「宗教性」の発露
ある男子部の部長さんからうかがったのですが、部長の任命を受けて、まず学会活動に参加していない部員さんのお宅を回ったそうです。
会うことができたメンバーには、開口一番に「きょうは、学会活動に参加しましょうという話でお邪魔したのではありません」と前置きして、「よければ活動に参加しなくなった理由を教えていただけませんか?」と率直に聞いたそうです。
この部長さん自身も、未来部時代に親から会合に参加するように言われたことが煩わしくて、学会活動に参加したくないと思った時期を経験していました。
ただ、今になって、学会の組織のありがたさや、親が自分の幸福を願っていたことも理解できるようになったそうです。
未活動のメンバーへの家庭訪問のなかで、こうした自分の経験も話す機会があり、「今度、一緒にご飯でも食べに行きませんか」と誘ったら、ごく自然に応じてくれる人もいたというのです。
この部長さんは、「人と人とがつながっていく。そのことこそ、創価学会が持っている大切な〝宗教性〟のように思うのです」と語っていました。
さまざまな意味で孤独や孤立が進んでいる日本社会のなかで、「人と人とがつながっていく」。
それ自体が、かけがえのない創価学会の〝宗教性〟なのだという話に、私は目から鱗が落ちるような思いがしました。
この部長さんは、「僕が彼とつながりを持ち続けていれば、もしかしたら、僕の次に部長になる人、あるいはその次の人も、彼とつながり続けられるかもしれない。そして、いつかどこかで、彼も自分の意志でこの信心を積極的に実践してみようと発心する日がくれば嬉しいですし」と語っていました。
――創価学会という共通の基盤がなければ、けっして交わることのなかったであろう人と人とが、食事を囲みながら語り合うまでになったわけですね。しかも、そこにはお互いに何の利害もない。
青山 経典に記された有名な釈尊の言葉がありますね。
あるとき、弟子のアナンが「善き友を持ち、善き友と一緒に進むことは、既に仏道の半ばを成就したに等しいと思います。この考えは正しいでしょうか」と釈尊に尋ねます。
すると釈尊は、「アナンよ、その考えは正しくない」と言うのです。そして、こう諭しました。
「善き友を持ち、善き友と一緒に進むということは、仏道の半ばではなく、仏道のすべてなのである」
私が感心したのは、この部長さんはどこまでも相手の〈わたし〉を見ているのです。何かの理由があって会合には出てこないけれども、会合に出させようなどとは考えず、その人の〈わたし〉を、まずは知ろうというところから始めた。
そして、相手が抱えていた思いに、自身の過去を重ねながら想像力を巡らせていった。そのうえで、今度は自分という〈わたし〉を相手に知ってもらう小さなきっかけを作ろうとした。
こうした人間対人間の、ごくあたりまえの関係性づくりを、とても丁寧に実行しているんです。
学会活動に参加させる手段として食事に誘っているわけではないのです。同じ地域に暮らす同世代として、一緒に語らい合い、ご飯を食べる。「人と人とがつながること」自体が、ここでは目的になっているのです。
互いがつながることそのものに、喜びや価値を見出している。
以来、その会合には出てこない部員さんとは、ときどきご飯に行っているそうです。
――何でもLINEなどで連絡できてしまう時代だからこそ、それこそ何千年、何万年も前から変わらない「一緒に食事をする」という非効率でアナログな時間が、とても貴重なものになっているような気もします。
何かの折に〝手書きのメモ〟を残すというのも、むしろ今の時代は新鮮に感じることがありますね。
青山 東京のある区では、毎月1回、分区単位で週末の朝に地元の会館で唱題会を始めたそうです。
参加対象は男子部と、ヤング白ゆり世代以下の女性部。会館で勤行し、30分しっかり唱題し、そのあとの30分は男女混合で適当に何グループかに分かれて、気軽にディスカッションをする。もちろん自由参加です。
そこには、小さな子供を連れた人も来るし、未活動の兄弟や、学会員ではない友人を誘って来るメンバーもいるそうです。
ここでも、興味深いのは参加したメンバーが異口同音に「楽しい」「居心地がいい」と語っていることです。
家で1人で30分唱題しようとするとハードルが高いのに、みんなと一緒だとまったく苦にならないという声もあったそうです。
せっかくの週末の、しかも朝から、わざわざ会館まで行くというのは、考えてみれば面倒なことですよね。
自由参加ですから、楽しくなければ来ないはずです。小さな子どもや、未活動の家族や友人まで誘う人がいるのは、なにより自分が「楽しさ」「居心地のよさ」を感じたからでしょう。
――「人と人とがつながっていく」ところに創価学会の〝宗教性〟があるというのが、なんとなくわかる気がします。
青山 〝宗教性〟というと、何か難しいこと、厳格なことを想像しがちですが、先ほどの仏典のアナンと釈尊との対話にあるように、「善き友を得て、自分も善き友となっていくこと」が、仏道修行のすべてなのです。
そこから、自身の仏性も相手の仏性も開花していくからです。
私自身のことを振り返っても、中学生時代に、当時の中等部担当の男子部の人が、月に1、2度、欠かさず訪ねてくださいました。
最初の頃は玄関先で少し話す程度でした。あるときから、家の近所にある喫茶店に連れ出してくれて、いろんな雑談をしてくれるようになったのです。
何を話したのかも覚えていませんが、あの頃は学校でも家でも、本音で誰かと話すことがなかなかできなかった時期でした。
いつも笑顔で話相手になってくれた男子部の人がいたことが、自分がこの信仰を続けてこられた大きな支えになっていたんだなと、今になって深い感謝の念をもって思い出します。
〈わたし〉への豊かで温かい想像力を
「1人の人を大切に」というのが、創価学会の一貫した指導です。池田先生は、その生涯を通して、日本中、世界中で、1人を大切にし、1人を信じ、1人を励まし続けられました。
このあたりまえのことを、もう一度「原点に立ち返る」思いで、それぞれの持ち場で実践していくことが、創価学会の〝宗教性〟を強く豊かにしていくように思います。
その際に大事なことは、〈わたし〉への想像力を、今一重、広げていくことではないでしょうか。
――〈わたし〉への想像力ですか?
青山 ある青年世代からうかがったことですが、長年、活動に参加していなかった青年が、座談会に参加してくれたそうです。
おそらく、そこに至るまでには、ご家族やかかわった周囲のメンバーの祈り、いろいろな配慮、尽力があったのでしょう。
当然といえば当然ですが、その青年が座談会に来たことで、地区の壮年部や女性部の方たちも喜びました。
ただそこで、「じゃあ、次回は彼に〇〇をやってもらいましょう」という話になったそうなのです。
もちろん、そこには微塵の悪意もあるはずがないし、青年を皆で押し上げていこうという温かい気持ちがあったに違いないとは思います。
しかし、単純に喜ぶだけでなく、なぜ彼がこれまで長く会合に来なかったのかということに、先輩たちはどこまで想像力を巡らせることができていたのか。そのことを、その青年世代の人は鋭く指摘していました。
――先述の部長さんが未活動メンバーを訪ねた際に「よければ活動に参加しなくなった理由をおしえていただけませんか?」と告げたことと、どこか対照的な話ですね。
青山 青年世代が会合に来れば、なにか元気いっぱいに語ってもらうのが理想――というのは、気持ちはわかりますし、頭から否定するつもりもありません。喜んで引き受ける人もいるでしょう。
一方で、そうした〝定型化〟した価値観や文化そのものについていけなくて、会合から遠ざかってしまう若い世代がいることも事実なのです。
池田先生が言われたように、「人間のために組織がある」のです。日蓮大聖人の御書を拝しても、1人の門下のことを、その人の置かれている境遇や、家族の事情、真心を届けてくれた背後にあったであろう苦労まで、本当に心を砕いて想像し、理解しておられます。
創価班・牙城会が任務を終了するという発表があって、ある地域の牙城会では、7月まで毎月1回、持ち回りで企画を出して、懇談することを始めたそうです。
コーヒー好きの人が美味しいコーヒーをふるまったり、ゲーム大会をやったり、企画はさまざまだそうです。
そうした従来の会合の形式とは違う、フラットなコミュニケーションの場が生まれて、自然な形で互いが「信心」についても語り合う。
参加した人からは、「信心の息吹を感じる、すごくいい会合だった」という声がありました。
四条金吾への厳愛の指導
青山 社会構造そのものが大きく変わっていく時代にあって、そのなかで創価学会が創価学会でしか果たせない役割は何か。
それは表層ではなく地中深いところで信仰を基盤とし「人と人とがつながっていく」という、とてもシンプルなものなのかもしれません。
それは利害や特別な目的でのつながりではありません。自分も誰かの温かい思いやまなざしに支えられて、今がある。だから今度は、誰かを思えるようになっていこう。
肩ひじを張って「激励しよう」などと思わなくてもいいし、むしろ〝上から目線〟になっては、かえって失礼です。どんな相手に対してもフラットでいいと思うのです。
表面的な差異にとらわれずに、自然体で敬意をもって接していく。
――どんな人にも仏性があると礼拝行をし続けたという、法華経に説かれた「不軽菩薩」の振る舞いですね。
青山 日蓮大聖人は「法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」(御書新版1597ページ)と言われています。不軽菩薩の実践が「法華経の修行の肝心」なのです。
そして続けて「不軽菩薩の人を敬いしは、いかなることぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候いけるぞ」(同)と記されています。
四条金吾に宛てられたこの『崇峻天皇御書』を、機会があればぜひ通読していただきたいと思います。
金吾が信心強盛な反面、短気で、自分にも厳しいだけに他者に対しても厳しく、人情の機微に対する想像力が欠けていることを、大聖人はあえて厳しく指摘されているのです。
職場の同僚、家族、とりわけ女性、そして従者や使用人など、身近な人に対する言動に、細かい注意をされています。
今回のテーマに引き寄せて言えば、〈わたし〉に対する豊かな想像力と、柔軟で賢明な振る舞いを心がけなさいと指導されているのです。
それが「法華経の修行の肝心」であると教えられているのです。
――「人と人とがつながっていく」ところに創価学会の〝宗教性〟があるという話につながっていく気がします。
青山 自治体や企業でも「若者」「女性」を大切にする取り組みが進んでいるということは、逆にいえば「若者」「女性」をぞんざいに扱う悪い意味の〝昭和的な〟価値観が、それだけ日本社会のいたるところに今も残っているからでしょう。
思えば「若者」と「女性」を最大限に犠牲にしたのが戦争です。平和を築く第一歩は、「若者」「女性」を大切にすることだと思います。
ともあれ、目の前の1人の〈わたし〉への想像力を豊かにし、創価学会が誰にとっても、日常では得られない意味での居心地のいい、楽しい場所になっていくこと。
そこにこそ、「中間団体」としての宗教団体の価値が生まれてくるし、創価学会が幅広い人の共感を得ながら、次の100年へ続いていくサスティナビリティ(持続可能性)の〝肝〟があるように思います。
連載「広布の未来図」を考える:
第1回 AIの発達と信仰
第2回 公権力と信仰の関係
第3回 宗教を判断する尺度
第4回 宗教者の政治参加
第5回 「カルト化」の罠とは
第6回 三代会長への共感
第7回 宗教間対話の重要性
第8回 幸せになるための組織
第9回 「平和の文化」構築のために
第10回 今こそ「活字文化」の復興を
第11回 アニメ・マンガ文化
第12回 「正義」と「寛容の対話」
第13回 包摂し活かすのが「中道」
第14回 創価学会の持つ〝宗教性〟とは
特集 世界はなぜ「池田大作」を評価するのか:
第1回 逝去と創価学会の今後
第2回 世界宗教の要件を整える
第3回 民主主義に果たした役割
第4回 「言葉の力」と開かれた精神
第5回 ヨーロッパ社会からの信頼
第6回 核廃絶へ世界世論の形成
第7回 「創価一貫教育」の実現
第8回 世界市民を育む美術館
第9回 音楽芸術への比類なき貢献
「池田大作」を知るための書籍・20タイトル:
20タイトル(上) まずは会長自身の著作から
20タイトル(下) 対談集・評伝・そのほか
三代会長が開いた世界宗教への道(全5回):
第1回 日蓮仏法の精神を受け継ぐ
第2回 嵐のなかで世界への対話を開始
第3回 第1次宗門事件の謀略
第4回 法主が主導した第2次宗門事件
第5回 世界宗教へと飛翔する創価学会
「政教分離」「政教一致批判」関連:
公明党と「政教分離」――〝憲法違反〟と考えている人へ
「政治と宗教」危うい言説――立憲主義とは何か
「政教分離」の正しい理解なくしては、人権社会の成熟もない(弁護士 竹内重年)
今こそ問われる 政教分離の本来のあり方(京都大学名誉教授 大石眞)
宗教への偏狭な制約は、憲法の趣旨に合致せず(政治評論家 森田実)
旧統一教会問題を考える(上)――ミスリードしてはならない
旧統一教会問題を考える(下)――党利党略に利用する人々
「フランスのセクト対策とは」:
フランスのセクト対策とは(上)――創価学会をめぐる「報告書」
フランスのセクト対策とは(中)――首相通達で廃止されたリスト
フランスのセクト対策とは(下)――ヨーロッパでの創価学会の評価
仏『ル・モンド』の月刊誌がフランスの創価学会のルポを掲載――その意義と背景





