「離脱」で見えてきた公明党の影響力
――前回(「第11回 アニメ・マンガ文化」2025年9月24日)から1カ月以上も空いてしまいましたが、その間、自民党の総裁選、公明党の連立離脱、自民党と日本維新の会の閣外協力による〝連立〟政権樹立、公明党の下野、高市早苗・自民党総裁による憲政史上初の女性総理の誕生など、永田町では大きなトピックが続きました。
青山樹人 しかも外交日程が重なって、早速10月27日にはアジア歴訪中のトランプ米国大統領が来日するなど、さまざまな局面で政治がショーアップされた1カ月だったように感じています。
ともあれ、創価学会が支持・支援する公明党は、1999年10月から始まった自民党との連立に、ひとつの区切りをつける判断をしました。
苦渋の決断ではあったと思いますが、自民党の「政治とカネ」を曖昧にしたままでは、連立は続けられないということだったと理解しています。
四半世紀の協力関係が少なくとも政党間では終わるので、公明党の選挙戦略も抜本的に練り直しを余儀なくされますね。
一方で離脱を機に、単純計算で1つの小選挙区あたり2万票とも3万票とも言われる「公明票」の行方にも大きな注目が集まっています。
今後、公明党が小選挙区に候補者を立てて自力で勝てる可能性はほぼゼロです。机上の理屈で考えれば、他の政党と何らかの選挙協力を結んで、たとえば公明党候補者を〝野党統一候補〟にする場合は当選する可能性もあり得るでしょう。
あるいは、その小選挙区の候補者の顔ぶれを比較検討するなかで、与野党問わず、人物や政策、公明党とのコミュニケーションにおいて信頼できる候補者がいれば、その候補を応援したいという声が地元の支持者から出てもおかしくないと思います。
もっと言えば、選挙は常に「最善」ではなく「よりマシ」を選択するものです。
どちらも「最善」とは思えないAかBかの有力候補がいて、Aという候補者を議会に送るくらいであれば、B候補のほうがまだマシだと判断すれば、消極的理由ではあるけれども、B候補に1票を投じようというのも、有権者としては大切な判断です。
JX通信社の米重克洋・代表取締役は、2024年の衆議院選挙のデータをもとに計算して、公明票があったことで当選した自民党議員の数を52人と試算しています。
公明党との選挙協力がなければ、単純計算で52人が落選していたということです。
さらに米重氏は、それとは別に10選挙区で自民党候補と次点候補の得票差が5ポイント以内の接戦になることもわかったと公表しています。
また、もしも公明党が野党と選挙協力した場合、
公明票が単に自民党候補から流出するだけでなく、野党候補の得票に上積みされる可能性がある。2024年衆院選の結果に基づき、1選挙区あたり約2万票の公明票があると仮定すると、自民候補と野党候補の間で4万票分の得票差へのインパクトが生じる。このような動きが全国に広がれば、影響は52選挙区どころではなく、飛躍的に拡大する。(米重克洋「自公連立解消により、次期衆院選に生じる影響を選挙結果から試算してみた」/「Yahoo!ニュース」10月12日)
としています。
もちろん、これまで公明党との連立を組んでいたから自民党を忌避していたという保守層も一定数はいたかもしれません。
しかし、極右の小政党がいくつも生まれてきている現状で、公明票の抜けた穴を自民党が取り戻せるかどうかは、きわめて不透明だというのが、米重氏も含めて多くの識者らの一致した見方のようです。
公明党だけが持つ3つの力
――今まで、ともすれば「自公連立」とひとくくりにされて、公明党の実績や役割がほとんど多くの国民に見えなかったように思います。
青山 連立を離脱したことで、いろんな意味で公明党が日本政治に果たしてきた役割の大きさがクローズアップされた印象ですね。
これまでは「公明党は自民党のブレーキ役を果たせていないのではないか」という声がよく聞かれました。ところが、公明党が離れ、入れ替わりに日本維新の会が加わったことで、「公明党というブレーキ役がいなくなり、維新というアクセルだけが強くなった」と、それこそ維新の生みの親である橋下徹氏を含め、さまざまな人が不安や危惧を口にしています。
いずれにしても、今後は「少数与党の時代」「多党制の時代」が続くのではないかと言われています。
1955年から続いた自民党政治の時代に対し、2000年代に入るあたりから「二大政党制」への期待がメディアでも盛んに語られ、2009年には政権交代が起きました。
しかし、実際に民主党政権の3年3カ月を経験してみて、政権運営や統治の経験がない政党がいきなり政権を預かることの危うさを、多くの国民が実感しました。
とはいえ、今度は2012年以降の長い政治の〝安定〟が、いつしか〝停滞〟を生んでしまった――少なくとも現役世代の有権者たちにそのように感じさせてしまった――ことが、今の少数与党という状況に至った要因です。
――多党制の時代に入ると、下野した公明党にも新たな役割が期待されそうですね。
青山 そのとおりです。先ほど述べたように、まず公明党がどう動くかで、今の自民党の50人から場合によっては100人近い議員の当落が左右されかねない事実があります。
仮に、自維政権の執行部が公明党をあからさまに排除するようなことをすれば、むしろ自民党の内部で大きな反発や不協和音が生じるかもしれません。
一方で、今の野党が何らかの形で協力して政権奪取を考える場合、どの政党にもない、公明党だけが持っているものが3つあるのです。
1つめは、ポピュリズムに流されない強固な支持基盤です。もちろん、これまでも公明票は支持母体の創価学会だけでなく、さまざまな団体や無党派層の支持を受けてきました。
とはいえ、やはり公明党の支持母体に匹敵するような基盤は、日本社会には見当たりません。
2つめは、「チーム3000」と呼ばれる、全政党のなかで最多の地方議員のネットワークです。自民党の場合は地方議員の多くは「保守系無所属」であり、同じ自民党系でも別々の国会議員につながっている場合が多い。
公明党は、島しょ部まで含めてほとんどの自治体に議員がいる上、国会議員との連携、自治体の枠を越えた横の連携がフラットで機動的です。
しかも、多くの自治体では議会で与党を形成して首長を支えています。
3つめは、足掛け26年間の国政での与党経験です。法律を策定し、政策を実現するためには、現実には官僚機構を動かしていかなければなりません。
少子高齢社会のなかで、予算をどのように生み出すのかというシビアな課題もあります。
公明党は、政策を実行するためには、官僚機構のどこをどう動かせばいいのかを熟知しています。
民主党政権が3年3カ月しかもたなかったのは、「政治主導」の名のもとに、報道陣の前で官僚をつるし上げるパフォーマンスばかりやって、官僚機構が機能不全に陥ったことも大きいのです。
――たしかに、この3つは、公明党だけが持っているものですね。
霞が関官僚は公明党を重視
青山 多党制の時代に入って、単に政局が混迷するだけでは、ますます日本の国力が衰退し、国民が苦しむことになります。
その意味では、霞が関の官僚たちも今まで以上に公明党を重視しているようです。先日の日本経済新聞の連載に、次のような記事が出ていました。
自民党を中心とした連立政権か、野党が手を組んでの政権交代か。混迷する政局を見ながら、これからどの政党との関係を重視したいかと財務省のある官僚に聞いた。
「公明党ですね」
自民・公明の連立は26年で区切りを迎えた。過半数の議席を持たない勢力が乱立する多党制の到来を決定づけたが、多数を獲得するための動きは必ず起きる。官僚にとっては、政権与党を担ってきた公明党は行政が「分かっている」。霞が関は当面、同党が軸の1つになると見る。(『日本経済新聞』10月26日「多党制時代に望む(4)政策主導で安住抜け出せ」)
多党制で合意をつくる結び目となるのは政策しかない。多くの政府の会議に参加してきた日本製鉄の三村明夫名誉会長は「官僚の力を引き出す政権はうまくいく。いまは霞が関が政策立案力を発揮する好機といえる」と話す。(同)
四半世紀の経験のなかで、霞が関の官僚たちは公明党の国会議員の政策立案能力や、それを現場に落とし込んでいく地方議員の能力を目の当たりにしてきています。
霞が関で働いている何人かの官僚に聞いても、公明党への評価は高いです。他党のように横柄な議員はいないし、どの議員も専門性が高くて、よく勉強しているから話が通じる。
官僚は、やはり優秀です。公明党の議員たちとなら、その優秀な能力や手腕を存分に発揮できる。
官僚も国のためにいい仕事をしようと思ったら、この日経の記事にあるように、少なからぬ官僚たちは公明党との関係を重視したいと考えるのでしょう。
逆に言うと、公明党のいない政権、ましてそれが統治経験のない野党だけの連立みたいなものになると、現実問題として民主党政権のときのように、官僚の力を引き出せない政権になってしまいかねません。
――これまで与党にいた時代は、どうしても与党内での整合性が優先されて、公明党が望む政策、公明党らしい政策が前に出せなかったと思います。野党になったことでデメリットもある一方、〝公明党らしい政策や主張〟を遠慮なく出せるようになったのではないでしょうか。
青山 気のせいか、斉藤代表や西田幹事長はじめ、公明党の執行部の人たちの表情が晴れやかになりましたね。
多党制の時代は、ある意味で群雄割拠の乱世の時代ですが、先ほど述べたように公明党には他のどの政党も持っていない3つの力があります。
そのときどきの民意がどのような政党の組み合わせを選んだとしても、公明党が加わるか否かで、その能力は大きく違ってくる可能性があります。
こうしたことが、ある意味で多くの国民の共通認識になっていくくらい、公明党は賢明に、また粘り強く腰を据えて、人々に届く情報発信を続けていってほしいと思います。
「敬意を抱きつつ対話を楽しむ」
――公明党の存在がさまざまな党派や勢力にとって無視できなくなる状況というのは、とりわけSNS時代にあって、支持者の側にも新しい課題が求められてくるのではないでしょうか。
青山 おっしゃるとおりです。むしろ、今回は一番そこを話したいと思っていました。
公明党の存在が重要になってくると、肯定的な意見も、逆にネガティブな誹謗中傷も、今まで以上に増えるかもしれません。
また、今は意図的に〝炎上〟させることで、アクセス数や再生回数による収入を目的としている発信者も多数います。
金儲けのために、わざと創価学会や公明党を中傷して、そこに同調する者はもちろん、憤慨する熱心な学会員や公明党支持者も誘い込もうとするアカウントは、既に多数あります。
――かつて、週刊誌がガセ情報さえ平気で利用して創価学会批判を頻繁に繰り返していたのと同じ構図ですね。学会をネタにすれば、学会員にもアンチにも売れたからです。
また、近年は外国からの「認知戦」が、いよいよ日本の世論形成にも影響を与え始めたと指摘されています。戦争といってもミサイルが飛び交うだけが戦争ではありません。
日常のなかでSNSなどを介して、その国の政治への疑念を強め、分断を煽り、社会そのものを不安定化させ弱体化させたりといったことが、既に地球規模で起き始めています。
青山 そういう意味では、創価学会員の側にも、これまで以上にリテラシーが求められる時代に入ってきました。
また、創価学会の「世界宗教化」を考える上でも、私たち自身の考え方をアップデートしていかなければならない面が出てくるでしょう。
池田先生は何度も〈悪を滅するを「功」と云い、善を生ずるを「徳」と云うなり〉(御書新版1062ページ)という『御義口伝』の一節を引かれて、言論戦の姿勢を教えてくださいました。
邪悪な聖職者の策謀や、不当な中傷の言論に対して、民衆が黙っていてはいけない。人々を惑わし不幸にしていくものと戦う生命に功徳が生じてくるのだと。
電光石火で、デマを打ち破っていく。人々を不幸にする卑劣な言論に対しては、徹底的にその非を明らかにしていく。これは、永遠に失ってはならない大事な折伏精神です。
その一方で、池田先生が生涯をとおして示されたのは「開かれた対話」の重要さです。
池田先生と対談集を編んだ1人に、「世界人権宣言」の起草にも携わった、ブラジル文学アカデミーの故・アタイデ総裁がいます。アタイデ総裁は先生との対談集『二十一世紀の人権を語る』のなかで、
池田会長は、「武力」を「対話」へと変え、人類を調和へと導いておられる。すべての悪の脅威に打ち勝つものは、「対話」による相互理解と連帯の力であることを、「行動」をもって教えてくれています。(『二十一世紀の人権を語る』潮出版社)
と述べられています。
「対話」において大事なことは、なによりも相手への敬意であり、差異を乗り越えていこうとする意志です。
信仰者にとって、自身の信仰への揺るぎない確信を持つことは、もちろん重要なことでしょう。
しかし、それが「自分のほうが正しく、優れている」「相手は間違っており、劣っている」という前提からのスタートになってしまうと、もはや相手への敬意を欠いた〝独善〟です。それこそ〝差異へのこだわり〟そのものです。
――これは、ともすれば信仰者が陥りがちな落とし穴かもしれませんね。
青山 ジョン・デューイ協会の元会長で、池田先生と鼎談集を編んだジム・ガリソン博士は、鼎談のなかでこう述べています。
大切なのは、敬意を抱きつつ対話を楽しむという、ある程度の〝陽気さ〟を持ち続けることではないでしょうか。何でもいいのです。常に互いの差異を尊重しつつ、悪意のない冗談や親交そのものを楽しみながら可能性を探っていくのです。(『人間教育の新しき潮流』第三文明社)
池田先生はこの発言を受けて「大事なご指摘です」とし、ガンジーが「よく笑う人」であったという逸話を紹介されています。そして、
深刻な状況や、ある種の膠着状態を打開していくには、交渉力のような技術はもちろん大切です。とともに、不屈にして朗らかな〝心の明るさ〟――人々の気持ちを一つにまとめていく逞しき楽観主義が不可欠です。(同)
と応じられています。
「悪と戦う」といっても、片っ端から批判や異論を攻撃するというようなものではないのです。それでは単なる〝不寛容〟になってしまいます。
先生はまた、「口は一つ、耳は二つ」として「よく聴く」努力が大切だと語られ、次のようにも示されています。
「この人は、どのようにして、こうした考えをもつに至ったのだろうか」「この話を通して何を伝えようとしているのか」「本当に訴えたいことは、実はまだ言葉になっていないのでは……」など、相手の心を受け止める、こちら側のアンテナの感度も大切な要件でしょう。
さらにいえば、仏法の菩薩道の実践の上から、話を聴くということは、他者の苦しみに〝同苦〟するという全人的な行為でもあります。(同)
「友敵論」に回収されてはならない
――多党制の時代というのは、言い換えれば、さまざまな価値観の人たちが並び立つ時代ということでもありますね。
青山 そうです。だからこそ、単純な「善と悪」「正義と悪」のような視線で他者を見てはならないし、「友か敵か」という「友敵論」に安易に回収されてはならないのです。
長いあいだ、社会の無認識や、不当な誹謗中傷にさらされてきた側の心情として、学会員が批判に過敏になるのは無理からぬことかもしれない。
少しでも肯定的な評価をしてくれる識者などがいれば、「あの人は理解者だ」「正視眼で見てくれている人だ」と嬉しく感じるかもしれません。
それが自然な人情であることは百も承知です。しかし、これからの時代は、肯定にも否定にも、もう少し大らかな気構えでいくことが大事だとも思うのです。
とりわけ、政治や宗教を扱う学者であれば、どの政党や教団に対しても、基本的には等距離で中立的な立場でないといけません。もちろん、真摯な姿勢で深く分け入って研究し、ある側面に関して肯定的な評価や激励をくださる場合もあるでしょう。
それでも、それは学者としての公平な立場から研究対象への評価です。批判される場合も同じです。
別に私情として「よき理解者」「応援団」になっているわけではない。もちろん、実のところはわかりませんよ。しかし、そんなふうに見られれば、学者・研究者としての立ち位置に疑問符が付きます。
創価学会にとって「信教の自由」「言論の自由」はなによりも大切なものです。だからこそ、他者の「内心の自由」「言論の自由」にも最大限の尊重をしなければなりません。
SNSは個人の素朴な〝つぶやき〟であるとはいえ、世界に公開された言論空間でもあります。
何をポストするのも個人の自由であることは当然ですが、褒められたにせよ、貶されたにせよ、いちいち大勢で絡んでいく結果になれば、端的に相手に迷惑だし、社会からは異様な集団に映りかねません。
先ほど述べたように、稼ぐことを目的とした発信者の〝いいカモ〟に利用されてしまいます。
もちろん、看過できない犯罪に近いような悪質なデマや中傷には、学会や公明党から公式に毅然と対処してもらいたいと思っています。
――先日、とある保守派の政治家が公明党に対して、公開の動画配信で「100%中国に操られている公明党」という悪質な中傷をしました。この政治家は議論にも応じませんでしたが、それに対して、即座に前衆議院議員の伊佐進一氏が、ウルトラ保守層の牙城である「虎ノ門チャンネル」に出向いて、ジャーナリストの須田慎一郎氏と公開で対談しました。
青山 私は、あれがひとつの新しい言論戦のあるべき姿だと感じました。単にSNS上で批判の応酬をするのではなく、相手に会いに行く。しかも、終始一貫して、相手からも学び、意見の異なる相手との対話そのものを楽しんでいる姿勢が溢れ出ていましたよね。相手の須田氏も楽しそうでした。
ガリソン博士が言われた「敬意を抱きつつ対話を楽しむという、ある程度の〝陽気さ〟を持ち続けること」も、池田先生が言われた「人々の気持ちを一つにまとめていく逞しき楽観主義」も、伊佐さんの姿勢にはあったように感じました。
亀井静香氏と斉藤代表の友情
青山 相手の思い込みによる誤解については、きちんと理を尽くして解きほぐしていく。しかし、別にマウントを取りに行くとか、優劣の決着をつけるとかいうものではない。
むしろ、少なくとも相手は「不倶戴天の敵」だと思っていたかもしれないのに、終始、真剣でありながら楽しそうな、そして誠実な、どこか互いに敬意を示し合うような対話になったと思います。
思想信条は互いに遠い隔たりがあったとしても、開かれた心で対話をしていく。思いの一致点を探していく。それが積み重なっていけば信頼が生まれるでしょう。友人として率直に議論もできるし、助言もできるようになる。
誤情報について、「これは本当なの?」と確認もできる。こちらの気づいていないことを忠告してもらえることもあるかもしれない。
それこそ、池田先生はそういう姿勢で、中国やソ連(当時)の指導者たちとも信義を交わしてきました。
1974年9月の第1次訪ソの際、ソビエト共産党国際部で対日外交の責任者だったイワン・コワレンコ氏が、池田先生の宿舎に乗り込んできて「日中平和友好条約」に反対するよう迫ったことがありました。
コワレンコ氏は第二次世界大戦中に心理工作戦を担当した人物です。氏は先生に対し、「ソ連はもう一度、日本と戦争をする力がある」とまで言って、テーブルをドンドン叩いて大声を上げたのです。
すると先生は、笑顔で「手は痛くありませんか?」と返して、「日中平和友好条約ができても、それ以上に強固な、日ソ平和友好条約を結べばいいじゃないですか」と応じています。
恫喝に対しても笑顔で応じ、しかも信念がぶれない。コワレンコ氏は一気に先生という人間への信頼を深めたのでしょう。
訪ソの実質的な最終日に、先生と会見したコスイギン首相は、「こういう優れた日本人をどこで見つけたのですか」と言い、これからも密接な関係を保つようにコワレンコ氏に指示しています(中澤孝之『ゴルバチョフと池田大作』角川書店)。
――米国とキューバの関係が悪化し、第2のキューバ危機といわれた1996年に、先生はキューバの指導者、カストロ議長と会見しています。この折も、率直に議長には耳の痛い話もし、助言もされたことを『私の世界交遊録』(読売新聞社)に綴られています。
青山 公明党と中国の関係も、そういう関係なのだと思います。もちろん外交ですから、報道にはにこやかな笑顔の写真を出すけれども、日本の国益を第一にするのが公明党の当然の責務ですし、〝長年の友人〟として言うべきことは言う。相手の思っていることも聞く。だから信用される。
繰り返しになりますが、人情として、肯定的なことを言われれば嬉しいし、理不尽に思えることを言われれば腹も立つ。誤解があれば解く必要があるし、デマは打ち破っていかなければなりません。
それはそれとして、単純に「敵か味方か」「友か敵か」「善か悪か」という二分法で他者と向き合うことのないように、1人1人が心がけていくべきではないかと思うのです。
1994年に「四月会」の生みの親となり、閣僚でありながら「創価学会の粉砕」を叫んで、政界や宗教界を動員して創価学会攻撃への運動を仕掛けたのが、当時の自民党の亀井静香氏でした。
同じ高校の後輩であった斉藤鉄夫・現公明党代表は、その亀井氏とも信頼関係を築いて、言うべきことは言ったうえで、友情をはぐくんできた。
先日、亀井氏は斉藤代表との対談を「公明党のサブチャンネル」で公開し、当時の自分の行為を「俺は馬鹿だった」「間違っていた」と率直に述べられました。
どんなに思想信条や信仰が異なる相手であったとしても、根底の部分で敬意をもって向き合っていく。良きにつけ悪しきにつけ過敏に反応せずに、大らかな心で、朗らかに接していく。
日蓮大聖人が『立正安国論』で示された対話の姿も、そういうものでした。SNSによって多様な価値観が可視化されていく時代、多党制の時代だからこそ、私たちは1人1人が「対話の名手」になっていきたいと思うのです。
連載「広布の未来図」を考える:
第1回 AIの発達と信仰
第2回 公権力と信仰の関係
第3回 宗教を判断する尺度
第4回 宗教者の政治参加
第5回 「カルト化」の罠とは
第6回 三代会長への共感
第7回 宗教間対話の重要性
第8回 幸せになるための組織
第9回 「平和の文化」構築のために
第10回 今こそ「活字文化」の復興を
第11回 アニメ・マンガ文化
第12回 「正義」と「寛容の対話」
特集 世界はなぜ「池田大作」を評価するのか:
第1回 逝去と創価学会の今後
第2回 世界宗教の要件を整える
第3回 民主主義に果たした役割
第4回 「言葉の力」と開かれた精神
第5回 ヨーロッパ社会からの信頼
第6回 核廃絶へ世界世論の形成
第7回 「創価一貫教育」の実現
第8回 世界市民を育む美術館
第9回 音楽芸術への比類なき貢献
「池田大作」を知るための書籍・20タイトル:
20タイトル(上) まずは会長自身の著作から
20タイトル(下) 対談集・評伝・そのほか
三代会長が開いた世界宗教への道(全5回):
第1回 日蓮仏法の精神を受け継ぐ
第2回 嵐のなかで世界への対話を開始
第3回 第1次宗門事件の謀略
第4回 法主が主導した第2次宗門事件
第5回 世界宗教へと飛翔する創価学会
「政教分離」「政教一致批判」関連:
公明党と「政教分離」――〝憲法違反〟と考えている人へ
「政治と宗教」危うい言説――立憲主義とは何か
「政教分離」の正しい理解なくしては、人権社会の成熟もない(弁護士 竹内重年)
今こそ問われる 政教分離の本来のあり方(京都大学名誉教授 大石眞)
宗教への偏狭な制約は、憲法の趣旨に合致せず(政治評論家 森田実)
旧統一教会問題を考える(上)――ミスリードしてはならない
旧統一教会問題を考える(下)――党利党略に利用する人々
「フランスのセクト対策とは」:
フランスのセクト対策とは(上)――創価学会をめぐる「報告書」
フランスのセクト対策とは(中)――首相通達で廃止されたリスト
フランスのセクト対策とは(下)――ヨーロッパでの創価学会の評価
仏『ル・モンド』の月刊誌がフランスの創価学会のルポを掲載――その意義と背景





